第二十六章 天竜宇川の風と夢
梅雨が過ぎ去り、夏の気配がほんの少しだけ感じられる七月のはじめ。田村誠は、いよいよ近づく公務員試験に胸の奥で小さな火を灯しながらも、依然として職場での激務と人間関係の苦しみに疲弊しきっていた。副所長の佐野の陰湿な根回しによって、相変わらず業務量は田村に偏り、体と心は限界の縁に立っていた。
「おう、田村くん。少し気晴らしに釣りに行かんか?」
突然、職場の西谷が声をかけてきたのは、ある夕方のことだった。
「釣り……ですか?」
田村は驚いた顔を見せた。
「そうや。俺がよく行っとる、兵庫の天竜宇川。アユ釣りやけど、気分転換になる思うで。明日、休みやろ? 一緒に行こうや」
西谷の目はどこか優しく、誘いは唐突だったが、田村の凝り固まった心にぽっと灯りがともった。
翌朝、まだ空が薄青く明け始めた頃、二人は車で岡山を出発した。
窓の外には夏の終わりを告げる蝉の声が遠く響き、田村は窓際に顎を乗せて無言で景色を眺めた。
西谷は運転席で黙々とハンドルを握り、無駄な会話はなかった。
ただ、二人の空気はどこか穏やかだった。忙殺される日々の喧噪から離れて、時間だけがゆっくりと流れていた。
目的地の天竜宇川に到着すると、澄み切った水が静かに岩をなでるように流れていた。
川岸には、細かい砂利が敷き詰められ、湿った土の匂いとともに涼風が吹き抜ける。
周囲には何人かの釣り人がいて、竿を静かにたゆたわせ、アユを釣り上げていた。
水面が光を受けてキラキラと輝き、釣り人たちの歓声や竿を引く音が川の澄んだ空気に溶け込んでいる。
西谷は持参した長い釣竿をゆっくりと伸ばし、天に向けてかざすように構えた。
その姿はまるで水面にそびえる一本の松の枝のようで、田村はその姿に少し羨ましさを感じた。
田村はその光景を眺めながら、竿を握る手に力が入らなかった。
「やってみい。慣れたら楽しいで」
そう言われて田村も竿を手に取るが、釣り糸は川の流れに馴染み、魚の気配は一向に感じられなかった。
時間はゆっくりと過ぎていき、アユは一匹もかからない。静かな沈黙が二人の間に広がった。
ふと隣の釣り人の動きを目で追った。彼らは小気味よくアユを釣り上げ、竿のしなりを楽しんでいる。
「向こうの人らは、よぅ釣っとるなぁ……」
西谷の声は少し震えていた。
「うちのおとりアユ、元気がないんかな……」
彼は水面をじっと見つめ、澄んだ流れの中でおとりのアユがゆっくり泳ぐ姿を思い浮かべた。いつもならぴちぴち跳ねるはずなのに、今日はどこかおとなしく、力なく漂っている気がしたのだ。
「なんだか、俺たちも川に見放されたみたいでな」
そう呟きながら、西谷は竿を軽く握り締め、風に乗る川の匂いを深く吸い込んだ。
その瞬間、田村も自分の心がひそかに沈み込んでいるのを感じた。
アユが釣れないのは、ただの運や技量だけじゃない、川の流れが二人の間に冷たい壁を作っているかのように思えた。
しかし、西谷は静かに言った。
「焦らんでええ。今日はこういう日や。川も心も、いつも思い通りにはいかんのや」
その言葉が、夏の終わりの天竜宇川の風に乗って、田村の胸にじんわりと染みわたった。
昼が近づくと、二人は川岸に腰を下ろし、持参したカップラーメンの湯気を立てた。
湯気は風に流され、薄い白い膜となって空へ溶けていく。
「外で食べると、何でも少しだけうまく感じるな」
田村がぽつりと言うと、西谷は口元を緩めて頷いた。
「せやな。こういうのが時には必要や。仕事のことは忘れてな」
会話は少なく、しかしその穏やかさに何か救いがあった。
午後になると、釣り竿を片付け、車に戻った。
帰り道、西谷はふと口を開いた。
「今日は俺のおごりや。夕飯は近くのステーキ屋でゆっくり食おうや」
田村は驚きながらも、その言葉にほっとした気持ちを覚えた。
ステーキ屋の扉を開けると、香ばしい肉の匂いとジューという焼ける音が店内に満ちていた。
田村は厚切りのステーキを前に、緊張と疲労で縮こまった体を少しずつほぐしていくのを感じた。
「ありがとう、西谷さん」
箸を置き、感謝を伝えると、西谷は穏やかに笑った。
「お前は頑張っとる。無理せんと、ゆっくり行こうや」
車で帰路につくと、夜風が窓をすり抜け、星空が静かに輝いていた。
田村は天竜宇川の澄んだ流れと西谷の言葉を胸に刻み、心の中で誓った。
「必ず、試験に合格して、新しい一歩を踏み出そう」
あの日、天竜宇川の風は、疲れた心に静かな希望を吹き込んだのだった。