第三章:重く、静かな機械の鼓動
し尿処理施設の灰色のコンクリートに朝の陽が差し込み、まだ冷え切った空気の中に金属と油の匂いが混じり合う。27歳の誠は、新しい職場の門をくぐったばかりだった。腰に薄く汗をかきながら、敷地の奥へ歩みを進める。彼の胸の内は複雑だった。自分がこれから触れる「クリスタルうんち」と呼ばれる物質、その裏にある目に見えぬ生の連鎖。現実の重さをひしひしと感じていた。
「まこっちゃん、よう来たのう」
背後から、どこか懐かしい、無骨な声が響いた。振り返ると、西谷さんが立っていた。五十代後半の頑固一徹な職人気質。厳つい顔つきだが、目の奥にはほんのりした温かみがあった。まだ「まこっちゃん」と呼ばれるのは早い。そう伝えるかのような距離感を保っていた。
誠は軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
施設内に足を踏み入れると、目の前には巨大な金属の塊が鎮座していた。スクリュープレス脱水機。これこそがこの職場の心臓部だ。ステンレスの円筒形の筐体の中で、太く頑強な螺旋シャフトがゆっくりと回転している。内部には精密な網目が張られ、そこからし尿の水分を絞り出していた。
藤巻が近づいてきて、にやりと笑った。
「これがうちの命綱、スクリュープレス脱水機じゃ。まこっちゃん、しっかり覚えんとな」
彼は26歳、短髪の黒髪にピアスを揺らし、ちょっと不良っぽいが面倒見は良い。手製の脱水機マニュアルのコピーを手渡す。
「ほら、これ。俺が書いたんよ。図も入れてるけぇ分かりやすいと思うわ」
誠はマニュアルを受け取ると、文字と図解を丁寧に眺めた。
スクリュープレス脱水機の構造と操作
「スクリュープレス脱水機はな、し尿の水分を抜いてかさを減らす機械じゃ。水分を抜くことで後の処理が楽になるんよ」
藤巻は機械の各部を指差しながら説明を続ける。
「これがスクリューシャフト。太い鉄の棒に螺旋状の溝が彫ってある。中はステンレスの網目で覆われていて、ここから水が絞り出される仕組みじゃ」
誠は興味深げに機械の扉を開けた。冷たい空気が漂い、回転するシャフトが静かに動いている。内部は見事なまでに無駄のない設計で、緻密な機械の息遣いを感じさせた。
「扉の中に異物がないか毎回確認すること。小石やプラスチックが混ざっとると、機械が壊れて大変じゃけぇな」
誠は扉を慎重に閉め、コントロールパネルに目を向ける。圧力計、回転数表示、各種スイッチが並ぶ。
「操作はここからや。圧力は中程度、回転速度は毎分数回転が標準。速く回しすぎると摩耗が早くなって故障の原因になる」
誠はマニュアルに書かれた手順通り、慎重にダイヤルを回した。スタートボタンを押すと、機械は低くうなり始め、静かな振動が体に伝わる。
「音と振動をよく聞くこと。異常があればすぐ非常停止ボタンを押すんじゃ」
藤巻の言葉が重い。誠は耳を澄ませ、機械の生き物のような呼吸を感じ取ろうとした。
「ほら、これが終わった後のクリスタルうんちじゃ」
藤巻が示したのは、絞り出された茶褐色の固形物だった。光を受けて琥珀のように美しく輝くそれは、一見して穢れを感じさせなかった。
「こんな美しいもんは他にないわ。見た目はきれいじゃけど、臭いはキツい。取り扱いは慎重にな」
誠は複雑な思いを胸に、そのクリスタルうんちの輝きを見つめた。これを扱う自分の仕事は世間には知られぬけど、やりがいのある誇り高きものだと感じた。
西谷さんは黙々と作業しながらも、時折こちらを気にかけてくれる。厳しいが教え上手な彼は、誠の動きをしっかりと見ている。
「焦らず、ゆっくり覚えればええ。最初は誰でもぎこちない」
時折ポツリとつぶやく言葉に、誠は励まされる思いだった。
「お前さん、もうすぐまこっちゃんと呼ぶ日も来るかもしれんな」
西谷さんのその言葉に誠は胸が熱くなった。まだ遠い未来のように思えたが、決して夢物語ではない気がした。
藤巻はいつも明るくて、マニュアルのコピーを片手に新人に声をかける。
「しっかり覚えんと、ええ仕事はできんけぇな。ここは甘くないけぇ、しっかりやらんと」
誠はそんな声を心に刻み、機械の音、油の匂い、そして「クリスタルうんち」の世界に少しずつ馴染んでいった。
夜の将棋盤の前で
部屋に戻った誠は一人、将棋盤の前に座った。駒を並べると、自然と心が落ち着いた。将棋を考える時間は頭の中が浄化される。勝負の厳しさと公正さが、彼の心を静めてくれる。
「負けても次がある。負けて強くなる」
そう自分に言い聞かせながら、誠は次の日の仕事へ向けて気持ちを整えた。
誠の新しい一歩はまだ始まったばかりだ。重厚な機械の鼓動とともに、彼はゆっくりと、しかし確かに歩みを進めていく。