第十六章 文字では伝わらないもの
それは些細な違和感から始まった。
「圧が、足りん……?」
田村が思わず声を漏らしたのは、朝の分離液ポンプ切替作業の最中だった。
マニュアルどおりの手順で1号機から2号機へ切り替えた――つもりだった。
ポンプは回っている。計器も異常なし。
だが、タンクの液位が緩やかに、じわじわと上がっていく。
――おかしい。
その場にいた藤枝もすぐに異変に気づいた。
彼は手帳も見ず、迷いのない手つきでバルブを閉め、逆止弁の手動レバーに手をかける。
「これ、途中で圧抜けてもうとる。自動バイパスの戻り配管、開いたままや。多分、昨日の夜勤の誰か、閉め忘れた」
「でも、チェックリストでは全部正常って……」
田村の言葉に、藤枝は苦笑した。
「マニュアルが完璧やったら、苦労せんわな。どや、現場ってのは、生き物やろ?」
田村は、心のどこかで感じていたことを突きつけられたような気がした。
自分の作ったマニュアルでは、この“生き物”は完全には動かせない。
それでも、やらなければならない。誤差と癖、そして“間違う可能性”を織り込んだ手順書を――。
※
「……お前のマニュアル通りやったのに、異常出たら意味ないやんけ」
難波江の口は、今日も尖っていた。
昼休みの詰所、缶コーヒーを啜りながら、田村の机を指先でコンコン叩く。
「ほんま、お役所仕事やな。『それっぽい紙』作って、自己満足してるだけやろ。現場なめすぎ」
田村は言い返せなかった。
事実、トラブルは起きた。止めたのは、藤枝の“感覚”だった。
「……俺ら、まだ完璧なもん作ったわけじゃないですから。むしろ、ああいう失敗も込みで、修正していくんです」
かすれる声で返す田村。難波江は口元を吊り上げた。
「ほう。それで次は何や。“マニュアルver1.1”か? まあ、せいぜい頑張ってな。実践で死なんようにな」
その場の空気が張りつめたまま、難波江は席を立った。
※
午後。ろ過室の片隅で、田村と藤枝は配管図を前に膝を突き合わせていた。
タンクの圧を逃がす非常配管のルートが、想定と違っていた。現場の“実態”が図面と乖離している。
「やっぱり現物ありきやな。マニュアルってのは紙の上の理想でしかない。けど……」
藤枝は少し、真面目な顔をして言った。
「お前みたいに、ちゃんと“伝えよう”としてるやつ、おらんかった。ワシはそれだけで嬉しいわ」
「でも、結局、藤枝さんの経験頼りですよ。俺、まだ何も――」
「ちゃう。お前が言語にせんかったら、ワシのやってることなんて、永遠に“俺のやり方”で終わる。
それじゃ、次が育たん。……せやろ?」
その言葉に、田村は初めて、自分のしている仕事が「記録」ではなく「伝承」なのだと気づいた。
藤枝の“感覚”を、文字にし、図にし、誰かが継げるようにする。
それが、自分にしかできない仕事なのかもしれない。
※
その夜、田村は自宅のパソコンの前でマニュアルの修正作業をしていた。
ver1.0では書けなかった微妙なタイムラグ。
逆止弁の戻り音のクセ。非常配管の切替バルブが硬くなりがちな時間帯。
そして――最も重要な、“変だな”と感じた時の判断基準。
これはもう、作業手順書というより、技術者としての“哲学”だ。
そこに、不意にスマホのバイブが鳴った。
見ると、藤枝からの写真付きメッセージ。
《今月の切替作業、予備機の逆止弁、動きちょっと鈍いで。点検頼んます》
《あと、今日のタムの顔、だいぶマシになっとった。ええぞ》
田村は思わず、声を漏らして笑った。
「……まだまだやりますよ、藤枝さん」
画面の中の、ピースサインの藤枝に向かって、小さく頭を下げた。