第34話 一線を越えた瞬間
どこか遠くへ行っていたらしいエリオットは、外套を着けたまま部屋の中に立っていた。随分タイミングよく現れたが、どこか遠くへ行っていたらしい。そして、上がった息を整えると表情一つ変えずにこう言った。
「だいぶ前から分かっていた。兄様が僕をどう思っているか。でも、それでもよかったんだ」
「……お前、何を言ってるんだ?」
ここに来て初めて、ユージンが感情を揺さぶられたような反応を見せた。
「地下の部屋の隣が倉庫になっていたでしょ。鍵がかかってなかったから、何となく覗いてみたことがあったんだ。そこには亡くなられた奥様の私物が置いてあって、中に指導用の鞭があった。あれは兄様に振るわれたものでしょ。兄様は奥様にされたことを僕にしているとその時分かった」
ユージンはそれを聞いて、みるみるうちに顔が赤くなった。どれだけビアトリスが彼を怒らせようとしても一切感情を動かされることがなかったのに、エリオットのこの一言は相当効いたらしい。まさか弟に自分の恥部を暴かれるとは思わなかったのだろう。
「お前、なぜ今まで黙っていた?」
「ずっと黙っているつもりだったよ。兄様が決して知られたくないことだろうと思ったから。でも、ビアトリスに危害を加えたらいくら兄様でも許さない。これは僕と兄様の問題だろう? 彼女を巻き込むな」
エリオットは、感情のない目をユージンに向けた。ここにいる誰もがエリオットのそんな顔を見たことがなかった。みな思わず息を飲んで黙りこくる。
「は……お前そうやって、口では兄様兄様と慕う振りをして、内心ではバカにしてたのか。そういう奴だと思ってたよ。汚い血の生まれは心まで汚れてる」
「慕っていたのは本当だよ。僕が10歳の時、兄様が訪ねて来ただろう? あの瞬間、運命は変わったんだ。兄様が来てくれなかったら、僕は今でも劇場の裏方で惨めにこき使われていたと思う、舞台で繰り広げられる虚飾の世界だけを見つめて。だから兄様には感謝こそすれ恨んだことは一度もなかった。本当だよ、最近までは」
そう言うと、エリオットはじとっとした目でユージンを見つめた。ここに来て形勢が逆演している。まさかエリオットの出現でここまで変わるとは誰も予想していなかった。
「兄様が行方をくらました本当の理由やっと分かった。友人の病床に駆け付けたなんて嘘でしょう? 本当は、僕の受け取るべき財産を自分名義に変えに弁護士のところへ行っていた、僕の署名を偽造してまで。なぜこのタイミングで? と思ったけど、どうやらテレンス家と事業をやることになりお金が必要だったようだね。うちは案外お金持ちじゃなかったらしい。ついでにミーガン嬢との婚約話もうやむやにできて一石二鳥だったんでしょう」
ユージンは、淡々と語るエリオットを穴のあくほど見つめていた。弟の変貌ぶりがまだ信じられないらしい。
「お前にしちゃ上出来だな。そこまで調べてくるなんて。まだそんな力が残っていたのか。すっかり牙は抜いたつもりだったのに」
「『紅の梟』のスポンサー探しが難航していると聞いて、自分の力で何もできないのが不甲斐なくて、せめて財産をきちんと管理できるようになりたいと相談に行ったら、自分名義の財産が全部兄様の名義に変わっていると聞かされた。それで二週間前に兄様を訴えるつもりでここを離れ、弁護士と一緒に準備してから実家に行ったら入れ違いだった。その時ハインズに言われたんだ、兄様は王都に向かった、何か企んでいるらしい、僕がいなかったらビアトリスのところに行くはずだからすぐに戻った方がいいと」
「ハインズが何を知ってると言うんだ?」
「全部だよ。ビアトリスを中傷する文書を兄様が『楡の木』に送ったことも教えてくれた。彼は僕の味方になろうと親身に相談に乗ってくれたんだ」
それを聞いたユージンは声を出して笑った。
「ただの使用人ごときに何が分かる? 彼らは仕事で仕えてるだけだ。金と利害関係次第でどうにでも転ぶ。そんな連中を信用するなんて、やっぱり甘すぎるな」
「何とでも言えばいい。僕もやっと目の前の霧が晴れた。ただ——」
ここで、エリオットは言葉を切って、初めて自信がなさそうに地面に視線を落とした。
「どうしても分からないことがある。どうして兄様は僕にこだわるんだ? そこまで僕が恨まれるようなことをしたのか? どうしても分からない。一つだけ心当たりがあるとすれば、奥様が亡くなったことだけど——」
「ハッ! あんな女どうでもいいに決まってるじゃないか! むしろお前が消してくれて感謝したくらいだ」
そばで聞いていたビアトリスとアンジェリカが顔を歪ませるのもお構いなく、ユージンは言葉を続けた。
「お前に初めて会った時のことを今でも覚えている。親父に隠し子がいると聞いて面白半分に見に行ったんだ。まだガキだったお前は、目を輝かせて駆け寄って来た。自分を見てこんなに喜んでくれる存在がいるとは信じられなかった。それで自分のものにしようと決めたんだ。幸い、母親の風除けになったり邪魔者も消したりと、十二分の働きをしてくれた。一旦足が遠のいたが、お前の母親が死んだのをいいことにまた呼び寄せた。今度はずっと手元に置いておきたい。だったら家から出られなくすればいい。大学の合格通知を握りつぶしたり、周囲に悪評を振りまいたりしたら、狙い通りに引きこもりになってくれた」
「信じられない! 人の人生を何だと思ってるの? このけだもの!」
たまらずビアトリスが叫んだが、エリオットは手を挙げて制した。
「大丈夫だよ。僕は平気だから。だって、この星の巡り合わせで君に会えたんじゃないか。色々あったけど、君に出会うために必要だったと思えば何のことはない」
「どうしてそんな風に考えられるの? あなたはユージンにもっと怒っていいはずよ!?」
ビアトリスは、一切動じることがない、凪のように静かで慈愛の表情すら浮かべるエリオットが信じられなかった。どうしてこの局面でそんな顔ができるのか?
「自分でも情けないと思うんだけど、この期に及んでも怒りが湧いてこないんだ。ずっと前から分かっていた気がする。分かっていたけど、ぬるま湯が心地よくもあった。でも、もう外の世界を知ってしまった以上、ぬるま湯じゃ満足できない。それに、自分以外の人間を傷つけるわけにはいかない——」
エリオットはそう言ってから、再び目に力が宿って来た。
「兄様の性格はよく知っている。この後どうするかも予想がつく。でも、ここは矛を収めて帰って欲しい。僕とビアトリスには近づかないと約束して欲しい。これは最後通告だ」
今までになく力強い声だった。ユージンに対してここまで毅然とした態度で物を言える日が来るなんて誰も想像していなかった。しかし、予想がつくとはどういう意味なのだろう。いまいち本心が読み取れない。ビアトリスたちは固唾を飲んで見守った。
「ふうん。本当にこの先のことが予想できるのか? さっきからこっちの神経を逆なですることしか言ってないのに? よくもまあ、べらべらとくっちゃべったものだな。お前のすました顔が反吐が出るほど嫌いなんだ。もっとのたうち回っているところを見せてくれよ!」
ユージンはそう言うと、懐からピストルを取り出した。ビアトリスとアンジェリカはそれを見て金縛りにあったように動けなくなった。しかし、エリオットは前に飛び出してユージンに立ちはだかる。そして、あろうことか、ユージンに飛びかかったのだ。
「何度言っても分からないのか! 他人を巻き込むなと言ってるんだよ! 兄様の目的は僕なんだろ? さあ撃てよ!」
その時、耳をつんざく発砲音が鳴り響いた。ビアトリスは、訳も分からず金切声を上げ、エリオットがゆっくり倒れるのを目の当たりにした。
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