第十八章 中央監視室の爆笑トラップ
梅雨空の雲間からほんの一瞬だけ日が差した午後一時過ぎ、中央監視室の空気はやや緩んでいた。モニターには安定した流量と処理値が並び、警報も鳴っていない。平穏な時間。つまり、誰もが少しだけ気を抜いている時間だった。
田村誠は、藤巻と藤枝とともに中央監視室で書類整理をしていた。活性炭切り替えマニュアルの更新作業で、藤枝が「手順⑤はもっとシンプルにせなアカンやろ」と意見を出し、藤巻が「でも、機器番号を全部書かないと新人にはわかりませんって」と食い下がる。田村はその調整役を務めながら、パソコンに入力を進めていた。
そこに、扉が開いて大西健が現れた。
「ういーっす!」
軽いノリで手を上げながら入ってきた大西は、大阪から転勤してきたばかりの二十四歳。経験は浅いが、実地の手順には明るく、若さゆえの勢いと、なにより破壊力満点の“無遠慮な明るさ”が売りだった。
「なあなあ、さっき汚泥ホッパーんとこで屁こいたら、鳩が一羽倒れてたで。オレのケツ、殺傷力ありすぎやろ?」
いきなりの開口一番に、藤枝が吹き出す。
「ほんまかいなそれ。ホッパーに生態系おるやなんて、初耳やで」
「マジでマジで。もっかい試してええ? 中央監視室で?」
「やめろ! 絶対やめろ!」
藤巻が即座に止めるも、大西は「警告無視!」と叫びながら、いきなり力んだ。
「ふんぬっ!!」
ぶうぅぅぅぅぅぅぅぅんんん!!
長く、低く、重低音で床を揺らすような屁が炸裂した。その瞬間、部屋の空気が一瞬止まり、次の瞬間には全員が爆笑していた。
「おいおいおい、ほんまに出たやろそれ……!」
「ちょっ、風向きこっちや! なんかあったかい!」
田村も、顔を赤らめながら思わず笑っていた。こんなふうに笑うのはいつ以来だろうか。腹の底から笑える空気。それが、屁というきっかけで訪れるとは誰が想像しただろう。
そして、追い打ちのように大西が叫ぶ。
「ちょっとすんません、オレ、今のでもしかしたら漏らしたかもしれんから、脱水機に大便入れてきていいっすか!? わははははは!」
藤枝が椅子から転げ落ちるように笑い、藤巻は机を叩いて「やめてぇ!」と叫んだ。
「いや、ほんまに漏れてない? ワイ、ズボン濡れてへん? 触ってくれる人、募集中!」
「おまえなぁ……これが大阪のし尿処理流儀かい!」
部屋はもう完全に笑いの渦だった。
だが、ひとり、笑っていない男がいた。難波江だ。いつの間にか監視室の隅に現れていた彼は、その喧騒の中心を冷ややかに見つめていた。
「……くだらん」
ぽつりと呟き、踵を返すと黙って部屋を出ていった。
「また機嫌悪いな、あいつ。大西くんが来てからずっとピリピリしとるやん」
藤枝が言うと、田村は肩をすくめた。
「笑うのが怖いんでしょう。自分が滑るのがイヤだから、人の笑いも認められないんですよ」
藤巻が少し真顔になって言う。
「でもな、ああいう空気を嫌がるってのは、案外ヤバい兆候やで。現場ってのは、笑いと余裕がないとすぐ事故る」
田村はうなずいた。
「……だから、余計に、今みたいな空気って必要だと思います」
そのとき、所長の山村がひょっこり顔を出した。
「おう、なんや賑やかやな」
「すみません、ちょっと爆笑トラップに引っかかってました」
田村がそう言うと、山村は「おお、ええな」と笑って頷いた。
「現場が笑ってるのは、ちゃんと流れてる証拠や。笑えん職場は、ほんまに詰まっとるとこやさかいな」
その言葉を聞いて、田村はふと、自分がまだこの職場に必要とされているのかもしれないという、小さな確信を抱いた。
外では雨が止み、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。