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第二十五章 沈黙の支配者たち


梅雨が長引き、職場の空気はますます重く湿っていた。田村の目には、どの顔もかつての明るさを失い、張り詰めた緊張に飲み込まれているように映った。


田村は朝の中央監視室でモニターをじっと見つめていた。ポンプの運転状況は正常だが、心は晴れない。


「おはようございます、田村くん」


声をかけてきたのは藤枝健司だった。かつては冗談ばかり言っていた彼も、今はどこか影を潜め、声がかすれている。


「おはようございます、藤枝さん」


藤枝は溜息をつき、壁際の椅子に腰かけた。


「最近、佐野さん(副所長)がやけにきつくてな……俺も、もう限界や」


田村は無言でうなずいた。


数日前、藤枝は配管の点検中にミスを犯した。部品の取り付け位置を間違え、軽い故障を引き起こしてしまったのだ。


副所長の佐野は怒鳴りつけ、周囲のスタッフの前で厳しく叱責した。


「藤枝! こんな初歩的なミスをするとは情けない! お前の仕事のせいで、全体の稼働率が落ちるんだぞ!」


藤枝は謝罪したが、佐野の態度は一向に和らがなかった。


「お前ももう若くない。気を引き締めろ」


その後、藤枝は明らかに職場での居場所を失い、整備室で過ごす時間が増えた。田村にはその苦悩が伝わってきた。


一方、西谷もまた、副所長の圧力に苦しんでいた。


「最近、佐野がやたらと仕事を増やしてきてさ……俺も疲れてるのに」


西谷は小声で話し、視線を伏せる。


彼は施設の維持管理部門の中でも重要な役割を担っているが、年齢とともに体力が衰え、無理が効かなくなっていた。


それを見抜いた副所長は、仕事の割り振りを巧みに変え、無理にでも西谷を動かそうとした。


藤巻もまた、同様の扱いを受けていた。副所長は彼らに直接的な命令や批判は避けつつも、職場の空気で圧をかけ、反抗を許さなかった。


「田村くん、これも頼むわ。今日はお前が頑張らんとみんな回らんからな」


佐野は田村に書類仕事や点検、管理業務を次々と押し付けた。


「でも、西谷さんも藤枝さんも、今日は割り振りに余裕がありましたよね?」


田村が言い返す間もなく、佐野は冷たい視線を送った。


「協力し合うのがチームワークや。お前は新人やからって甘えるな」


職場の昼休み、田村はこっそり藤枝と西谷のもとへ足を運んだ。


「藤枝さん、あの……」


藤枝は疲れ切った顔で顔を上げ、田村を見る。


「ようやってくれたわ。誰も声を出せんかったからな……」


西谷も頷きながら小声で言った。


「佐野には逆らえん。俺らも巻き込まれたら困る」


田村は孤独じゃないことを知りながらも、現実の厳しさに胸が締めつけられた。


午後の作業中、副所長は書類に目を光らせながら職員たちを睨みつけた。


「何やってるんだ、手際が悪いぞ」


藤枝は声を震わせながら言い訳をしたが、聞き入れてもらえなかった。


日々の圧力に押しつぶされそうになりながら、田村は自宅で一人静かに手帳を開いた。


《6:007:30 活性炭交換》

《8:0010:00 配管検査》

《10:3011:30 書類作成》

《13:0017:00 監視、点検》

《残業2時間》


膨れ上がる業務と緊張感。体は悲鳴を上げ、心も擦り切れていった。


夜、田村はベッドに横たわり、目を閉じた。


「これ以上、続けられるのか……」


窓の外からは、遠くで車の音と雨の音が混ざって聞こえた。


ある日、佐野が全体ミーティングを開いた。


「最近、職場の士気が低下している。皆、お互いに協力して、この困難を乗り越えてほしい」


その声は威圧的で、言葉の端々に圧力が滲んでいた。


藤枝、西谷、藤巻、そして田村は、目を合わせることもできなかった。


ミーティング後、藤枝が田村のそばに寄った。


「田村くん……無理すんなよ。俺ももう限界や」


田村は静かにうなずいた。


そんな中、田村は医者の友人・佐藤博から聞いた市役所の技術職公募に心を揺らされていた。


仕事に追われる日々の中で、「逃げるんやない。生き直すんや」という言葉が何度も脳裏をよぎった。


田村は決意を固めた。


「このままじゃ、俺も壊れてしまう。市役所に挑戦しよう」


それから数日、田村は隙間時間を使って市役所の試験勉強を始めた。職場のプレッシャーは続くが、心のどこかに新たな希望が芽生えていた。


職場では依然として副所長の支配が続いていた。藤枝や西谷も、何とか耐えている。


だが、彼らの目にわずかに輝きが戻りつつあるのを田村は感じていた。


そんなある日、佐野が田村を呼びつけた。


「お前、最近やたらと元気だな。何か企んでるんじゃないだろうな?」


田村はわずかに微笑みを浮かべた。


「いえ、特に」


だが心の中では、新しい未来を確かに描いていた。


職場の空気は重いが、田村の心には確かな光が差し込んでいた。誰もが耐え忍ぶなかで、彼は静かに、しかし確実に新たな一歩を踏み出し始めていた。


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