表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/55

第十六章 文字では伝わらないもの


それは些細な違和感から始まった。


「圧が、足りん……?」

田村が思わず声を漏らしたのは、朝の分離液ポンプ切替作業の最中だった。

マニュアルどおりの手順で1号機から2号機へ切り替えた――つもりだった。


ポンプは回っている。計器も異常なし。

だが、タンクの液位が緩やかに、じわじわと上がっていく。


――おかしい。


その場にいた藤枝もすぐに異変に気づいた。

彼は手帳も見ず、迷いのない手つきでバルブを閉め、逆止弁の手動レバーに手をかける。


「これ、途中で圧抜けてもうとる。自動バイパスの戻り配管、開いたままや。多分、昨日の夜勤の誰か、閉め忘れた」


「でも、チェックリストでは全部正常って……」


田村の言葉に、藤枝は苦笑した。


「マニュアルが完璧やったら、苦労せんわな。どや、現場ってのは、生き物やろ?」


田村は、心のどこかで感じていたことを突きつけられたような気がした。

自分の作ったマニュアルでは、この“生き物”は完全には動かせない。

それでも、やらなければならない。誤差と癖、そして“間違う可能性”を織り込んだ手順書を――。


「……お前のマニュアル通りやったのに、異常出たら意味ないやんけ」


難波江の口は、今日も尖っていた。

昼休みの詰所、缶コーヒーを啜りながら、田村の机を指先でコンコン叩く。


「ほんま、お役所仕事やな。『それっぽい紙』作って、自己満足してるだけやろ。現場なめすぎ」


田村は言い返せなかった。

事実、トラブルは起きた。止めたのは、藤枝の“感覚”だった。


「……俺ら、まだ完璧なもん作ったわけじゃないですから。むしろ、ああいう失敗も込みで、修正していくんです」


かすれる声で返す田村。難波江は口元を吊り上げた。


「ほう。それで次は何や。“マニュアルver1.1”か? まあ、せいぜい頑張ってな。実践で死なんようにな」


その場の空気が張りつめたまま、難波江は席を立った。


午後。ろ過室の片隅で、田村と藤枝は配管図を前に膝を突き合わせていた。

タンクの圧を逃がす非常配管のルートが、想定と違っていた。現場の“実態”が図面と乖離している。


「やっぱり現物ありきやな。マニュアルってのは紙の上の理想でしかない。けど……」


藤枝は少し、真面目な顔をして言った。


「お前みたいに、ちゃんと“伝えよう”としてるやつ、おらんかった。ワシはそれだけで嬉しいわ」


「でも、結局、藤枝さんの経験頼りですよ。俺、まだ何も――」


「ちゃう。お前が言語にせんかったら、ワシのやってることなんて、永遠に“俺のやり方”で終わる。

それじゃ、次が育たん。……せやろ?」


その言葉に、田村は初めて、自分のしている仕事が「記録」ではなく「伝承」なのだと気づいた。


藤枝の“感覚”を、文字にし、図にし、誰かが継げるようにする。

それが、自分にしかできない仕事なのかもしれない。


その夜、田村は自宅のパソコンの前でマニュアルの修正作業をしていた。


ver1.0では書けなかった微妙なタイムラグ。

逆止弁の戻り音のクセ。非常配管の切替バルブが硬くなりがちな時間帯。

そして――最も重要な、“変だな”と感じた時の判断基準。


これはもう、作業手順書というより、技術者としての“哲学”だ。


そこに、不意にスマホのバイブが鳴った。

見ると、藤枝からの写真付きメッセージ。


《今月の切替作業、予備機の逆止弁、動きちょっと鈍いで。点検頼んます》

《あと、今日のタムの顔、だいぶマシになっとった。ええぞ》


田村は思わず、声を漏らして笑った。


「……まだまだやりますよ、藤枝さん」


画面の中の、ピースサインの藤枝に向かって、小さく頭を下げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ