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第3話 ペンドラゴンは推し編集長

翌朝、ビアトリスは寝間着に上着を羽織ったまま、目に隈を作った状態でエリオットのいる地下室へと駆け降りて行った。


「エリオット様、おはようございます!」


「わっ! どうしたの? こんな時間に!? まだ朝なんじゃないの?」


「昨夜お借りした本読みました! まだ上巻だけですが」


「えっ、もう読んだの? 早いね!?」


「だって止められなかったですもの! 気づいたら朝になってました」


だから目に隈を作っているのか。確かに彼女があれを選んだ時にそんな予感はしたが。エリオットは、らんらんと目を輝かせる新妻をしげしげと眺めた。


「じゃあ寝てないんだ……でも面白かったみたいでよかった」


「そりゃもう! この興奮を誰かと共有したくなって来ました! まだ下巻もあるんですよね。楽しみです!」


少女のようにはしゃぐビアトリスが何だか面白くて、エリオットも釣られて笑った。


「うん。ランカスターの中でもあれは特に面白いよね。こうなるんじゃないかとは思ってた」


「そう言えば、エリオット様は夜の間どうしてたんですか? まさかずっと書き物を?」


ビアトリスは、エリオットが昨夜と同じ場所で同じことをしているのに気づいた。よく見たら彼も徹夜でやつれている様子だ。


「何だかとても疲れている様子じゃないですか! 休まなきゃ駄目ですよ!」


「それを言うなら君だって目に隈ができているよ。午前中はゆっくりした方が——」


「下巻がまだあるのに? そんなの拷問です! もし手伝いが必要なら、私でよければ……」


「あ、いや。これは僕しかできない仕事なんだ。お気持ちだけ受け取っておくよ」


エリオットは、慌てて机の上に広げられた書き物を両手で覆い隠した。それを見て、自分が侵入してはいけない領域であると何となく察する。


「あ……そうでしたか。では失礼しますね。朝から騒々しくてすいませんでした」


ビアトリスはそう言い残すと部屋を出て行った。これではすっかり変人だとバレてしまったかもしれない。昨日来たばかりなのに軽率なことをしてしまった。


しかし、エリオットも細かいことを気にするタイプではない気がする。共通の話題として本の話ができればなんて希望的観測をした。


**********


ビアトリスは、執事のハインズから家の事務仕事のやり方を教わった。本当にそれさえしていればエリオットは何も言ってこない。というか、彼はずっと地下室にこもっていて、こちらから足を運ばない限り姿を見ることも殆どない。一つ屋根の下では暮らしているが、お互いの生活に干渉しない、てんでばらばらの夫婦だ。


そのうち実家で受けた付け焼刃の淑女教育をかなぐり捨てて、ドレスを脱いでズボン姿で家の中を闊歩するようになった。読書に飽きた時は乗馬したり木登りしたりして自由に過ごす。


実家にいた時は家族の目を盗んでこそこそやっていたことが、ここでは大手を振ってできるのだ。嫁ぎ先で十分に羽を伸ばせるなんて思ってもみなかった。


(ここに来てよかった! エリオット様は、私が何をしても眉をひそめないし自由にさせてくれる。言われた仕事だって大した量じゃないし、自分の時間も十分に取れる。ここでは淑女教育を拒否しても怒る大人はいない。結婚ってこんなにいいものだったのね!)


そんなことを考えていると、侍女が小包を一つ彼女の元に持って来た。それを見たビアトリスはぱっと顔を輝かせる。


小包を見た途端、それが何なのか察しが付いた。少しでも待ちきれず、包装紙をびりびりと破く。中から出てきたのは一冊の雑誌だ。「紅の梟」と書かれた表紙を見て思わず浮足立った。人目もはばからず、胸に抱いてぴょんぴょん飛び跳ねる。


「紅の梟」は、作家を志す者の間で知られる有名な同人誌である。有名作家も変名で寄稿していると言われ、そこに掲載されるのは、作家にとってこの上もなく名誉なことだった。プロもアマチュアも同じ土俵で競わされるのが特徴で、そういう意味では厳しいが平等と言える。


これを足掛かりにして有名出版社に拾われ、名を上げる者も珍しくない。いわば、作家の登竜門的な意味合いのある本だ。


ビアトリスはかつて作家を志して、この雑誌に投稿を繰り返した。自分の小説を掲載してもらえば、作家として頭角が表せると思ったのだ。


だが、結果は惨敗だった。まるで、彼女の小説などこの世にないかのように無視され、夢は砕け散った。少し前までは雑誌を見るだけで胸が痛んだが、最近は大分平気になってきた。


彼女はお気に入りのソファに体を埋め、むさぼるように読み始めた。今月号も相変わらず面白い。連載小説の続きはもちろん、単発の短編小説も選りすぐりの傑作だ。


どうしたらこんな話が書けるのだろう。どんな体験をしたらこんなアイデアを思いつくのだろう。作家もすごいが、これを選定する編集部の審美眼も素晴らしい。


自分はこんな世界に挑もうとしていたのだ。振り返ると途方もなく無謀だったと今になって思う。


特にお気に入りなのは、「紅の梟」の編集長であるペンドラゴンの巻頭言だ。雑誌を受け取るといつも真っ先にここをチェックする。巻頭言は雑誌の心臓部とも言え、編集長の文学に対する情熱、ポリシー、哲学がぎゅっと詰まっていた。彼女は、ペンドラゴン編集長のファンで、巻頭言だけスクラップにして収集しているほどだ。


『諸君らは、普段この世界において、どのような仮面を被って暮らしているのだろうか。妻子を愛する善良な夫か、上司に頭を下げる役人か、帳簿の数字が合わないと暗がりの中で計算を繰り返す事務員か、はたまたいつまでも独り立ちせず白い目を向けられる家族の厄介者か——。置かれた状況は数あれど、物語のペエジを開くとき全ての者は平等になる。作品の中に没入してしまえば、君たちは、外の世界でどんな扱いを受けていても、三千世界を放浪する冒険者にも、玉乗りの練習をするピエロにも、叶わぬ恋に身を焦がす騎士にもなれる。今まで生きてこなかった人生を追体験して、しばし知らない世界に身を置き、明日の活力を充填する。本を読むひと時は、我々にしか許されない心のオアシスなのだ。読書は怠惰の文化と抜かす輩がいる。現実から目を逸らすためのおためごかしだと。彼らにはこう言ってやらう。破れほつれた現実を生きるために虚構はあると。虚構の世界でしばし暖を取ったり、戯れに興じたりすることで英気を養い、辛く苦しい現実に立ち向かうことができるのだと。何を言われてもひるむことがあろう。これは、生きるための糧なのである』


ビアトリスは読み終わると、ほうと至福のため息をついた。今回もペンドラゴン編集長の筆はキレキレだ。それから他のページをチェックする。


気付くと辺りはすっかり暗くなっており、夜になっていた。そう言えば、先ほど夕食ですと言われた気がするが、それも無視してしまった。なんでもいいからお腹に入れておかないと。


ビアトリスは、使用人に食事を持って来てくれるように頼もうと部屋を出た。すると、部屋の前に立ち往生しているエリオットとぶつかりそうになった。彼が地下室を出るのは珍しい。まさか、自分に用があってここまで来たのか?


「ビアトリス、ああ……ここにいたのか」


エリオットも彼女と鉢合わせして気まずい表情を隠しきれない。お互い顔を見合わせてしばらくまごまごしていたが、キリがないので彼が先に口を開いた。


「あの……君のお父様から手紙が来たんだけど……書類さえ提出できていれば式の必要はないけど、家族で君の様子を見に来たいんだって」


「え? わざわざ会いに来るの? 今更親みたいなことしなくていいのに! 放っといてよ!」


そんなことエリオットに言ったところで、彼を困らせるだけである。衝動的に言ってしまってから、彼が戸惑った顔をしていることに気付いた。


「ごめんなさい。あなたに言っても仕方ないですね」


「いや、気持ちは分かるよ。誰もこんなところ好き好んで来るはずがない」


「いいえ、そんなつもりじゃ」


「おかしいと思ったでしょ? モグラみたいに地下室に引きこもって殆ど顔を出さない夫なんて普通いない。しかも、君が来る日も忘れてたなんて」


自嘲気味に言うエリオットの言葉を、ビアトリスは慌てて遮った。


「そんなことありません。私、実家で窮屈な生活をしていたので、ここに来て自由にさせてもらって感謝しています。私みたいな変人でも許されるんですもの」


「ん? 変人? そうだったの? どんなとこが?」


エリオットがきょとんとして尋ねる。


「ああ、ええと。本の虫だったり、ズボンを好んだりするところ?」


「……その程度で変わってると言われちゃうんだ。女の人は大変だね。僕の目にはどんな相手にも失礼のない態度で接するところが好ましく見えるのに」


しれっと相手を喜ばせることが言えてしまうエリオットは、引きこもりどころか人たらしなのではないか? ビアトリスはそんなことを考えながら、耳まで真っ赤になってしまった。


「でも、あの、私の家族がもしかしたら失礼な態度を取るかもしれません。今のうちに先に謝っておきます」


ビアトリスは、妹のミーガンのしたことを思い出してぺこりと頭を下げた。


「いや、それは向こうの方が正しいから何を言われても仕方ないよ。だっておかしいだろう? 地下室に引きこもってるなんてさ」


「あの……どうして引きこもりなのか聞いてもいいですか?」


もしかしたら怒られると思ったが、この際なので思い切って尋ねてみた。


「ちょっと昔に嫌なことがあって、それから外へ出るのが怖くなったんだ。そしたら兄様が、お前を外敵から守ってやるからずっとここにいろって言ってくれた。それ以来外に出られなくなって」


「お兄さんが……守ってくれる?」


奇妙な言い回しに、ビアトリスは眉をしかめた。


「ああ。僕の母は卑しい身分の出身で、それもあって色々とまあ。それ以外にも嫌なことが重なって、兄様がいなかったらどうなっていたか分からなかった。当主代理なんて僕に務まると思えないから、早く帰って来てくれないかな」


「……お兄様を随分慕っているんですね?」


ビアトリスは不思議な気持ちで尋ねた。普通なら、本当に相手を思っていれば地下室から出てくるように働きかけるのではないか? ずっと引きこもったままでいいなんてアドバイスをする人間がいるのだろうか?


「うん、兄様は、お父様にも嫌われた僕をかばってくれたから」


微かに頬を染めて話すエリオットを見ていたら、それ以上深入りしてはいけないような気がした。第一、まだ心の柔らかいところに触れられる関係性に至っていない。


ビアトリスが黙ってうつむくと、彼女の右手に持っている雑誌にエリオットが目を止めた。


「あれ、これ『紅の梟』の最新号じゃ……何で君が持ってるの?」


「え? これですか? 本好きならもしかしてと思ったけどやっぱりご存じでした? 私定期購読してるんです。ペンドラゴン編集長のファンで。エリオット様も読んでるんですか? あ、もしかして……」


先ほどの話題はすっかり忘れ、ビアトリスはエリオットの奇妙な行動の理由がやっと分かった気がした。


「徹夜で何をしてるんだろうと思ったら、あの雑誌に投稿小説を書いてたんですね! すごく熱心だったから不思議だったけど、やっと腑に落ちました!」


そう言ってニコニコ笑うビアトリスに、エリオットはびっくりしたが釣られたように笑っておいた。この時彼が本当は何を考えていたのか、ビアトリスは知る由もなかった。


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