第二十二章 沈黙の揺さぶり
夜は深く、田村誠の自宅の書斎に冷たい蛍光灯の光が静かに降り注いでいた。手元のノートに向かってペンを走らせるその背中は、普段の現場で見せる逞しさとは違い、どこか沈み込んだ影を宿している。
「……俺は、何のためにこの仕事をしてるんだろう……?」
その問いは、田村の胸の奥底で何度も何度も反響した。硝化槽の硝酸態窒素とアンモニアの数値は異常なほど理想的で、完璧に整っていた。しかし、その裏で「試薬は減っていない」「試験管には水滴がない」という明らかな矛盾を見つけてしまった。これは、誰かが数字を操作している証拠だった。
「数字は嘘をつかない。けど、数字を操作すれば、嘘は簡単に作れる……」
その言葉が頭の中で繰り返されるたび、田村の胸の内はざわめいた。現場の数字がきれいに揃えば、表向きは問題なし。しかし、その“綺麗すぎる数値”は実態を覆い隠し、問題を先送りにするだけなのだ。
「俺は、この事実を見逃せるのか?」
彼はペンを置いて天井を見上げる。白い壁紙が薄暗い光にぼんやりと浮かび上がる。沈黙の中で、胸の奥に重いものがのしかかる。
「正義を貫いたら……どうなる? 反発を買って、居場所を失うかもしれない」
そう考えると、背筋に冷たいものが走る。副所長・佐野の言葉が耳に蘇る。
『ここは役所じゃない。数字は現場が動いていれば多少は合わせるものだ』
田村は思わず目を閉じた。佐野の声は優しくもあり、しかしどこか脅しのように響いていた。
「現場の空気に逆らえば、俺は潰される……でも、黙っていても自分が許せない……」
その狭間で揺れ動く心の中に、激しい葛藤が渦巻いた。
◆
「俺は本当に、何を守ろうとしているのか?」
田村はペンを握り締め、指先に力を入れる。震える手を押さえつけるように、ゆっくりと文字を綴っていった。
“硝酸値は完璧すぎる。アンモニアの数値も変動がない。試薬は使われていない。試験管には水滴が付いていない。これは改ざんだ。”
ページの隅に大きくそう書きつけ、息を吐いた。
「俺が見逃せば、数字の魔法がまかり通ることになる。現場の誰もが真実を知らずに、安堵してしまう……」
その一方で、現実は重くのしかかる。
「もしこれを告発すれば、俺はどうなる? 副所長の圧力が強い。西谷さんも難波江も俺を信用していない。所長の山村さんも気づいているかどうか怪しい……」
田村の胸はざわつき、気持ちはまるで凍りついた湖の下で波紋を立てているようだった。
「俺一人が声を上げても、誰も信じてくれないかもしれない……」
◆
目の前に浮かぶのは、現場の仲間たちの顔だ。藤枝の無邪気な笑顔、藤巻の職人気質な視線、大西の豪快な笑い声。
「彼らに嘘の数字を押し付けて、何も言わずにいるなんて……」
田村は拳を握り締めた。怒りと悔しさが入り混じり、胸が締め付けられる。
「でも……」
恐怖もあった。陰湿な副所長の佐野が、数字をいじりながらニヤリと笑う顔。難波江の冷たい視線。
「俺の小さな反抗が、彼らの逆鱗に触れたら……」
足元が震えた。現場の「普通の空気」に逆らうことの重さを、身をもって知っていた。
「だが、これが正しいことだ。俺は、どんなに怖くても、この沈黙を破らなければ……」
◆
田村はノートを閉じて深く息をついた。瞳の奥に、決意の炎が灯る。
「誰かが、この腐った空気を変えなければならない。俺がその一歩を踏み出すんだ」
だが、その決意はまだ弱く、どこか不安げだった。
(こんな小さな一歩が、大きな波紋になるだろうか……)
彼は窓の外に目を向けた。夜空に瞬く星は冷たく、遠い。
「だが、たとえ孤独でも、俺は逃げない。必ず、この沈黙を揺さぶってみせる」
田村の胸に、小さな希望が芽生えた。
◆
翌朝、彼は職場に向かう足取りが重くもあったが、どこか新たな覚悟に満ちていた。中央監視室の扉を開けると、藤枝がいつものように冗談を飛ばしてきた。
「田村さん、何やら夜更かししてたんか?」
田村は少し微笑んで答えた。
「ええ。いろいろ考えてたんだ」
藤枝は少しだけ真剣な表情で言った。
「現場はお前みたいな奴が必要や。俺らで支え合おうな」
その言葉に田村は力を得た。仲間の存在は、まだ彼を孤独から守ってくれていた。
◆
しかし、その日の午後、副所長・佐野はいつも以上に冷ややかな視線を田村に向けていた。
「田村くん、君もそろそろ、ここのやり方に馴染まなあかんな」
その言葉の裏には、確かな警告が潜んでいることを田村は理解していた。
「俺は、ここで何を守るべきか。何を犠牲にするべきか……」
葛藤の中、田村の決意は揺らいだり強まったりしながらも、少しずつ固まっていくのだった。
 




