逃避行な二人
ざわめく都会のビルの群は、とうとう本格的に宇宙へ進出するのかもしれない。
特区、中央都市。
その北に位置する、建物をパズルのように配置して複雑な迷路を作りあげた物流ビル群の隙間の暗がりで、結城は一人空を見上げていた。
幾何学模様に切り取られた空が、遙か向こうで輝いている。
ゆるい癖毛の長い前髪に、切れ長の目。少年の頃は美しかったであろうそれを鬱陶しそうに細め、銀のライターで煙草に火をつけた。ゆらゆらと紫煙が上る。高すぎるビルの前には弔いの煙も空に届きそうにないが、見送れるところまでは見送ろうとしたところで、吹き抜ける風によって、あっという間にかき消された。
小さくため息を吐き、ライターを紺色スラックスのポケットに滑り込ませて煙草に口を付ける。ジジジ、と赤い炎が蛍のように瞬いた。が、一口吸い込んだ途端、ゲホゲホとむせ「あ、無理」とすぐさま煙草を地面に落とした。黒いビーチサンダルで踏み潰す。胸に手を当てて慌てて何度か深呼吸を繰り返し、灰色のトレンチコートのポケットに手を突っ込むと、踏みつぶした煙草をじっと見つめた。
「じゃあな」
物言わぬ煙草に言い残し、結城は踵を翻した。
路地から出た先には降り注ぐ太陽が待っている。その下では車が走り、いくつのものドローンが飛び交い、歩行者はまばらだが確認できた。
平日の十三時。今なら出ても問題ないだろう。結城はトレンチコートの裾を靡かせて、影から脱出するために足を動かす。久しぶりに日の下へ出る。今まで物流ビルの隙間から隙間へ移動し続けていたので、自分が随分かび臭くなっているような気がした。早く光合成をして、ビタミンDを生成して、この鬱陶しい髭を剃ってしまいたい。ついでに、出来立てのホットドッグを食べて、カプセルホテルに滑り込みたい。それに――
結城は外まであと一歩のところで思考を中断し、足を止めた。
ちらりと頭だけ振り返る。
ねじり消した煙草が、こちらをじっと見ている気がした。いや、間違いなく視線を感じる。
「あー、もう」
結城は頭を掻くと、煙草のもとへ戻り、その場でしゃがみ込んだ。
「俺ねえ、こういうの向いてないのよ」
つまみ上げた煙草を、火が消えているのを確認してからどうしようかと悩み、トレンチコートのポケットに突っ込む。
「さて」
と、ゆっくり立ち上がろうとしたとき、奥の路地からけたたましい足音が聞こえてきた。
結城が身を隠す為に使ってきた路地だ。誰も通らない迷路の中を、全力疾走して、この先の日の下に脱出しようとしているものがもう一人いると言うことになる。
結城は目を閉じ、耳を澄ませた。
あちこちに反響していて大勢に聞こえるが、一人だ。
しかも音も軽い。
「あいつじゃないねえ」
結城は無精髭を撫でる。
あいつなら足音などたてない。
足音がどんどん近く、大きくなっていく。近づいてくる。
さっさと退散するか、と結城が目を開けようとした瞬間、それは懐に一気に飛び込んできた。鳩尾に鉄球がめり込んだような衝撃が走り「ぐえっ」と情けない声が漏れる。
後ろに吹っ飛びそうになるのを耐え、突っ込んできたそれを反射的に剥がした。
ぶつかってきたものを見て目が点になる。
肩で切りそろえられた黒い髪に、綺麗な形のアーモンドアイ。そして、紺色のセーラー服に、臙脂色のスカーフ――つまり、
「ジョシコウセイ……」
少女は結城を見上げ、しばらく呆然としていたが、ハッとした。
再び結城にしがみついてくる。
「うわっ」
左腕に巻き付かれ、結城がぎょっとして声を上げると、少女は強い力で引っ張って走り出した。ふりほどくと遠くまで吹っ飛ばしそうで、よろよろと一緒に駆け出し始める。が、抗議はすぐにした。
「なあ、手を」
「黙れおっさん」
口が悪いな、と思ったが、少女の声は切迫している。見下ろすと、額に汗がにじんでいて、顔も青白い。息も随分切れている。
「あのさ、一回止まってくれない?」
「無理。後ろ」
気を遣って言ったつもりだったが、結城の言葉は愛想のない返事にばっさり両断された。よろよろと走りながら、仕方なく後ろをちらりと見る。
「!」
黒い三つ揃いのスーツに、黒いのっぺらぼうの仮面をつけた人影が、路地をちょうど曲がってきたところだった。
結城の息がひゅっと漏れる。
あいつじゃん。
「うわ……うわ、マジか」
「マジ。走って」
いや、これ本当に走るしかない。
結城は一瞬だけ足を止めると、ゼエゼエと息をしながら睨み上げてきた少女を、よいせ、と肩に担いだ。
「はあ?!」
背中をぽかぽかと叩かれる。
セーラー服のスカートと足をしっかり左腕で固定して、結城は走り始めた。背中で抗議の声があがっているが、それどころではない。
結城がさらに加速したのと同時に、背後からの威圧感が膨らむ。
気づかれたか。
何のために一ヶ月物流ビル群の中で潜伏したのだろう。煙草を拾いに戻らなければ、ギリギリ巻き込まれずに済んだかもしれないと思うと、結城は五分前を全力で後悔した。
路地から飛び出す。
一瞬目が眩み、足が止まる。通行人の人々の目や、車の運転手の目、ドローンまでもが、結城と、結城の肩に担がれる少女を見ている気がした。いや、実際見ている。通行人であるキャリアウーマン風の女がバッグから携帯を取り出そうとしているのは気のせいだろうか。かまう暇などないが、結城は「違う!」と大声で弁解したかった。このあと出てくる、きっちりスーツに仮面の男の方がよっぽど変態だ、とわめきたかった。
べしべしと背中を叩かれる。
「走って! そのまま直線10!」
少女の声があがる。
咄嗟に、結城は全速力で道路を突っ切った。クラクションや急ブレーキを横目で走り去る。物流ビルの群から出てしまえば、ただのビルの背が異様に高い都会の風景だ。デジタル掲示板に、カラフルに乱立する商業ビルの間を走る。
「右に5!」
直線で十メートル走り、右へ曲がって五メートル。この状況がいったい何なのか結城は全く整理できていないが、とにかく走るしかない。確信に満ちた道案内をする少女を、信じるしかなかった。
「左に三、そのまま二店舗目の赤い扉に入って!」
走る。
走る。
赤い扉を目指して、走って着いた先の扉を思い切り開けた。
カランカラーンと、ベルが二人を迎え入れる。
結城の目前に、華やかなパステルカラーが溢れていた。フリル。リボン。レース。結城が一生足を踏み入れる事のない場所。そこはいわゆる、ランジェリーショップだった。
いらっしゃいま――と言い掛けた上品な店員が笑顔のままで、むさ苦しい、清潔感のかけらのない男が女子高生を担いでいるままで、互いに向き合って硬直する。
少女が背中で暴れ、腕が弛んだ隙に、すとんと下りた。
「おい、ちょっと。おまえ何てところに案内してるの」
小さい声でいう結城の腕を、少女はまた引っ張る。
「ごめんなさい、ちょっと失礼」
少女は、笑顔が凍り付いた店員を押し退けて奥まで進みはじめた。迷うことなく勝手口を捜し当て、扉を大きく開いたかと思うと、再び店内に戻った。誰の視線にも触れぬまま、空いているフィッティングルームに結城を押し込み、カーテンを閉める。
狭い空間で結城が壁に張り付いていると、少女はしゃがんで、鏡の下の縁をなぞった。カチリと音がして、鏡が揺れる。赤いスカーフを解いて衿から引き抜くと、回転扉になった鏡に触れないように回す。
「入って」
少女が小さな声で言う。
カランカランと、また店のベルが鳴る音が聞こえ、結城は慌てて鏡の奥へと身を隠した。
鏡の中は、小さな部屋になっていた。
薄暗い部屋には壁際に棚があり、応急キッドやら緊急避難バッグがいくつも置かれている。衣服もあり、非常食と水の入ったペットボトルは一つの棚を占領するほどにぎっしりとあった。
つまりここは。
「シェルターだから安心して」
スカーフを結んだ少女が棚から水のペットボトルを二つ取りだし、一本を結城に投げて寄越す。放物線を描いてきたそれを片手で受け取り、結城はペットボトルを薄い明かりにかざした。
「ふっ。おっさん、長生きできないよ」
少女が鼻で笑い、見せつけるように先に口を付ける。ごくごくと飲み干されていく光景に、そう言えば人を担いで全力疾走してきたことを思い出した。突然耐え難い乾きに襲われる。
結城は少女に続いて、水で身体潤す。
二人とも黙々と一本をあけた後、部屋の端にあったポリバケツのゴミ箱に投げ入れる。ガコン、ガコンと乾いた音が続いた。
結城は口を指先で拭う。
「で?」
巻き込まれたのはこちらだ。
鏡の入り口の壁に背中をつける。少女は棚を漁りながら答えた。
「シェルターの性能としてはトップクラス。総理大臣の机の下にあるくらいらしい。そんなところに立ってなくても、見つからないし、絶対入ってこれないよ。こっちでロックしてるし」
「いや、そんなこと別に聞いてない」
「そ? じゃあ何が聞きたいの。言わなきゃわかんないんだけど」
「え。な、名前とか?」
結城はあまりの無垢な圧に、たじろぎながら無難に答えた。
こちらを一瞥した少女が、軽蔑したような目で見る。
「カナメ。そっちは?」
「結城」
「ふうん。ユウキ」
がさごそと棚を漁り続けながら、カナメは何事もないように続けた。
「ここは私の両親が私のために残してくれてたシェルター。万が一の時にはここに隠れて、ほとぼりが冷めたらどうにかして中央を出るようにって言われてたのを思い出して駆け込んだってわけ。さっきの店員は何も知らない。あの公安にも絶対にばれない。ってか、何で公安ってあんなにエセ紳士っぽい格好で、さらに鉄の仮面なんて変態度高い制服を採用してんの?」
「さあ、俺にはわからんね」
あの制服の意図は一生わかりそうにない。一目見ただけでぎょっとさせるのが作戦なら、それはいつだって成功しているが。
国家公務特異体質安全管理対策部、通称「公安」は、機密部隊のはずだというのに、なぜ女子高生がその変態じみた制服を知っていて、さらに、課長であるあいつに追われているのだろうか。結城はカナメをそっと探りを入れた。
「で、君はどうして公安の変態とお友達に?」
「おっさんいくつ?」
「さっき名乗ったけど?」
「いくつ?」
「三十五」
若さとは恐ろしい。一方的な会話の剛速球を投げ続けられるなど、自分にはできない。社会でとりあえず「はい」を言うように躾られた者として、結城は若さのなせる猪突猛進さが一周回って輝いて見えた。別に欲しくて得たわけでもない「受容」と「諦め」が身に染み着いて取れそうもない事がほんの少し悲しい。
結城は思わずその場にしゃがみ込んだ。癖毛が暴れる。
「へえ。三十五。見た目より若いじゃん」
「そりゃどうも」
「少しも誉めてないけど。よし」
カナメは棚からカーキ色のモッズコートを出し、何度か叩くとセーラー服の上から着込んだ。
「さ。行くよ」
「ちょっと待とうか」
「なに? 腰でも痛めたわけ?」
「違う」
カナメは近づいてきて腰に手を当てると、ガラス玉のような目で、死んだ目をした結城を見下ろした。
「何よ」
「あのねえ、あなた、なんでそんなに高圧的なのかな?」
「まどろっこしい話が苦手なだけ」
「じゃあ、こうなった経緯と、このあと俺がついて行かなくちゃいけない経緯をまどろっこしくなく、簡潔に教えてもらえる?」
「はあ? わかんないの?」
「全くもってわからないね。逆に君は何がわかってるっていうの?」
結城が聞くと、カナメは綺麗な眉をしかめ、その場にしゃがみ込んだ。結城と目を合わせたまま、まっすぐに言う。
「私とおっさんが公安の変態どもに捕まったらマズいってことがわかってるけど。違う?」
若さとは恐ろしい。
結城はがっくりとうなだれた。
どうかここに通訳を呼んで下さい、と本気で思う。
「簡潔すぎる」
「文句が多い。じゃあこれならどう?」
カナメは声を潜めた。
「去年の今日。さっきの路地で男が一人死んだ。公安の下っ端。そこにもう一人いた」
カナメの人差し指が、結城を指す。
「同僚を殺したのはどうして?」
結城の目に、ふっと鈍い色な差した。
ややって口元がゆるく弧を描く。
絶対に人に記憶されない公安を、覚えている、と。
「なるほど。追われるわけだねえ」
結城は、カナメの人差し指を右手で掴む。
いくら力を入れても、カナメは顔色一つ変えなかった。
一年前の忌まわしい過去が蘇りそうになる。あの、正義感溢れる新人も、何を前にしていてもこんな目をしていた。
ああ。こいつは危険だ。
結城の目の底が、血だまりが滲むように淀んでいく。
カナメの目は澄んでいるままだ。それがまた憎らしい。
「他になにをしたの?」
結城はぼそぼそと聞いた。
カナメは目を離さない。
「……他?」
「そう。君が、公安の課長直々に追われてる理由」
「あれ、課長なの?」
「うん」
「課長もあんな格好してんの? マジで?」
「そこか」
げえっと顔をしかめたカナメを前に、結城は全身の力が抜けたようにうなだれた。カナメの指を離す。最近の若い子との意志の疎通というのがこんなにも困難だとは知らなかった。いろいろな部分に力が入らなくなる。だらんと腕を伸ばして干からびた結城を前に、女子高生は生き生きしていた。
「おっさんこそ、部下殺したくらいで追われないでしょ。何やったの」
「いや、部下殺しちゃいかんでしょ」
「そうじゃなくて」
結城は腕を引き上げられる感覚に、重くなった瞼を上げた。
カナメは無表情だった。
「逃がしてもらえて一年も追いかけっこできてるなんて、どうして?」
「うーん、いいとこつくねえ」
結城は立ち上がる。
灰色のトレンチコートを叩き、ぶらんとポケットに手を入れる。
「でも秘密だなあ」
「おっさんの秘密とかマジでいらない」
「辛辣~」
結城はふざけながら棚に近づくと、空っぽの黒いバッグに、適当に非常食を積めるふりをして、棚を漁る。非常食に、救急セットなど、殆どが未開封の物だった。先にカナメが漁っていたせいで埃の跡がわからなくなってはいるが、ここにカナメ以外の人間が頻繁に出入りしている様子ではない。チョコレートを見つけ、結城はそそくさと確保してバッグに詰める
「荷造り? 結局来てくれるんだ?」
カナメが背後から聞いてくる。
うーん、と軽く悩む素振りで探る。
「君はどこに逃げるつもりなの?」
「田舎」
「はい?」
結城は振り返った。カナメは壁に寄りかかってこちらを見ている。
「田舎」
「本気で言ってる?」
「い、な、か」
「オッケー。本気なんだね」
結城はとりあえず大きく頷く。
「聞いていい? この中央の外って、砂漠じゃなかったっけ?」
「中央を囲む砂漠を越えたら古き良き田舎があるでしょ」
「いや、あるけどさあ、砂漠どんだけ続くと思ってるのかな、君は」
「結構続く」
「死ぬと思わない?」
「人工の砂漠でしょ。死なない」
「いえいえ、ね、人工でもキッツいよ。そもそも中央から出る時に殺されちゃうよね。塀の門番、本物だよ」
「がんばろ」
「ええー」
結城は再びよろける。棚に掴まり、足から力が抜けるのをどうにか耐える。震えながら呟く。
「若さって恐ろしい」
「ふざけてないで早く準備して」
「はいはい」
結城は、爪を見ているカナメを一瞥すると、しゃきっと立って再び荷造りを始めた。
仕方ない。
この娘と行くしかない。
あいつが追っているこの娘の危険度は計り知れないし、ここで別行動をすると、後々面倒なことになりそうな気がする。顔を覚えられているのもかなりマズい。もう色々ととにかくマズい。ああ。ヤバい。
「俺の語彙力が死んでいく……」
「なんか言った?」
「なんでも。それより、田舎になにがあるの」
結城はさりげなく尋ねた。
「行けば安全が確約できるようなことがあるなら張り切って行くんだけどなあ。たとえばあったかいホットドッグが食べられるとか、ごろごろしながらマンガ読めるとか、綺麗なお姉さんとお酒が飲めるとか」
「厄介な物が消える」
カナメは端的に言った。
結城は慣れてきたので、はいはい、と頷く。
「厄介といいますと?」
「特異体質の能力」
ぼとり、とチョコレートが落ちる。
結城が振り返る前に、落ちたチョコレートがカナメに拾われた。小さな黒い頭が視界の下で揺れ、はい、と落ちたチョコレートを鞄に押し込まれる。
「チョコレートそんなにいる?」
「……いる」
「これくらいにしといて。行くよ」
「いや、待って待って、待って?」
結城が腕を掴んで止めると、カナメは心底うんざりした顔で、口を開いた。
「あのさ、おっさんだって特異体質がどうして突然発症するか知らない訳じゃないでしょ」
「え。知らない」
「マジで?」
「マジ」
「……あー、もしかして言っちゃだめなやつっぽい?」
「多分」
「さ、行こー」
「流される訳ないよね?!」
カナメはしらっと空気を切り替えようとしているが、結城は手を離さないで叫んだ。癖毛がわっと揺れる。
「なにそれ、特異体質って消えるの?! 田舎に行けばいいの?! ってか、なんで特異体質になるの?! 生まれてこの方三十六年知らないんですけど?!」
「さっき三十五って言ってなかった?」
「見栄張ったんですう」
「はいはい、バッグ持ってー」
カナメに渡されたバッグを肩に掛け、結城はさめざめと顔を覆った。
「女子高生怖い」
「これ持っていく?」
カナメに言われて手の隙間から見ると、少女の手は漆黒の筒――つまり銃――を持っていた。結城はひいっと壁際による、が、棚に激しくぶつかった。ガシャンと棚が音をたてる。
「怖い怖い怖い」
「なに言ってんの? おっさん公安だったじゃん。パリッとしたスーツ着て、その長い天パ綺麗に結って、姿勢も綺麗で完璧にエリートにしか見えない見た目してたじゃん、腐れた今と違って」
「君はなんで攻撃するときだけよくしゃべるのかな?」
「とりあえず持っていこ。鞄入れといて」
「やめて、ティッシュ入れといてって感覚で入れないで。超怖い」
「公安のくせに」
「俺たちは銃なんて使わないよ。安全管理対策部だし」
「特異体質の能力だけでどうにもできるし?」
カナメの言葉に、結城はぴたりと動きを止めた。
怯えたふりを引っ込める。曲がっていた背と、丸めていた肩を開くと、自然と広角が緩くあがった。
この娘は、何て素直でまっすぐで、愚かなのか。
口は災いの元という言葉を知らぬ訳ではあるまいに。
「口、閉じた方がいいんじゃない」
結城が海の底を揺らすように低い声で呟くと、カナメは微かに目を見開き、一瞬黙った。ふい、と顔を背ける。
「わかっ、た。じゃあ特異体質についてのことも口閉じとくわ」
「そこはさあーーー、教えてよーーー」
「おっさんの能力教えてくれるならいいよ」
カナメは再びこちらを向いて勝ち誇ったように笑う。
なるほど、女子高生とおっさんでは、駆け引きなど無駄の無駄の無駄らしい。結城はため息を吐くと、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。
「はいはい。その代わり、きちんとさっきの答えてくれますかね?」
「いーよ」
「じゃあ教えるわ。その前に一応大事な事聞きたいんだけど」
「なに」
「君は、TJMK側の人間じゃないよな?」
「なにそれ。なんかの組織?」
「そ。特異体質者の人権を守る会、略してTJMKって名乗ってる組織」
「うっわ。くそダサい名前」
カナメの顔が本気で歪む。
どうやら本当に無関係らしい。一番大事だった確認を終え、結城は肩に掛かったバッグをしっかりとかけ直した。
「了解。じゃあ行きますか」
「おっさん」
「はい、おっさんですよ、なんですか。ってか、出口ってどこよ」
結城がうろうろと動き出すと、カナメは壁に寄り、しゃがみこんだ。コンセントプラグに爪を引っかけて上方向に外すと電卓のような物があり、カナメは手のひらで触れる。ガチャン、と軽い音がして、カナメの目前の壁が浮き、横にスライドしていきはじめた。日差しが少しずつ漏れ、部屋が明るくなっていく。その中で、カナメが結城の方を向いた。
逆光で表情がわからない。
「私のこと、信じられる?」
黒いシルエットが問いかけてくる。
幼い声だが、しかしどこまでも澄んでいて淀みがない。
結城は猫のように目を細めた。
「信じるよ」
そう言って横に並ぶ。
少女の左頬がきらきらと輝き、黒々とした目を受け止めて、結城はもう一度言う。同じように、真っ直ぐに。
「信じる。危険だとは思うし、意思の疎通は難しいし、十分前に偶然会ったけど、信じる」
「理由は」
「君は嘘をつかない」
「なんでわかるの」
「それが俺の特異体質の能力だから。嘘には微細なノイズが走る。それを聞き分けられるんだよね」
結城は自分の耳を指さした。
「つまり、君は一つも嘘をついていない。どうして中央の人間に特異体質発症例が多いのか知っていて、田舎に行けば能力は消えてくれるということを知っていて、娘のためにシェルターを密かに作っておいた両親がいて、”誰にも顔を覚えられない”という気味の悪い能力の集団である公安だった俺の顔を、なぜか覚えてるってことだろう? それで? 君は俺を信じられるわけ? 嘘を見抜ける俺に言える?」
結城はじっと見下ろす。
無表情な目は、長く国の泥に浸ってきた光一つない目だ。
その目に向かって、無垢な少女は言った。
「信じてる、最初から」
結城は思わず笑った。
カナメは嘘をついていない。この少女は、最初から信じていたからここまで引っ張ってきたらしい。一年前に同僚を殺した姿を見ているくせに、何を、どこを、どうして信じられるのかわからないが、本気で信じている。
愚かしい。
腹が立つほど愚かしい。
なんて、懐かしいのか。
年下に対して、意思の疎通のできない別人類である女子高生に対して、たった数十分で全幅の信頼を置くのもおかしい話だとわかっているが、こういうときのカンほど侮ってはいけない事も知っていた。結城は手を差し出す。
「じゃあ、しばらく相棒って事でよろしく」
「殺さないでね」
「そのブラックジョーク、キツいわー」
「まあ同僚じゃないから平気か」
軽口を叩き合い、のっぺりとした分厚い壁から抜け出す。二人が出ると、壁は再び閉まってしまったが、路地は右も左も行き止まりだった。顔を上げると、灰色の壁のずっとずっと遠くに青空が見える。結城は黒いビーチサンダルを脱いだ。トレンチコートの内ポケットへしまう。
「なにこれ、どうやって出る?」
「おっさんに任せなさい」
結城はカナメを見た。
「お姫様だっこと、おんぶと、さっきの米俵担ぎ、どれがいい? おすすめは最後のやつ。なぜなら、荷物も持ってるし、片手は空くし、さらにお互い恥ずかしくない」
「は? まあ、さっきの」
渋々、という形を隠さずに言われる。了解、と返事をすると、結城は一旦しゃがみ込んで、左肩にカナメを担いだ。長いモッズコートのおかげで、色々気にしなくていいのがありがたい。戸惑っているらしいカナメを左腕で足をしっかり固定し、素足の足の裏に感覚を集中させる。
ぐっと踏み込む。
瞬間、結城は浮いていた。いや、高く跳んでいる。壁や小さな出っ張りを見つけてはその方向へ跳んでそれを蹴り上げ、再び上へ。まるで重力を無視した動きで、ひらひらとトレンチコートをはためかせる。癖毛がふっふっと浮く度に、長い前髪の間から見える死んだ目は、青空をくっきりと映していた。
ようやく、宇宙でも目指してるのかと言いたくなるほど高いビルの屋上へと着いたときには、肩の上でカナメが伸びていた。
「おーい」
どこにも公安の姿がないことを確認してから、カナメを肩からおろし、フェンスに寄りかからせる。
「なに……今の」
「俺の特異体質その二。異様な跳躍力」
「とぶって、そっち……」
「そっちって?」
「母親が予知能力者で予言残してたの。あの場所のシェルターもその一つで、対策。で、私はあるおっさんと出会って、窮地から脱して飛んで逃げるらしいんだけど、飛行機とか、まああって飛行能力的なものだと思ってた。うっわ、油断した。これから先の移動手段これとか、マジで引くわ」
「待って、情報量が多すぎる」
「早く田舎に行きたい」
「そうだ、それそれ、その話してくれる約束だったね?」
聞くと、カナメは少しばかり青白くなった顔で結城を見上げた。
無理させたか。先に説明すればよかっただろうか。
思わず鞄に入れていた水のペットボトルを渡す。
「ゆっくりでいいから、さ」
カナメは水を一口飲むと、こくんと頷いた。
「簡単に言うと――私たちは集合的無意識の中で生きてるの。その意識がこの「現実」を作ってて、さらにたくさんの制約を作って「人間」を「人間」としている。みんなが同じ意識の中にいる分には問題なかったけど、ある時から文明の利器を利用しすぎて世の中強力な電波だらけになって、脳が強制的に活性化されて、集合的無意識への制約を打ち破り始めたんだって。リミッターが外れた「人間」が身体を強化したり、脳の活動領域を増やしたり、集合的無意識に書き込まれた常識を否定して、あり得ないことができるようになってしまったってわけ。今も、この瞬間も活性化されていたら、そりゃ能力は使えるから、電磁波のない田舎まで退避すると、自然と供給されていたエネルギーが絶たれて普通の人間へ戻れるかもしれないんだってさ」
「ゆっくりって言ったよね?! しかも全く簡単に言ってないよね?!」
「行こう、田舎」
「わかったから、いや、全然理解はしてないけど、わかったわ。行こう、田舎」
聞いたこともない話だったが、カナメの話は嘘ではない。なんかさっきから色々情報が多すぎて正直さっぱりだが、田舎に行けば、このクソ面倒な能力から逃れられるらしいというシンプルなことはわかった。
そもそも情報の真偽は結城にはどうでもよかった。
それを誰かが知っている、もしくは流した、という事実が大事だ。
特異体質者をしっかり管理し、内外からの安全を守っているという公安と、それは嘘だ、特異体質者は虐げられていて、人並みの人権などないと叫ぶTJMKとの間の確執は徐々に顕著になっている。
公安の新人が、仕事の実体を見てTJMKに寝返って情報を渡すくらいには、勢力拡大がとてつもなく面倒なことになりつつある。
潜入は一時中断だな。
結城はバッグからチョコレートを出してかじり付く。
とにかく、行くしかない。実際に行ってみて、本当に特異体質の能力が消失するのなら、能力を消したい人はどうぞ、田舎に移住してください、ご自由に選択していいですよ、というポーズを取ることができて、TJMKを黙らせることも可能かもしれない。あいつらは、何かに掛けて文句言って戦闘態勢を維持したいだけの団体だし、暇になったら矛先と主張を変えて、声高に叫び始めるだろう。次は公安に関係ないところであれば非常に助かる。おい、槙、聞こえてる?
結城はきょろきょろと周りを見渡した。
対面のビルの一室のカーテンが、さっと空いた。
仮面の男が立っている。先程まで自分を追いかけ回していたその男に、結城は視線と言葉を送る。
中断、いい?
右手が挙がったのを確認し、ふと思い立って、結城は心のなかで聞いてみた。
この女子高生、なにしたの。
仮面の男は、すぐに両手をパタパタと不規則に動かした。
『お疲れさまです、結城先輩、お加減いかがですか。ご飯は食べてますか。心配です。今日びっくりしちゃいましたね、会っちゃうなんて。いやあ、無事にお互い逃げ切れてよかったです~』
「……そうじゃない」
「なに?」
「おっさんの独り言」
「きもい」
カナメに白い目で見られながら、もう一度聞く。
女子高生、お前になにしたの?
『ああ、その子、昨日僕の携帯を拾ってくれたとき、盛大に吹き出したんですよ。中身が見えたように。もしかすると、電子機器に触れるとアクセスできるタイプの厄介な子かもしれません。そう言うタイプの子はこっちも本気で捕獲したいんですが、でもまあ先輩と一緒なら、一時間は報告しておかないですし、どうにか中央を脱出してくださいね。先輩、ガンバ! 僕も疑われたくないし、ギリギリ生きのびる程度でお互いやりましょう! では!』
カーテンがご機嫌に閉められる。
結城は頭を抱えながら、ちびちびと水を飲んでいるカナメを見下ろして聞いた。
「田舎、行こうか」
「行こ」
中央都市の警備を抜けて、
門兵の待つ門へ行って、
どうにか脱出して、
砂漠を越えよう。
田舎と呼ばれる砂漠のむこうへ。
その方法は全く思い浮かばなかったが、とりあえず、今信じられるこの少女を連れて跳ぶしかない。
結城はチョコレートを食べながら、盛大な溜息を吐くのだった。
了
読んでくださり、ありがとうございました。
短編って難しいですね……