第十九章 帳簿の矛
水処理施設の六月は、灰色の空と湿った地面が続いていた。中空には雨を孕んだ雲が低く垂れこめ、どこか圧迫感を与える日々だった。
田村誠は中央監視室の端に腰かけ、手元のノートに整備手順を書き込んでいた。ラミネートされた配管系統図のコピーが机の上に広げられている。
「ええ感じやな、これ。マニュアル言うより、現場用の虎の巻や」
藤枝健司が覗き込みながらうなずいた。
「こっちのバルブの開閉順、色で分けとるんがええ。前の手順書、文字ばっかりで読みにくかったしな」
「見ればわかる、を目指してみました」
藤巻も寄ってきて「これ、あの新卒の子が居ったときにあれば、もっと残れたかもな」とつぶやいた。
藤枝は鼻で笑って、「まあ、辞める理由は一個やないけどな」と言った。
その虎の巻は昼休み中に山村所長にも提出された。所長は口をへの字にして、それをしげしげと見つめた。
「……ふむ。まあ、参考にはなるかもしれん。置いといてくれ」
返事はつれないが、突っぱねるわけでもない。その様子に田村は内心、悪くない感触を得た。
だが、静かな反発はすぐに起こる。
難波江が中央監視室に戻るなり、棚に立てかけてあった虎の巻を手に取り、鼻を鳴らした。
「おいこれ、田村のか? なんやこの色塗り絵みたいなやつ」
田村は「はい、分かりやすさを意識して……」と答えるも、難波江はかぶせるように言った。
「俺はな、こんなん見んでも身体が覚えとる。手順なんか考えてたら遅くなるだけや。現場なめとんか」
「覚えてるならそれで結構ですが、事故があれば責任は……」
田村の言葉を、藤枝が片手を上げて止めた。「おいおい、言い合いは後にせえや」
一拍の沈黙。
その直後、背後で大西健が突然、「あ、やべっ屁出た」と言って屁をこいた。
ブオッ。
「なあ、脱水機に今漏らした大便入れてきていいっすか!?」
「おまえバカやろ!」と藤巻が叫び、室内は爆笑に包まれた。
空気が緩んだ一瞬。だが田村の中には、何か硬いものが残ったままだった。
その週のある日、田村は例の切替ミスを帳簿に記録していた。
【記録】
2025年6月12日 分離液ポンプ切替作業にてバルブの開閉手順に不備あり。エア噛み確認。関係者:難波江。指導と再訓練が必要。
翌日、山村所長のもとに一本の電話が入った。
「ええ、こちら山村です……はい、帳簿記録について? どの内容を……ああ、それは……」
社内の監査部門からだった。
所長室では、西谷が呼ばれ、田村の帳簿の件について話をされた。
「君、これを読んでどう思う?」
西谷は黙って帳簿を読み、静かに答えた。
「現場での事実ですわ。放っといたら事故になる。田村くんがようやってくれました」
山村は額を押さえた。「問題にされると、管理職の責任になるんだ。何も言わずに済ませてくれれば……」
「そしたら、また誰か怪我しますわ」
その夜、田村は控え室に呼ばれた。
「田村くん。帳簿、あれ君が書いたな」
「はい。事実です」
「なんであんな細かいとこまで書いたんや」
田村はじっと所長を見た。「あれが誰かの命に関わる可能性があるからです」
山村は何も言わなかった。言い返す言葉が見つからなかった。
一方、難波江は休憩中に「なんやねんあいつ。帳簿帳簿って、あんなのチクリ魔や」と陰で悪態をついた。
だが藤枝が静かに言った。「あの記録がなかったら、何が起きても“誰のせいでもない”になる。誰かが矛にならな、何も変わらへん」
翌日、現場の空気は微妙に変わっていた。田村が中央監視室に入ると、藤巻が目配せしながら缶コーヒーを渡してきた。
「おう、闘う男に差し入れや」
藤枝がモニターを指差す。「今日から新人の教育も、お前の虎の巻でいくってよ」
午後、山村所長と西谷の間で再び話し合いがもたれた。
「帳簿の内容は消せませんよ」
「……ああ。認めるよ」
「田村くん、あれで現場の信頼勝ちました。上が何言おうが、うちの現場は変わっていくべきです」
その夕刻、雨がまた降り出した。
藤枝が庁舎裏の軒下で煙草を吸っていた。
「お前、よーやったわ。帳簿一冊で難波江よりもデカい仕事したな」
田村は肩をすくめる。「まだ、何かが始まっただけです」
遠くで雷が鳴った。だがその音は、何かを切り裂いて進む矛のように、まっすぐ耳に響いた。
(ここからや。俺が、この職場を変える)
田村は拳を握り、雨空の下で静かに決意を固めた。