第13話 天国から一転
ビアトリスは、一瞬何が起きたのか分からず目を白黒させた。だんだんエリオットの顔が近づいて来て、気づくと敏感な唇と唇が合わさっていた。
それはエリオットの方も同じだ。愛し合う男女が何をするかは知っている。その類の本も読んできた。でも自分がその対象になるなんて想定してなかった。どこか遠くの世界の出来事としか思えなかったのに。
だから、自分から彼女にキスをしに行くなんて、本人ですら分からなかった。体が勝手に反応しただけなのだが、なぜか自分の体はどう動けばいいか知っていた。エリオット自身も知らないことを、体の方が知っていたなんて皮肉なことだ。
「ご、ごめん! なんてことを……」
エリオットはぱっと離れて、我に返りしどろもどろで弁解しようとしたが言葉が続かなかった。驚愕で見開かれたビアトリスの目をじっと見つめる。
ただただ、驚きに包まれる彼女だったが、そこには嫌悪や侮蔑といったマイナスの感情は見えてこなかった。
「あっ、あの……」
ビアトリスが黙ってエリオットの袖を引く。どうやら二人は同じ気持ちらしい。彼もまた、さっきの感触を確かめたくなり、再び唇を近づけると今度は角度を変えながら味わった。
「むっ……」
ビアトリスは思わず声を漏らした。どうしよう、何が起こってるの? でも不思議と嫌じゃない。嫌じゃないどころかこの瞬間を待ち望んでいた気さえする。
元々鋭敏だった唇の感覚が更に研ぎ澄まされる。訳が分からないがこの感覚を手放したくない、彼女は目をつぶって、他の情報を遮断してただ一点に集中した。
どれくらいの時間が経っただろう。ようやくエリオットは唇を離した。
「やっ……ごめ……」
「謝らないで」
「えっ?」
「悪いことしてない。もっと堂々として」
「分かった、ご……いや何でもない。ねえ、ビアトリス」
「うん?」
「今までは何となく嫌われたくないなとぼんやり思っていたけど、これからはもっと自分を好きになってほしい欲が出てきた。僕は欲張りになってもいいだろうか?」
ビアトリスはエリオットの真剣な顔をじっと見つめた。一般的には風采の上がらぬ容貌と言われるのだろうが、一世一代の決意を口にしている彼の表情からは並々ならぬ覚悟が伺え、こんな凛々しい顔は世界中にないと思える。ビアトリスの答えは決まっていた。
「どうしてそんなこと聞くの……ずっと前から好きだよ。あなただけは私を否定しなかった。どんな誰より一番好き。じゃあ、反対に聞くけど、あなたは私でいいの?」
「もちろん。君と出会ってから世界が変わった。世界はもっと広くて可能性に満ちていることに気付いたんだ。全て君のお陰だ」
二人はじっと見つめ合った。思えば最初から分かっていたような気がする。でも人は、言葉で確認しなければ思いが通じ合わない。相手の心を読むなんて無理なのだから、いちいち手間をかけなければならないのだ。
しばらく見つめ合ってから、お互いふふっと笑う。花がほころぶような穏やかな笑みで、一気に緊張が和らぐ。
食事のことがどこかへ行ってしまったが、エリオットの部屋に持ってこさせ、簡単に済ませることにした。二人一緒であることが大事なのであって、体裁を気にする彼らではない。そこで、食事をするための別の部屋を探そうと話し合った。
この日はこれでお開きになった。しかし、翌日以降、いつもの日課で散歩に出かける彼らの距離が縮まったのは、誰の目にも明らかだった。
ハインズは、その兆候をいち早く察知し、二人の関係が深化したことを悟る。使用人の立場で主人のプライベートに立ち入るのはマナー違反だとは分かっていたが、不遇だったエリオットがだんだん明るい表情に変わっていくのを密かに喜んだ。
「前より明るくなったよね、お屋敷の雰囲気」
「あ? ああ。そうだな。新しい奥様がいらしてからだな」
「エリオット様も地上に出てきたし、地下にいる頃は得体の知れない人だと思って近づかなかったけどあんな人だったんだ。ユージン様が色々言ってたけど、別に変なところなんてなかったね」
「しっ。いつユージン様が帰って来るか分からないから口は慎めよ」
使用人たちの噂話なんて渦中の二人には聞こえてこない。ただ、毎日が楽しくて仕方ない。建前上は、結婚した夫婦ということになっているが、中身は恋を知り始めた少年少女と同じだ。
「ねえ、前に散歩で通りかかったレストランへ一緒に行ってみない?」
「うん、何だか行けそうな気がする」
エリオットから好感触の返事が返って来たので、二人は散歩の帰り道にあるこぢんまりしたレストランでお昼ご飯を食べることにした。
「ねえ、二人でお店で食べるって初めてだね」
店に入って席に着き、わくわくした様子を隠せないビアトリスが、エリオットに言った。
「僕なんか、店に入ること自体久しぶりだよ。もう何年もこういうところには来ていない」
一人のままだったら今でも無理だっただろう。ビアトリスと一緒なら何でもできるような気分になるのが不思議だ。
「じゃあ、いい機会だね。そのうち王都にも一緒に行こうよ」
含み笑いをしながら言うビアトリスを見て、彼女が言わんとしていることがエリオットにも伝わった。ビアトリスが行きたかった王都にいつか二人で行くのだ。王都のアパルトマンに部屋を借りて一緒に暮らす。想像するだけで胸がわくわくする。兄が帰ってきたら相談してみようか。少し前はそんなこと思いつきもしなかった。
やがて運ばれて来た煮込み料理に舌鼓を打って、二人は付き合ったばかりの初々しい恋人のようにじゃれ合った。
楽しい。幸せ。生きていてこんな感覚があったのかと思う。世の恋人は、みんなこんな経験をしたのであろうか。世の中は、恋にまつわる小説や詩が多いが、なるほど、これだけ人の心を乱すものならば無限の言葉が紡がれるのも頷ける。文学誌の編集長をしている立場なのに、今までこんなことすら分からなかった。
それは、ビアトリスの方も同じだった。楽しい。幸せ。結婚なんて人生の墓場だと思っていた。自分を理解してくれない夫に枷を嵌められるだけだと。その先にこんな展開が待っていたなんて、誰が予想しただろう? エリオットは、自分にとって最高の恋人であり夫だ。こんな運命の人他にいない。
二人は散々食べて、飲んで、笑った。そして幸せな気分に包まれたまま、手を繋いで屋敷へ戻る道を歩いた。
「ねえ、家に入ったら誰かに見られるかもしれないからここで……」
玄関の手前で、突然ビアトリスが立ち止まる。最初、彼女が何を言っているのか分からなかったが、少し恥ずかしそうにしている様子を見てやっと察し、軽いキスを交わす。
甘いムードのまま手を繋いで屋敷へ入ると、ハインズがなぜか焦った表情を浮かべて二人の元に駆け寄って来た。
「あっ、エリオット様がお帰りになった。お帰りなさいませ! 今すぐお呼びいたしますので!」
呼ぶって誰を? 尋ねる間もなく、ハインズは一旦奥の部屋へ戻って行く。誰かにエリオットが帰ったことを報告しに行ったように見えた。
「ん? いつもと様子が違うな。何があったんだろう?」
その答えはすぐに分かった。地下室がある方向から誰かがゆっくりとこちらへやって来る。サラサラした金髪にアイスブルーの瞳。麗しい貴公子そのものといったいで立ちに、直接会ったことがないビアトリスでも、それが誰なのか察した。隣にいるエリオットが急に顔を輝かせたのを見て、答え合わせした気分になる。
「兄様! お帰りになったんですね! よかった! 寂しかったです!」
エリオットは両手を広げてユージンに抱き着かんばかりに駆け寄った。しかし、ユージンの表情は暗く、光の宿らない目で弟をじっと見つめている。傍で見ていたビアトリスは、その大きすぎる落差に背筋が凍る思いがした。
(一体何なの、これは? 何が起こると言うの? エリオットはどうして気付かないの?)
とてもよくないことが起こる気がする。こういう勘はよく当たるのだ。ビアトリスはなす術もなく、間もなくやって来る災厄を待ち構えるしかなかった。
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