168 エピローグ
最終回です。
――70年後。
***
――大聖堂。
――聖教会の最高責任者、教皇の寝室にて。
「それではフローレンス様、おやすみなさいませ」
「ええ……おやすみなさい」
夜も深けた時間帯。
ベッドの上に横たわる老婆――御年92歳を迎えた《慈愛の聖女》にして、70年もの間教皇として君臨したフローレンス・キューティクルが、しわがれた声を返事をする。
足腰の悪くなった彼女の介助を担当する若い女助祭は、フロウの身体に毛布をかけたのち、一礼した。
「また明日、いつもと同じ時間に参ります――夜間なにかご入用の際は、お手元のベルで及び下さいませ」
そうして女助祭が退室しようとすると――
「ああ、お待ちなさい」
――と、呼び止められる。
「はい。どうかなさいましたか」
「あなたにはとてもお世話になりました――今までありがとう。どうかあなたの行く末が、祝福で満たされたものでありますよう、お祈り申し上げます」
「縁起でもないことを言わないでくださいませ」
女助祭はそういうと、今度こそフロウの寝室を後にする。
「私にもついに――お迎えがきたようですね」
厚いカーテンで窓が覆われ、完全なる暗闇が支配する部屋。
フロウは今夜――自分の寿命が遂に尽きることを理解していた。
足は満足に動かず、思考も鈍り、身体には幾重もの深いシワが刻まれ、その手足は枯れ枝のようにやせ細ってしまった。
回復魔法で常に健康状態を維持してきた彼女が、やはり寿命には勝てないのだと、人間の体の脆さを実感する。
しかし――彼女に後悔はない。
最後に残された時間を使い――フロウは祈りを捧げる。
祈りとは――万人に平等に与えられた救いであるとフロウは考えている。
例えどこにいようと、身体に障害があろうと、誰であろうと、祈ることを取り上げることは出来ないのだから。
フロウは祈りを捧げながら、これまでの長く険しい人生を思い返す。
耄碌し、自分1人では満足に身体を動かすことも出来ない身ではあるが、昔の記憶は今でもはっきりと、鮮明に思い出すことが出来た。
「…………」
ソブラを倒し、大陸各地で領地を巡り戦争を繰り返す反抗諸侯を鎮圧したフロウは、聖教会の教皇を名乗ると同時に、フロウを頂点とし、フロウの後ろ盾となった領主を議会員とした立憲君主制国家の樹立を宣言した。
フロウは元々、教皇になるつもりも、国家元首として君臨するつもりもなかった。
だが――10年間まともな統治が行われずに、影霊と魔物と戦争によって荒れ果てた大陸を、1日でも早く癒し、人々を飢えや病から救うためには、分かりやすい〝象徴〟が必要であり、そこで選ばれたのがソブラを打ち倒した英雄――フロウであった。
フロウの掲げる理想と、圧倒的な人徳により、人類は一致団結。
フロウを頂点とする一枚岩を構成することで、急速に失った秩序を取り戻すことに成功した。
しかしフロウは――最初から決めていたように、大陸の治安が安定すると同時に君主の座を降り、共和制による政治体制を確立。
彼女は聖教会の運営に集中し、政治に対し介入をしなくなる。
1人の人間に権力が集中すると、その1人が暴走ないし崩御することで、積み重ねた秩序があっけなく崩落することを、過去ソブラによって滅ぼされたレングナード王朝から経験していたからであった。
国民がフロウに対して抱く英雄としての人望、無条件の信頼を慮れば、フロウが斃れた際に起こるであろう混乱の規模は想像に難くない。
故に彼女は一歩引く選択を選び、宗教組織として教えを説くことで人類に希望を与え、聖騎士団を派遣して魔物や悪党から民を守ることに注力した。
そんなフロウを長年に渡り支え続けたのは、聖火隊の副隊長であったスキア・レッドビー。
フロウは元奴隷のシカイ族であった彼を、王都を奪還した後――新設した《聖痕の騎士団》の《聖痕之壱》に任命した。
スキアはフロウの説教の元で高めた信仰心と、影霊との戦いで鍛え上げた肉体で、大陸各地に蔓延した魔物討伐の任にあたり、魔物の脅威に怯えていた村々は、魔物を排除した英雄である彼の功績を称えた。
彼の真摯で善良な人柄もあいまって、数々の英雄譚が作られ、もはや今この大陸でシカイ族に差別意識を持つ者はどこにもいない。
「(私の掲げるシカイ族の差別をなくすという理想は、私一人では到底なしえることが出来ない事でした。それを可能としたのは、常に死と隣り合わせであるダンジョンや戦場で、勇敢に戦い続けたシカイ族のスキア君のおかげに他なりません)」
そんなスキアは30年前――彼が59歳の時に戦死した。
命尽きる最後の最後まで、人類を魔物の脅威から守るために戦い続けたまごうことなき英雄であった。
「(次は――私の番ですね)」
邂逅と決別。
決意と挫折。
信仰と信念。
最後にフロウが思い返すのは――ソブラを倒し、この大陸に平和をもたらした真の英雄――シド・ラノルスのこと。
「ああ、最後に……あなたと……」
そんなフロウの願いが神に聞き届けられたのか――寝室の一角の空間がぐにゃりと歪むのを、フロウは見逃さなかった。
完全に暗闇に包まれた部屋。
しかし彼女の右目に埋め込まれた聖遺物――【義金の聖眼】は、その闇をはっきりと見通している。
歪んだ空間は刃物で裂かれたかのように斬り込みが入り、まだら模様に蠢く異空間が露出する。
――ズズッ……ズズズッ……ズズッ……。
その次元の隙間から漏れ出すのは――黒い影。
不気味な闇のような霧が漏れ出し、フロウのベッドに集まっていく。
「…………ああ」
しかしフロウはその恐怖を煽るような光景を見て、むしろ喜びに打ちひしがれた。
ベッドに集まった影は1つに集約し、人の形をかたどっていく。
そして――表面の皮が剥がれるように影が散ると――そこにいたのは黒いロングコートを着た黒髪黒目の青年であった。
その瞳には深い深い底が見えない闇が孕んでいるものの、その更に奥にある優しい眼差しを、フロウは今日日忘れることはなかった。
「よっ」
青年――シド・ラノルスは声をあげる。
まるで半年振りに出会った友人に挨拶するような気安さで。
「ふふっ――本当あなたは、変わりませんね。あの時のまま。でも、70年ぶりの再会にしては、少し軽すぎるのではありませんか?」
「あー、だよな……フロウにとっちゃ数十年振りだよな。俺はエカルラートの賢眼越しに見てたから、あんまり久々感ないんだよな」
「最後に、会いにきてくれたのですね?」
「まぁな。世間ではソブラではなく俺が大陸を支配してた扱いになってるからよ、お前と会うと都合が悪いからって――もう2度と会わないと約束したけど、もう俺の顔覚えてる奴なんかいねェだろ?」
「確かにそうですね……ふふっ、長生きして良かったです」
「本当に生きすぎ。このままだと三桁歳まで生きるんじゃないかとビビったわ」
シドは冗談めかして笑う。
70年前と同じ。
青年と少女が他愛もない会話をするような雰囲気が、フロウの心を優しく包み込むのを感じた。
誰もが教皇である彼女を敬いへりくだる――そんなフロウと対等に接してくれる、世界で唯一の共犯者。
「んでどうだ。お前の理想とする世界は作れたか?」
「……十全に満足のいく世界を作れたと言われると、難しいですね」
70年前――王家による君主制時代と比べれば権力と富は分散され、下々の民草の暮らしは豊かになった。
聖教会の腐敗も、一度枢機卿団が全滅したことで、膿を出し切り健全化し、そのリソースを平和のために使うことが出来るようになった。
結果――飢えや差別や魔物による脅威は大きく減少した。
人間同士の争いも、小さな反乱が何度か起こったものの、大陸の安定した政治体制を脅かすような事態には陥らず、70年もの間、泰平を維持したと言って過言ではない。
しかし今あげた飢えや暴力による脅威が完全に潰えた訳ではないし、共和制と言えども完全に政治的腐敗を排除出来る程、人間は完成した生き物ではない。
悔いが残っていると言えば――嘘になる。
「もしまだやり残したことがあるんなら――なるか? 不老不死」
シドはロングコートを懐から、赤い液体の入った瓶を取り出す。
「エカルラートの血が入ってる。フロウなら例えいきなり若返っても、神の奇跡とか現人神みたいな扱いで、民衆共も納得すると思うぜ?」
「いえ。結構です。私は己の役目は十分に果たしました。私は子を成すことはありませんでしたが、私の切り進めた道の後ろには、私の意思を引き継ぐ同志がおり、その意思は途切れることなく、これからも連綿と続いていくと信じております。故に、私は人として生き人として死ぬ――その定めに悔いなどありません」
「そっか」
シドは小瓶を懐に戻した。
「その代わりと言ってはなんですが……1つだけ、ワガママを聞いて貰っても、よろしいでしょうか?」
フロウは毛布から、やせ細った手を出す。
「シドさん……手、握って欲しい、です」
「ああ。それくらい、お安い御用だ」
シドはベッドの脇に片膝をつくと、フロウの手を握る。
「温かい……です」
「嘘つくな。血の通ってねェ俺の手が温かい訳ないだろ」
「いえ……心が、温かいのです」
そう言って笑うフロウの顔は――まるで幼い少女が、初恋の異性に向けるような、無邪気な笑顔であった。
***
翌日。
聖教会教皇。
フローレンス・キューティクル――御年92にて崩御。
彼女の訃報は大陸全土に周知され、国民は彼女の死を悲しみ、その葬儀は盛大に行われることとなった。
そして彼女が築いた泰平の世は、今後数百年に渡り継続することとなる。
時折――冒険者や聖騎士の力では到底乗り越えることのできない強大な魔物が誕生し、人類が脅威に晒されたり、野心を抱き大陸の覇権を握ろうと反乱を起こす勢力が現れることがあった。
しかしそのたびに、〝黒い影〟と呼ばれる謎の存在が介入し、圧倒的かつ不可解な異能の力によって、それらの危機を回避してきた。
数多の学者がその謎の力を解明しようと試みたものの、真相にたどり着いた者は、誰一人いなかったという。
これにて完結となります。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
また、本作品をブックマーク、評価、いいね、感想して下さった方々には改めてお礼申し上げます。
おかげで承認欲求が満たされ、完結まで書ききることが出来たと言っても過言ではありません。
蛇足になるかもしれませんが、活動報告にて、本作のあとがきや、各キャラクターに関する小話などを書いております。
もしよろしければ、そちらも併せてお読み下さいますと幸いでございます。




