第十一章 裂け目
稲妻のような警報音が、制御盤の奥底から甲高く響いた。午前九時三十三分、第二処理棟・活性炭処理槽。異常警報。
現場にいた者の動きが一瞬で止まり、張り詰めた空気が背中を叩いた。
「なにしとんじゃ……」
ぼそりと西谷が漏らす声が、逆に不気味な静寂を破った。液面計が振り切れ、配管圧が異常上昇している。これは明らかに“やらかした”系のやつだ。
その場にいた田村誠は、手に持っていた点検表を落としかけ、ぎゅっと握り直した。
目の端で、難波江が小さく舌打ちしていたのが見えた。
「おい、これ、活性炭、切り替え間違えたんじゃないか?」
西谷が指さしたのは、切り替えバルブのハンドル。通常なら一号機から二号機へ、負荷を分散しながら流路を変える手順が必要だった。しかし、どちらにもバルブが半開のままになっていた。
「おかしいですよ。予備機のラインが生きてるはずがないのに、負圧が……」
藤枝健司が低く唸った。いつもの冗談も言わず、真顔だった。
「まさか、三系統いっぺんに稼働させたんか……」
西谷の顔が青ざめる。
田村は走った。操作盤の確認、配管温度のチェック、流量計のログ照会。頭がフル回転していた。とっさの判断ではなく、経験と勘を総動員して状況を把握する。その動きはもう「新人」のものではなかった。
「今すぐ一次側止めて、循環止める。炭が飛ぶぞ!」
叫ぶや否や、田村は一次ポンプの電源ブレーカを引き落とした。誰よりも早かった。
「田村! おまえ、何勝手な真似を――」
難波江が怒鳴る。
「現場、吹くぞ!」
それは咄嗟ではない。覚悟のある言葉だった。
◇
事故は未遂で終わった。
けれど処理工程の一部停止、監視記録への異常記載、そして何より現場の緊張は、簡単に拭えるものではなかった。
「……おかしい。普通なら、警報が出る前に流量計の値で気づけたはずだよな」
休憩室で藤枝がつぶやく。作業着はまだ泥で汚れている。田村も、髪を滴らせたままだった。
「誰が切り替えたか、って話ですけど」
西谷が煙草に火を点ける。口調は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
「難波江やろ。昨日の夕方、作業票に名前があった。切り替え作業って書いてた」
藤枝が言った。珍しく声が低い。
「書いてたって言っても、あの人、字が汚すぎて読めんやろ?」
田村が言うと、藤枝は笑った。
「俺よりマシや。けど、たしかに作業票はあいつの字やった」
その日の午後、田村は所長室に呼ばれた。
「君……勝手にポンプを落としたそうだな」
所長は机を指で叩きながら言った。
「はい。あのままでは圧力が破裂域に入る可能性が高いと判断しました」
「独断専行は問題だぞ、田村くん。現場では上司の判断を仰ぐべきだ」
「ですが、難波江さんは誤操作を――」
「……その話はいい」
所長の目が泳いだ。その微妙な沈黙を、田村は聞き逃さなかった。
「今後は、上長の指示に従って動くように。それから……この件、正式な事故報告書にはしない。内部で対応する」
内部処理。それはつまり、難波江にお咎めなし、ということだった。
「所長、あんた、それでええんか?」
藤枝が所長室に怒鳴り込んだのは、そのすぐ後だった。
「新人潰して、今度は現場事故かい。なあ、あいつのやり方、ほんまに見過ごしてええと思うとるんか!」
「落ち着け、藤枝。これは組織の判断だ。感情で動くな」
「感情で動いたんは、難波江の方じゃ! 斎藤が寝てたくらいで椅子蹴っ飛ばして、目の前で足元に立たせて、顔真っ赤にして罵声飛ばして、それでも何もせんつもりか!」
所長は立ち上がり、言葉に詰まった。
「……難波江には、個別に厳しく指導をしている」
「口だけでな」
藤枝は吐き捨てるように言い、ドアを乱暴に閉めて出て行った。
「田村くん」
その夜、所長が一人で田村に声をかけてきた。
「君の判断は、正しかった。だが、それを正しいと公式に言うのが、難しい立場なんだ」
「わかっています」
田村は静かに答えた。
「でも、黙ってたら、また誰かが傷つきます。斎藤さんみたいに」
そのとき、田村の顔には決意が宿っていた。所長は小さくうなずいた。
「……難波江を動かすのは、あいつと対等に話せる人間だけだ。君にしかできないことがあるのかもしれない」
次の朝、田村は分離液ポンプの前に立っていた。青い作業着に袖を通し、手には点検表。
「藤枝さん、次の切り替え、僕と一緒にやりましょう」
「お、ええな。うちの機械、感覚で動いとるから、マニュアル読むより現場見た方が早いぞ」
「難波江さんも、呼びますか?」
田村の声には挑むような、でも澄んだ響きがあった。
「おう。あいつに俺のセンス、見せつけたれや」
三人の間に、不穏と希望の両方を孕んだ空気が流れた。
それでも田村は、一歩を踏み出す。
――静かだが、鋭い稲妻のように。




