第八章:笑顔の裏の火花──藤枝と難波江の暗闘
夏の午後、施設の薄暗い休憩所に、二人の男が座っていた。ひとりは藤枝健司、三十五歳。おおらかで冗談好きだが、書類仕事はからっきしダメで、現場ではその腕を所長から一目置かれている機械整備士だ。もうひとりは難波江、同じ三十五歳。中途入社でスタンドプレーが目立ち、自己主張が強く、すぐにイライラを表に出す。難波江は前職が地方工場の末端社員で、今や所長を目指す野心家だ。
二人は、月に一度の分離液ポンプ切り替え作業を終え、汗を拭いながら休憩所で一息ついていた。
藤枝がカップを掲げて笑いかける。
「今日の仕事もよくやったな!俺たちがいれば、この施設の機械は完璧に回るぜ!」
「ええ、まあ、そうですね……」難波江は表面上は笑顔を作ったが、声にはどこか冷たさが混じっていた。
その笑顔の裏で、難波江の内心は静かな怒りを燃やしていた。
(藤枝、お前は感覚だけでやってる。書類は苦手だし、細かいところは雑だ。そんな甘さがいつか大きなミスを生む。でも、俺は違う。俺は計画的に完璧にやる。所長も俺のことを見ている。お前なんか、俺のライバルにもならない。)
藤枝はにこやかに続ける。
「最近お前、ちょっと堅苦しくなってないか?肩の力抜けよ。ピリピリしてると、逆にミスが増えるぞ。」
「ありがとうございます。そういう藤枝さんこそ、もう少し真面目にやってくださいよ」難波江は軽い返しでごまかすが、その目は鋭く光っている。
藤枝はそんな難波江の冷たい視線に気づかず、ふざけた調子で言った。
「お前といると、職場が賑やかでいいな。俺らコンビで所長を支えるってわけか。」
「そうですね、まあ……」難波江は笑みを引きつらせながら答えた。
二人の関係は、職場の誰の目にも微妙なバランスで成り立っていた。藤枝のほうはおおらかで冗談ばかり言って周囲の雰囲気を和らげる一方、難波江は無言で職務に厳しく、自分のやり方を押し通す。
所長も二人の扱いに苦慮している。
(藤枝は整備の腕は確かだが、書類は苦手で感覚でやるから心配だ。難波江は真面目すぎて現場の雰囲気を悪くすることもある。でも所長を目指している意欲は買える。二人のバランスをうまくとらないと、いつか爆発するな……)
そんな所長の懸念は的中し始めていた。
数日後、工場の騒音の中、難波江は藤枝に静かな声で言った。
「なあ藤枝、今度の切り替え作業の報告書、俺がまとめる。お前は現場の確認を重点的に頼む。」
「おう、任せとけよ。俺は手を動かす方が性に合ってるんだ。」
難波江は表面上の和やかさを装いながら、腹の底では何かを探っているようだった。
(報告書はしっかり書かないといけない。藤枝に任せるとまた大雑把で俺の足を引っ張るからな。)
休憩時間、若手職員たちが談笑する中で、藤枝が冗談を言って場を盛り上げている。
「難波江、もっと笑えよ。現場は笑顔が一番だぜ!」
難波江は少し疲れた様子で、眉間に皺を寄せながら言い返す。
「笑顔だけで仕事が回るなら苦労しませんよ。きちんと結果を出すのが大事です。」
藤枝は肩をすくめて笑う。
「お前は堅いなあ。でもまあ、俺らの性格は正反対だしな。」
その後も二人は、表面上は仲良くしているが、言葉の端々に相手を牽制する微妙な空気が漂った。
ある日の終業後、所長が二人を呼び寄せた。
「藤枝、難波江、月末の機械切り替えの準備は順調か?」
藤枝が元気よく答える。
「はい、所長。現場の整備は問題なしです。」
難波江も冷静に応じた。
「報告書も準備万端です。」
所長は二人を見比べながら言った。
「お前たち、性格も仕事のスタイルも違うが、お互いを尊重して職場をまとめてくれ。」
二人は一瞬だけ目を合わせ、うなずいた。
(だが腹の中では敵意が燃え続けているのだ……)
その夜、藤枝は家に帰り、ソファに腰を下ろしながらため息をついた。
「難波江か……あいつ、真面目すぎて疲れそうだ。でも仲良くやっていかんとな。」
一方、難波江も寝室でスマートフォンのメモ帳にこう書き込んでいた。
『藤枝には負けられない。俺が所長になる。俺がこの職場を引っ張る。』
職場の空気は一見穏やかだが、二人の間に横たわる見えない亀裂は日に日に深まっていく。笑顔の裏で激しい火花が散るのを、誰もまだ知らなかった。