第九章-2:火花散る活性炭切り替え作業(後編)
活性炭の液跳ね事故から数日。現場ではまだ、あのときのピリついた空気が尾を引いていた。
藤枝はというと、以前のような軽口を控え、黙々と整備仕事に打ち込んでいた。配管に耳を当ててはポンプの異音を探り、グリスアップの順番を確かめては慎重に手を動かす。背中から滲む汗が、どこかいつもより重たかった。
「藤枝さん、あの……これ、どう配線したらいいんですかね?」と新人職員が恐る恐る声をかけた。
「おお、こりゃな、色見てわかるやろ。青は青、赤は赤や。」
藤枝は少し笑って答えたが、目元は曇っていた。自信に満ちた昔の笑顔とは違っていた。
一方、難波江はというと、分厚い手順書を片手に、あらゆる作業を逐一記録し、指摘し、注意を飛ばした。
「手順6-B、確認した? 5分経ってないうちに次のバルブ開けたら、圧抜けきらんからな。」
周囲の職員たちはうなずくものの、どこか辟易としていた。
──だが、それでも難波江は自分のやり方が正しいと信じて疑わなかった。
(こんなアナログな職場、ちゃんとマニュアル化してやらなきゃいつか大事故が起きる。俺しかいないんだよ、変えられるのは)
難波江の中では、藤枝は旧時代の象徴だった。
汗と経験とカンだけで何でもやってきた男。その背中が、自分の正しさを否定してくるように見えて、憎かった。
■所長の焦りと葛藤
所長はそんな二人を見ながら、ただ黙って茶を啜っていた。
「……お互い、悪いやつじゃないんだがなあ……」
職場全体を統率する立場にある所長にとって、現場の空気が乱れることは最も避けたい事態だった。とはいえ、難波江の過剰な管理主義も、藤枝の職人気質な感覚任せの整備も、どちらも一長一短であった。
(難波江は熱心だ。でも、あいつのやり方じゃ職員がついてこれん)
ある日、休憩室で藤枝と所長が二人になったとき、所長はポツリと呟いた。
「お前の整備は、俺もよう分かっとる。感覚でやっとるって言うけど、それも一つの才能じゃ」
藤枝は無言でうなずいた。
「けどな、難波江……あいつ、頭でっかちやけど、焦っとるんじゃ。多分、自分が必要とされたいだけなんじゃろうな。」
藤枝はその言葉に何も言い返さなかった。
■密かな誤作動、再び火花
そんな折、またひとつ小さな事件が起きる。
分離液ポンプの予備機の運転切り替えの際、難波江が配線の順序を変更するように支持したが、それを受けた若手職員が混乱し、インバーター設定を誤って初期化してしまった。
「えっ……動かん……圧もかからん……」
現場が慌てて藤枝を呼び、藤枝は工具を片手に駆け込んできた。
「おい、難波江。これ、設定飛んどるやんけ!」
「いや、俺は手順通り指示したぞ! 何でそんなことになるんだ!」
「この子、配線見て迷ってたのに、あんた押し付けたんちゃうんか!?」
初めて、藤枝が声を荒げた。
一瞬、現場の空気が凍った。
難波江も、言い返そうと口を開いたが、声が詰まった。藤枝の怒気の奥に、職場全体の苛立ちが詰まっていることに気づいたからだった。
■噂、広がる
その夜、ロッカールームでは職員たちの間でささやきが広がっていた。
「難波江さん、また若手に強く当たってたな……」
「最近ギスギスしすぎて、休みたいくらいやわ……」
「藤枝さんがいてくれて、助かるけど……あんな怒ったの初めて見た」
職場は、確実に難波江から心が離れつつあった。
■独りの帰路、難波江の胸中
夜、難波江は工場の駐車場で、ひとりタバコを吸っていた。
煙の向こうに、薄暗い施設の灯りが揺れていた。
(……俺が悪いのか? 違う。俺は……間違ってない)
けれど、そう思えば思うほど、斎藤雄太の退職の記憶が脳裏をよぎる。
「……すまんかったな、斎藤」
初めて、心の中で謝罪の言葉が漏れた。
しかしその直後、彼の顔は引きつり、拳を握りしめた。
(けど、所長になるのは、俺なんだよ)