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第二十一章-2 沈黙するアンモニア


「……あれ?」


田村は、中央監視室のモニターに映る数値を見つめながら、思わず声を漏らした。

硝化槽の硝酸態窒素の値が、やけに理想的だった。むしろ完璧すぎる。アンモニアも、通常のばらつきが一切見られない。


「今週、こんなに安定してたか……?」


備え付けのノートに記録された過去の値を遡る。確かに先週までは、微妙な上下動があったはずだった。だが、今週に入ってからは見事なまでに一直線だ。まるで作り物のように。


気づけば、田村は分析室の記録棚の前に立っていた。分析報告書のコピー。何枚か引き出して眺めると、硝化槽の数値には、ある共通点があった。


——筆跡が同じ。

——しかも、妙に丁寧で、癖のない字体。


(これ、副所長の字じゃないか?)


田村はハッとした。副所長が自ら分析結果を書き込むことは、通常はありえない。なぜなら、その作業は西谷や技術スタッフが分担して行っているからだ。


さらに決定的なものを見つけた。


試験管ラックの片隅。使われた形跡のない比色試験薬が並んでいた。


(試薬、減ってない……)


現場で使う薬品は一日単位で消費されるはずだ。なのに今週分のボトルはまったく軽くなっていない。加えて、使用済みであるはずの試験管には乾いた粉塵すら付いていない。


(やってる……)


田村は直感した。副所長が、何らかの意図で分析値を改ざんしている。


ちょうどそのとき、背後から声がした。


「おう、田村くん。熱心やなあ」


副所長・佐野が、いつものように無表情のまま立っていた。背筋を伸ばし、白衣の袖口をきっちり整えた姿は一見、理知的に見える。


「最近、硝化の状態、めっちゃええやろ? 君の頑張りもあってや」


「いえ、自分は……特には」


佐野はにこりと笑った。珍しく、目尻に皺が浮かぶ。


「まあまあ、謙遜せんでええ。せやけどな、田村くん。あんまり数字にこだわりすぎてもあかんで」


「え?」


「ここは役所と違う。現場や。数字は、現場がちゃんと動いてたら、多少なりとも、合わすもんや」


田村は喉が詰まる感覚を覚えた。副所長の言葉は、遠回しだが、明らかに“黙っておけ”という圧だった。


「僕は……ちゃんと記録された値を信じたいです」


佐野は少し笑みを崩し、手を軽く叩いた。


「ええ心がけや。でも、君もそろそろ“ここのやり方”に馴染まなあかんな。たとえば、ちょっとした見落としで、君の立場が危ううなることもある」


それは、優しい声色に包まれた脅しだった。


その夜、田村は自宅でノートを開いた。手書きで記録した一週間分の分析データ、そして感じた違和感、すべてを書き出していく。


(俺は、どうする……?)


中央監視室の暗闇に灯るモニターの光のように、田村の中で一つの疑問が消えずに燃えていた。


(この沈黙するアンモニアは、誰のために静かなんだ?)



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