66 包帯に染み込んだ還り血
――時間は現在に戻る。
意識を取り戻したカイネはゆっくりと目を開ける。
母親の手に抱かれる赤子のような、心地よい感触と振動を感じた。
「(温かい……全身を蝕む忌々しい祝福の痛みがない……ここは、天の国か?)」
しかし――視界がボヤけて殆ど何も見えない。
目を閉じ、もう1度開ける。
少しだけ視界がクリアになる。
何度か瞬きを繰り返すカイネは、目の前に少女がいることを認識した。
「――フランシスか?」
「カイネ様!? 目を覚まされたのですね!?」
「フローレンス…………か」
どうやらまだ自分は現世にいるらしい――とカイネは心の中で呟いた。
「なぜ……俺は生きている……?」
フローレンスはカイネの頭部を膝の上に乗せており、その身体に触れて回復魔法をかけ続けている。
そして2人は馬車の荷台に乗って移動していた。
「それは……」
フローレンスはゆっくりと経緯を語り始めた。
カイネがダンジョン最下層で【聖砂の錆塵】を発動し、錆の嵐はダンジョン1層にまで到達する規模であった。
シド・ラノルス討伐の為に、ダンジョンに先回りしていたカイネに同行し、入口で待機していたフローレンスはカイネの身を案じて嵐の中を単独で潜り始めたのだ。
全身に防護魔法を張り、常に回復魔法をかけ続けて肌を焼く腐敗の砂から身を守りながら最下層に到達した彼女は――瀕死のカイネを発見する。
フローレンスはダンジョンコアを回収したのち、カイネの心臓に突き刺さった鋸鉈を引き抜いて【聖砂の錆塵】を止めると、回復魔法による治療を始めた。
1分後――ダンジョンコアを回収したことでダンジョンは消滅。
地上に送還された2人は聖教会の馬車に乗って王都へ帰還している最中であった――という経緯を効き終えるカイネ。
「余計な事をしやがる……」
最終手段である【聖砂の錆塵】を使うことを視野に入れていたカイネは、先日の薬師セルヴァ同様1人でシドと戦うつもりであった。
にも関わらず、フローレンスが同行すると言って聞かないので、ダンジョンの入口で待機するという条件で動向を許可したのだが、まさか錆の嵐の中を1人で歩き、最奥部にまで到達するとは思いもしなかった。
その慈愛の精神と、卓越した回復魔法の技量は――彼女の母であるフランシスを彷彿とさせた。
「もう十分だ……俺から離れろ」
「いえ、まだ治療は終わっていません!」
フローレンスは頑なにカイネの要求を拒否。
カイネを膝の上に乗せたまま、彼の胸部に手を当てて回復魔法をかけ続けている。
そのせいでフローレンスの腕は肘のあたりまで、その滑らかな白い肌が爛れてしまっている。
腐食の痛みはカイネ自身がよく知っている。
たかだか12歳の少女が悲鳴を上げずに耐えられるような痛みではない。
にも関わらず、フローレンスはカイネに回復魔法をかけ続ける。
「(【聖砂の錆塵】は例え聖職者であろうと問答無用で塵に分解する神の奇跡。小娘如きの防護魔法でどうこう出来るはずがないが――なるほど、あいつの血という訳か)」
カイネは腐敗の体質と、奇抜な外見もあり、親しい者は殆どいなかった。
そんなカイネに唯一いた友が、セルヴァとフランシスだった。
カイネが任務で負傷して帰還すると、フランシスは腐敗が移るのを気にせず回復魔法でカイネの傷を癒した。
そんな日々を重ねたことで、カイネ程ではないにしろ、フランシスにも腐敗に対する耐性がつくようになった。
フローレンスが【聖砂の錆塵】の中を五体満足で生き残れたもの、フランシスの腐敗耐性を引き継いだからだった。
「どうして……俺の為にそこまでする……」
「だってカイネ様は、こんな身体になってまで、沢山の魔物と悪人と戦ってきました。にも関わらず、大聖堂の方々はカイネ様を避けておられます――そんなの……あんまりではございませんかっ!」
『あっ、カイネ君腕怪我してるじゃん! 私が治してあげる』
『よせ――俺に触れるな。腐るぞ』
『大丈夫だよ、回復魔法で治せるもん』
『なぜ俺の為にこんなことをする』
『カイネ君は誰よりも苦しい思いをしながら戦ってるのに、他の皆はカイネ君に感謝しないどころか、気持ち悪がってるでしょ? 神様は私達の行いを全て見てるっていうけどさ、それだけで頑張れる程、人は強くなれないよ――でも、私はちゃんと見てるから――カイネ君のこと』
――ふと蘇る遠い昔の記憶。
「血は争えないという奴か」
「…………え?」
「お前の母親も――お前と同じ、変わり者だ……という意味だ」
「お母さまのことをご存じなのですか!?」
「…………ただの腐れ縁だ」
カイネはこれ以上会話を続ける気はないと――目を瞑る。
「もう、好きにしろ。ただ、俺の治療が終わったら、すぐに自分の傷も治せ――もし少しでも痕が残っていれば、二度と俺に近づくことは許さん」
それはすなわち、フローレンスの治療を大人しく受け入れることを意味していた。
「はい!」
フローレンスは元気よく返事をしながら、回復魔法をかけ続ける。
「俺は少し眠る……」
「はい、お休みなさいませ――カイネ様」
カイネは目を閉じる。
常に肉体の腐食と共に生きてきたカイネは、久方ぶりに痛みの感じない肉体で、穏やかに眠りについた。
あわよくば、さっきの夢の続きを見れることを願って――
***
――カイネが眠りについたのを確認し、フローレンスは回復魔法をかけながら、ダンジョン最深部の様相を思い出す。
「(シドさんとカイネ様が戦ったダンジョン最深部――そこには白骨化した人間の腕がありました。恐らくはシドさんの腕でしょう。しかし、ダンジョンにあった骨は腕一本分のみ。腕の骨だけが残るのはあまりにも不自然――恐らく、シドさんはまだ生きていらっしゃいます)」
フローレンスはかつて、S級ダンジョン【緋宵月】にて、シドがヴァナルガンドの力を手に入れたことを知っている。
故に彼女は、討伐対象である影霊術師が空間移動能力によって逃走し、まだ生きていることを確信していた。
「(私はどうすればいいのでしょうか……シドさんは皆さんが思うような残忍な人ではありません――影霊術師に覚醒したというだけで殺害対象にされるのはあんまりではないでしょうか……王族殺しもきっと何か事情があったに違いありません……)」
フローレンスは葛藤する。
聖教会の命令に従いシドを殺すべきか。
しかしシドは彼女にとって命の恩人でもある。
そしてシドを倒すということは――フローレンスが理想とする世界――シカイ族の差別意識を撤廃するという理念にも反する。
結論は出ない。
揺れ動く心を落ち着かせるため、今はカイネの治療に精神を集中させるフローレンスであった。
今彼女にできることは、それだけなのだから。




