第二十三章 揺れる現場
深夜の蛍光灯が鈍く光るリビングで、田村は小さな声で独り言をつぶやいていた。
「これで……間違いないはずや」
広げたノートには、日付ごとに記された分析値と、薬品の減少量。赤ペンで書き込まれた注釈が、明確にある傾向を示していた。使用したはずの試薬が減っていない。比色試験に使うはずの器具が、洗浄された痕跡すらない。分析値の筆跡が日によらず同じ。しかも、副所長のものと一致している。
田村はそれらを封筒に収め、翌朝の出勤時に懐に忍ばせた。
施設に到着する頃には、もう陽が高く昇っていたが、中央監視室は冷えたままだった。入った瞬間、いつものように藤枝の冗談が飛んでくるかと思ったが、彼はまだ出勤していないようだった。
午前九時。田村は、こっそり所長室の扉をノックした。
「……どうぞ」
柔らかくも抑制のきいた声が返ってきた。中では山村所長が資料を読み込んでいた。
「すみません。少しお時間いただけますか」
田村が緊張の面持ちで封筒を差し出すと、山村は眉をわずかに上げ、それを受け取った。黙って中を開け、一枚一枚、紙をめくる。読み終えたころ、彼の手は膝の上で静かに重なった。
「……あなた、これをどこまで周囲に話していますか」
「誰にも。まだ誰にも言っていません」
「そうですか」
山村は、しばらく黙っていた。田村は心臓がドクドクと脈打つのを感じていた。やはり余計なことだっただろうか。沈黙がひどく長く感じた。
「よく残してくれましたね、こういう記録を。これは――建前上は“誤記”で処理されるかもしれませんが、内容としては……」
「はい、改ざんだと思います」
「……ですね」
山村は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「だが、直接副所長に切り込むのは避けたい。波風を立てすぎると、職場全体の統制が崩れます。私は、正式な“改善指導”という名目で内部監査を実施します。表向きは“手順の再確認”です」
「それで……副所長に、伝わりますか」
「伝わりますよ。あの人は、察しのいい人ですから」
山村の表情は変わらなかったが、ほんの少しだけ、その口元が固く引き締まっていた。
監査は翌週から始まった。
まず最初に整備されたのは分析手順だった。すべての分析記録は二重チェック体制になり、担当者の署名も求められた。記録棚に放置されていた古い報告書にも目が通され、「過去の習慣的な処理」に対する点検が行われた。
当然、副所長の佐野は、その意図をすぐに察知した。
「……ようやるわ、あの人も」
中央監視室に戻った佐野は、それまでより明らかに態度を硬化させていた。
「無駄口叩いてるヒマあったら、工程表の再確認しといてくれる?」
それまで冗談を飛ばしていた藤枝が、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
「……はいよ」
返事はいつもの軽さに似せていたが、声に張りがなかった。佐野は容赦なく他の職員にも業務上のミスを指摘し始め、西谷に対しても細かい点検ミスをあげつらった。
西谷は黙ってそれを受けた。だが田村にはわかっていた。彼は怒っていた。ただ、いつものように口に出さず、動きで示していた。
そんな日が数日続いた。
——一人、やってしまったかもしれない。
田村の中にそんな思いが生まれ始めていた。皆が巻き込まれ、現場の空気が冷たく、息苦しい。
だがある日、分離液ポンプの点検後、藤枝がぽつりと田村の隣に立った。
「なあ田村くん」
「はい」
「ようやってくれたわ。ほんま、誰も声出せへんかった」
田村は目を丸くした。藤枝がそんなことを言うとは思っていなかった。
「いや、でも……ご迷惑かけて」
「そんなんちゃう。ワシらな、見て見ぬふりしてきとった。変や思いながらも、な。口出したら損や思うて、誰かがやってくれるやろって。それを、あんたがやったんや」
藤枝は、ぼりぼりと頭をかいた。
「ワシはようやらん。けど、あんたがやったんや。ほんで、山村所長も動いた。せやから、今度はワシらがあんたを守らなあかん番やろ」
その言葉が、田村の胸に深く染み込んでいった。
藤枝は続けた。
「まあ、副所長の機嫌はアレやけどな。しばらくはな、あいつがバタバタするやろ。けどな、田村くん。一人ちゃうで」
——一人じゃない。
田村はその夜、またノートを開いた。記録はこれからも続く。沈黙したアンモニア、揺れる現場、波紋はまだ完全には消えていない。
だが、そこには確かな変化があった。
「信じられる人は、いる」
その事実が、田村を支え始めていた。




