第二章「し尿のある風景」
約束の時刻より30分早く、誠は処理施設に到着した。山の斜面を切り拓いて造られた、銀色のパイプが幾重にも交差する建物群。その中央に、事務棟がコンクリート打ちっぱなしで鎮座している。
バイクを降りたとき、冷えた風の中に混じる、かすかなアンモニアの匂いが鼻を突いた。だが、思っていたよりは遥かに清潔で、建物もどこか近代的な印象だった。
受付で名を告げ、応接室に通される。薄茶色のテーブル、ホワイトボードの横に並んだ四つの椅子。その中央に、すでに三人の男が座っていた。
左端が副所長、住宅メーカー出身の39歳。細身のスーツにピンと張った背筋、目元にわずかに薄笑いを浮かべていた。
中央が支店長。50代半ば、丸眼鏡の奥の目は柔らかく、声にも圧がない。最初に「寒かったでしょう、どうぞおかけください」と優しく声をかけてくれた。
そして右端が所長。こちらも50歳、やや日焼けした顔と無駄のない仕草。大分出身で、清掃工場や下水施設の現場を転々とした経歴を持つ。声には九州訛りが混じっていた。
「では、始めましょうか」
副所長の甲高い声で面接が始まる。履歴書に目を落としたまま、最初の質問が飛んだ。
「東京でIT、ねえ。派遣で何年?」
「三年弱です。業務アプリのテストや、時期によっては保守業務も……」
「で、クビになったと」
「いえ……コロナで案件が減って、配属先がなくなりまして」
「なるほど。よくある話だ」
副所長の声には少し鼻白んだ色があった。
「こっちに帰ってからは何してたん?」
今度は所長が聞いた。誠はまっすぐ答えた。
「ハローワークに通って、色々探してました。最初に受けたのは、と殺場の求人です」
「おう、あれ受けたんか。あそこは厳しいで」
支店長が穏やかな声で言った。「私の知り合いも面接で泣かされた言うてましたわ」
「たしかに……圧迫的でした。でも、あのとき落ちたおかげで、こちらの求人に気づきました」
副所長が片眉を上げた。
「こっちもなかなかキツい現場やで。臭い、重労働、汚れ、全部ある。給料だってなぁ……正直、16万そこそこや。高卒と変わらん」
「ただし」
支店長が口を挟んだ。
「資格手当はあるんよ。電験三種持ってたら月1万円。あと、ボイラーや危険物の資格も加算される」
「そやけど、持っとるん?」
「……今は何も持っていません。でも、取るつもりでいます」
所長がうなずいた。
「わしも、最初は何も持っとらんかったけん。ここで働きながら資格取って、やっと今の給料や。覚悟さえあれば、十分やっていける」
副所長が鼻を鳴らした。
「ま、やる気だけで続くもんでもないけどな。人間関係とか、掃除当番とか、いろいろあるんやから」
「副所長」
支店長が軽くたしなめるように言った。
「まだ現場、見てもらってへんですし」
応接室を出て、所長の案内で構内を回った。舗装された構内道路、並んだステンレスの配管、沈殿槽の水面には油膜が薄く広がっていたが、想像していた地獄のような光景とは違った。むしろ、整理され整備された「職場」という印象が勝った。
「うちはまだ新しいほうや。設備も入れ替えて、管理も徹底しとる。けど、油断すると配管のバルブが飛んで……浴びる。うんこ」
そう言って、所長が肩を揺らして笑った。誠もつられて笑ってしまった。
その夜、将棋盤を前にした誠の指先は、ゆっくりと角を手に取った。角交換の隙を探しながら、彼の心は静かに整っていた。頭の中をよぎるのは、処理場の配管でも、副所長の嘲笑でもなく、次の一手だった。
確かに、臭いは残っている。だが、将棋のように、一手一手を積み重ねていけるなら——やっていけるかもしれない。