第一章「派遣切り、そして帰郷」
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません
田村誠は、無言でノートパソコンの電源を落とした。東京都内の狭い客先オフィスの片隅、27歳。工業高校を卒業し、地方国立大学に進学したが勉強についていけず中退。バイトに明け暮れた学生生活を終え、細々と続けてきたIT企業の派遣社員としての生活も、新型ウイルスの影響で突然終わりを告げた。
「コロナのせいじゃけえ、しゃーないわな……」田村は呟いた。東京の冷たい空気の中で、不思議とほっとする気持ちもあった。都会の喧騒の中で、どこか故郷の岡山弁が心を支えてくれた。
新幹線の窓から流れる冬枯れの田園風景は遠い世界のように感じられ、誠の頭は自然と将棋の盤面に集中した。盤上の駒が静かに動き出すと、不安や苛立ちが霧散し、心が浄化される感覚に包まれた。
故郷の実家に着くと、母・文子はぶっきらぼうに言った。
「おかえり。東京でうまいこといかんかったんは、あんたのせいじゃろうが」
誠は黙って頷くしかなかった。父・剛はテレビの前で短く、
「まぁ、しばらくおりゃええ」
そう言った。
翌日、誠は地元のハローワークへ向かった。冷たい風に襟を立てながら、灰色のコンクリート建物の自動ドアをくぐる。館内のざわつきの中、受付で番号札をもらい、待合室の長椅子に腰掛けた。
順番が回り、二十一番窓口に立つ。担当の職員は四十代半ばの男で、岡山弁まじりの口調で問うた。
「どんな仕事探しとるんじゃ?」
誠は震え声で答えた。
「地元で…なんでも、働ければ」
職員は書類をめくり、二種類の求人票を差し出した。
「と殺業者」と「し尿処理施設運転員」。どちらも田舎の職種らしく、どこか暗く重い響きを持っていた。
「臭いもんには慣れとるか?」
誠は答えた。
「慣れてません…」
男は苦笑しながら言った。
「そりゃ大変じゃけど、やる人がおらんけえ、仕事は回っとる。覚悟せえよ」
誠は心を決めた。
「面接はどうなっとるんでしょう?」
職員は「と殺業者」の面接日程を告げた。
と殺業者の面接は、地元の公共施設の一室で行われた。薄暗い蛍光灯の下、誠は緊張で手のひらに汗をかきながら、狭い長テーブルを挟んで三人の面接官と向き合っていた。
面接官は全員男で、50代から60代くらい。ひとりは眼鏡をかけて無表情、ひとりは腕組みをしながら眉をひそめ、もうひとりはタバコのヤニで黄ばんだ指先で書類を弄っている。誠の岡山弁はまだ薄く感じられ、彼らの冷たい視線がじりじりと皮膚を焼いた。
最初に眼鏡の男が質問した。
「お前さん、動物のと殺の現場に耐えられるんか?」
誠は喉が詰まり、震える声で答えた。
「正直、初めてなので…慣れてません。でも、仕事として覚悟してます」
腕組みの男が冷笑した。
「覚悟だけでやれる仕事じゃねぇ。動物の血や臭いに耐える根性が必要じゃ。そんなんでやっていけるか?」
誠はぐっと唇を噛みしめ、頭の中で言葉を整理しながら、
「はい、必ず慣れてやり抜きます」
と答えた。
その時、黄ばんだ指の男が書類をぱらぱらめくりながら鋭い声で言った。
「じゃが、急な状況でも冷静に判断せんといけん。お前はそういう場面に対応できるか?」
誠は息を呑み、思わず顔を上げて目を見開いた。
「はい、できるよう努力します」
すると腕組みの男がじっと誠を睨みつけ、
「お前、根性あるか?」
「根性がなければこの仕事は務まらん」
その言葉に誠の胸は締めつけられた。必死に言葉を紡ごうとしたが、
「若いのに根性ないな。うちの現場は甘くないぞ」
と、眼鏡の男が鼻で笑った。
その冷たく突き放す態度が誠の自信を打ち砕いた。緊張と羞恥が交錯し、言葉が詰まった。
面接は厳しく、質問は畳み掛けるように続いたが、誠の答えは次第にか細くなり、やがて口数も減った。最後に、
「お前のような奴はうちには合わん。おとなしく別の仕事を探せ」
冷たい言葉が突き刺さり、誠は無言で席を立った。
廊下に出ると、冷たい冬風が肺に染み、悔しさと焦燥が胸を占めた。だが、その挫折もまた、田舎での再出発の一歩だった。
再びハローワークに戻った誠は、「し尿処理施設」の面接に希望をつなげた。だが窓口での給与の話は冷たかった。
「正直な話、月16万くらいじゃ。高卒と同じレベルじゃけど、田舎じゃそれで生活しとるんじゃ」
職員の鼻で笑うような態度に、誠は怒りをぐっと飲み込んだ。
「安いけえ辞める人も多いしな。臭いし、体もきついけえ、若い人は続かん仕事よ」
誠は小さく息をつき、心の中で呟いた。
(それでも、働けるだけマシなんじゃ…)
その夜、将棋支部の例会で初段以下の部に出場し、久しぶりに優勝した。対局中は頭の中が浄化され、勝利の喜びがじわじわと胸に染み渡った。
実家に帰り、質素な食卓で自分が作った味噌汁をすすりながら、誠は思った。これからはこの田舎で、新たな生活が始まるのだと。厳しい現実を受け止めつつも、将棋盤だけが彼の心の支えであり続けるのだった。