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第二十一章 沈黙するアンモニア


六月中旬。昼過ぎの蒸し暑さが中央監視室にまで染み込んできていた。田村は汗ばむ背中を気にしながら、中央のモニター前に座り、帳簿と印刷された水質分析報告書を見比べていた。


「……あれ?」


彼の指が止まった。硝化槽出口のアンモニア態窒素(NH₄⁺)と硝酸態窒素(NO₃⁻)の値。先週から今日まで、連日ほぼ完璧な数値——NH₄⁺は0.12〜0.15mg/L、NO₃⁻は8.3〜8.7mg/L。


(そんなはずはない)


現場では最近、活性汚泥の状態が不安定だった。送風機の負荷も大きく、曝気が不均等になる時間が増えていた。さらに、藤枝から「脱臭槽でアンモニア臭が強くなってきとる」と聞いていたのだ。


帳簿には、副所長・佐野の名前で検査済みの印が並んでいる。だが、田村の勘は、あの人懐こい笑顔の裏にある何かを探り始めていた。


「ちょっと分析室、行ってきます」


田村は誰にともなく言って席を立った。


分析室はひんやりとしていた。棚には整然と並べられた試験管とビーカー。ネスラー試薬の瓶も、未開封のように見えるほど満杯だった。


(毎日分析してるなら、こんなに減ってないはずや)


吸光度計のデータログを確認する。最新の記録は一週間前。しかもその日、佐野は公休を取っていた。


(記録と合わん……)


田村は使用済みの試験管を保管する棚を見た。ガラスは乾いており、水滴すら残っていない。薬品特有の臭いもしない。


——実際に測っていない。


そう確信した瞬間、背後で声がした。


「何を見とるんや、田村くん」


振り返ると、副所長・佐野が笑顔で立っていた。白衣のポケットに手を突っ込み、いつものように柔らかい口調だ。


「いえ、ちょっと試薬の在庫を……確認してただけです」


「ちゃんと足りとるやろ? 分析もちゃんとやっとるで」


「……ええ、そうですね」


笑ってごまかすしかなかった。だが、背中には嫌な汗がつたっていた。


その日の午後、藤巻がそっと田村に言った。


「お前、帳簿のことでなんか気づいとるな」


「……やっぱり、変やと思いませんか。アンモニア、低すぎるんですよ。現場の臭いと、帳簿が合ってない」


藤巻は腕を組んだ。「副所長はな、数字にうるさい所長に褒められたいんや。何年もおるけど、あの人、現場は見んでも帳簿だけはじっと見るからな」


「でも、これ……虚偽報告ですよ」


「そやけど、告発でもしたら、誰かが飛ぶぞ。お前か、あいつか、どっちかや」


言葉が重くのしかかった。田村は窓の外を見た。硝化槽の上に陽炎が揺れていた。


(この沈黙の中に、確かに腐った空気がある)


その夜、田村は自室で帳簿をノートに写し直し、こっそり実測データも自分で取り始めることを決めた。


沈黙のアンモニア。無言の数字。


田村の胸には、初めて「この職場を正したい」という小さな炎が灯り始めていた。



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