第十二章 錆と火種
工場の朝は、油の匂いとともに始まる。
梅雨の気配を孕んだ空気の中、分離液ポンプ室には、湿り気を含んだ鉄のにおいが充満していた。
田村誠は、点検用の六角レンチを手に、黙々と一号機のフランジ部を確認していた。
横では藤枝健司が、顔に油を塗ったような笑顔を浮かべ、ゴム手袋を口にくわえてしゃがんでいる。
「ほれ、田村。そこの配管、触ってみ。指で触ってぬめりがあったら、ガス逆流しとる」
「この前、逆止弁点検したとき、交換歴が不明なままだったので、再確認しておきたいんです」
「おーおー、ええぞええぞ。もうワシと同じ“勘ピューター”使うとるやんけ」
田村は苦笑いを返した。
だが、背後から不意に飛んできた声は、空気を変えた。
「……で、ベテラン気取りか?」
難波江だった。
「新人が調子乗って藤枝と組んどるらしいやん。お似合いやな。字も汚い、報連相もない、整備マニュアル読まん――そういう奴と組むってことは、そういうタイプになりたいわけか?」
工場の金属音が遠のくように、場の空気がピンと張る。
「俺は、現場で起きるべき事故を未然に止めた。それは間違ってないと思ってます」
田村の声は、静かだった。
「ほう、止めた言うが、あれは俺の計画的な切り替え作業やったんやぞ。予備機のテスト稼働も含めて、ちゃんとタイミング見計らってやってたんや」
「だったら、なぜ作業票にその旨を書かなかったんですか?」
一瞬、難波江の瞳に火が走った。
「はあ?」
「現場記録に記載がない。バルブの指示も中途半端。何より、警報鳴るまで誰も気づかなかった。“計画的”にしては、あまりにも粗雑です」
「おい、ガキが……!」
難波江の右足が、バルブの縁を蹴った。金属音が廊下に響く。藤枝がさっと立ち上がった。
「やめとけ、難波江。ここは殴り合いする場所やないぞ」
「藤枝、おまえもか。結局おまえは、自分より出来る奴が出てくるのが嫌なだけなんやろ。もう終わりや。古株の感覚頼みの仕事はな」
藤枝の目が細くなる。笑っていない笑顔だ。
「ほう。ほんだら今度、配管解体やってみるか? 一回でもポンプ内のケーシング触ったことあるんか?」
難波江は何も言わなかった。
◇
昼休憩、食堂の一角。
西谷がそっと田村に声をかけた。
「……よぉやったな」
「え?」
「難波江に物言えるやつ、やっと出てきた。わしもな、見とったで。あいつが斎藤にした仕打ちも、昨日の騒動も」
「でも……所長は動かない」
「それでも、声は上げなあかん。そうせんと、現場が死ぬ」
田村は一瞬言葉を失ったが、やがて、深くうなずいた。
「わかりました。俺、やります」
「言うたな。ほな、見といたる」
西谷の言葉は、重かった。現場の空気が、わずかに揺れ始めた。
◇
その週末、田村は一通の文書を作成した。
タイトルは「活性炭切り替え作業時の安全性評価と再発防止策」。
手書きではない。図面付きの簡易マニュアルも添えた。要点を絞り、誰でも読めるよう平易に書いた。
月曜の朝礼、所長がその文書を手にして、口を開いた。
「……この提案書、田村くんが書いたそうだ。個人判断で動いた件もあるが、安全確保と現場の改善意識という意味では、評価に値する」
難波江の顔が引きつった。
「よって、今後の切り替え作業については、田村・藤枝・難波江の三名体制とし、チェックリストを新たに運用する。文書化された手順を義務付け、未記録の操作は原則禁止とする」
それは明らかなメッセージだった。
言い訳は通らない。逃げ場もない。
責任は記録される。
藤枝が、にやりと笑って田村の肩を叩いた。
「ようやったな、田村。おまえ、ほんまにええ勘しとる」
「いえ。まだこれからです」
田村は、職場の真ん中に立っていた。斎藤雄太が残した空席は、まだぽっかりと空いている。
だが、その空白を埋めるように、新しい秩序がゆっくりと芽を出し始めていた。




