第二十四章 沈黙する手帳
夏が近づき、施設全体が湿気と焦燥に包まれ始めたころ、田村の一日が異様に長くなっていた。
出勤時刻は同じでも、作業の割り振りは明らかに偏っていた。朝一番の活性炭の切り替え、続いてポンプの配管点検。午前中だけで汗まみれになり、着替える暇もないまま昼休憩。午後は中央監視室の報告書作成に呼ばれ、夕方には敷地外周の目視点検まで押しつけられる。
「悪いけど、田村くん、またこれも頼むわ。西谷さんも藤枝くんも別件で手いっぱいでな」
副所長の佐野が、やや芝居がかった口調で業務命令を下す。だが田村は知っていた。西谷はこの時間、休憩室でコーヒーを飲んでいる。藤枝は整備室でふて寝に近い居眠りをしていた。
(あからさますぎる)
田村は胸中で毒づきながらも、表情は変えなかった。反抗すれば、さらに悪化する。逆らえば、「協調性がない」とされるだけだ。沈黙を貫くしかない。
日報に記録する時間さえ惜しく、田村は小さな黒い手帳に今日の業務を書きとめるようになった。
《5:55 出勤》《6:107:30 活性炭切替》《8:0010:30 配管点検》《11:00~11:50 書類作成(佐野指示)》……
手帳のページはすぐに埋まった。勤務時間はどんどん伸びた。休日出勤も増え、代休は取らせてもらえなかった。月の残業時間は40時間を超え、睡眠時間は5時間を切る日が続いた。
食欲は落ち、帰宅後の晩酌の缶ビールさえ半分も飲めず、気づけば布団の中でため息をついていた。
——俺は、何のためにここにいるんやろう。
風呂に入る気力もなく、田村は濡れた作業着のまま床に倒れ込んだ。
ある日曜の朝、体がまったく起き上がらなくなった。手足に力が入らず、起きようとすると視界が揺れる。脈拍は速く、汗が止まらない。
(やばい)
救急車を呼ぶほどではないと判断し、田村は近所の診療所を訪ねた。そこにいたのが、かつての同級生で今は開業医の佐藤博だった。
「おい田村、なんや、えらい顔やな」
「……最近、ちょっと、しんどくてな」
血圧、脈拍、血液検査。一通りの診察のあと、佐藤は腕を組んで眉をひそめた。
「ストレス過多や。完全にオーバーワーク。肝臓の値もちょっと出とるし、貧血気味やな」
「そないなっとるか……」
「ちょっと、まともに働ける状態ちゃうで。部署替えなり、休職なり、何か手を打たんと倒れるで、マジで」
佐藤は一度ため息をついてから、ふと何かを思い出したように言った。
「そういや、うちの患者で市役所勤めのやつがおってな。今度技術職の公募あるって言うてたで。水処理とかインフラ系の枠。田村、おまえ、そういうの得意やろ」
「市役所……?」
「今の職場がアカンのなら、考えてもええんちゃうか。人生、ひとつの会社に縛られる必要はないで」
その言葉に、田村の中で何かが静かに揺れた。
帰宅後、田村はPCを立ち上げ、市役所のホームページを検索した。確かに、技術職員(技能労務職)の募集が出ている。試験は三ヶ月後。筆記と面接、実務経験加点あり。
——今の自分は、何も持ってないように見えて、実は武器を蓄えてきたのかもしれない。
田村は手帳をめくった。そこにはびっしりと書き込まれた業務の記録がある。改ざんを暴いた証拠もある。積み重ねてきた時間と体力の痕跡。
——市役所に行けば、俺の仕事ぶりを正当に見てくれるかもしれん。
その夜、田村は久しぶりにビールを飲み干した。
そして手帳の裏表紙に、こう書き加えた。
《逃げるんやない。生き直すんや》




