たったひとつだけ、望むのは 4
馬車に揺られ一時間ほどで着いたのは、ベナーク湖という大きな湖だった。
デートスポットとして有名らしく、湖には美しいスイレンの花が咲き誇っている。
「わあ、とても綺麗! それにしても混んでいるのね」
「今は一番綺麗な時期だからね」
観光客のような人々からカップルまで、大勢の人で賑わっていた。
小舟の乗り場は混雑していて列までできており、とても二人きりでゆっくりできるような雰囲気ではない。
とは言え、私は元々並ぶのは苦ではないタイプだし小船に乗るのも未経験で、どんな状況でも楽しめるだろうとワクワクしていた、けれど。
「俺達はこっち」
「えっ?」
ランハートは私の腕を引いて人々が並んでいる場所とは反対方向へ歩いて行き、着いたのは別の湖だった。
同じくスイレンが咲き誇る美しい湖ではあるものの、人気はない。その上、用意されていたのは先ほど人々が乗っていた可愛らしい小舟とは違い、ひと回り以上大きくて豪華な美しい船だった。
「ここなら二人きりで、ゆっくりできるから」
「う、うわあ……」
ランハートの完璧なデートコースを前に、私はときめきよりも恐怖を感じ始めていた。
ここまで女性の喜びそうなことを簡単にやってのけるなんて、恐ろしすぎる。これまでどれだけの女性を落としてきたのだろう。
そんなことを考えながら船に乗り、ランハートと向かい合って座る形になる。
「今日は天気も良いし、風が心地良いね」
水面がキラキラと輝き、花の美しさも相俟ってとても幻想的だ。
けれどそれ以上に、その光景を眺めるランハートの横顔が綺麗で、つい見惚れてしまう。
「そんなに熱い視線を向けられると緊張するんだけど」
絶対に緊張なんてしていないと思いながら、じとっとした視線を向ける。
「ただ、みんな好きになってしまうだろうなと思って」
「そんなことはないよ。現に君は俺のことを好きになってくれないし」
頬杖をつき、涼しげな表情でそう言ってのける。
「……今はまだ誰かを好きになる余裕なんてないもの」
ゼイン様のことも完全に解決したわけではないし、二人が結ばれた後も、私には死にかけるというイベントが待ち受けているのだ。まだまだ油断はできない。
「それに私は恋をしたとしても、遊びなんて嫌だわ」
そう告げれば、ランハートは「でも」と続けた。
「グレースが俺を好きになってくれたら、ずっと大切にする自信があるんだ」
「…………っ」
「これは誰にでも言っているわけじゃないよ」
真剣な眼差しから、目を逸らせなくなる。その表情や雰囲気から、その言葉が本当だと思い知らされていた。
私が知っている軽薄なランハート・ガードナーとはまるで別人で、心が騒ぐ。
「俺、結構本気で君のこと良いなと思ってるから」
「ど、どうして……」
「グレースみたいな人に好きになってもらえたら、きっと幸せなんだろうなって。一生懸命になってもらえる公爵様が羨ましいと思った」
もう「どうして」とも「冗談はやめて」とも、言えなかった。髪飾りの宝石に似た彼の瞳には少しだけれど、確実に、熱が宿っていたからだ。
いつも金色の瞳が私に向けるものと、同じだった。
◇◇◇
そわそわした気持ちのまま美しい湖での時間を過ごした後は、近くのカフェに入った。
「このフルーツのケーキが美味しいんだって。こっちの紅茶とよく合うらしいよ」
「詳しいのね」
「実際に来るのは初めてだけどね。女性が好きそうなものを調べさせたんだ」
普通はそうだろうな、と思いながら頷く。
『グレースお姉様、ご存知ですか? お兄様ってば、お姉様が好きそうなお店を探すために、まずは一度ご自分で食べに行かれるんですよ』
『……聞かなかったことにしてくれないか』
そんなやりとりを思い出し、静かに胸が痛む。
いつまでも引きずって思い出に浸って本当にどうしようもないと思いながら、やがて運ばれてきたケーキにフォークを差し入れる。
美味しいはずの高いケーキも紅茶も、あまり味が分からなかった。
カフェを出た頃、既に空は茜色に染まり、日が暮れ始めていた。
「この後はどうする? 俺はまだ一緒にいたいけど」
馬車に向かって歩きながらそう尋ねられ、返事に迷ってしまう。
ランハートは、とても素敵な人だ。自身のことをクズだなんて言っていたけど、私はそうは思わない。今日だって一緒にいて気楽で、とても楽しかった。
彼に対して恋愛感情を抱いてはいないけれど、この先は分からないとも思う。
『俺にすればいいのに。大事にするよ』
きっと彼を好きになれば、この胸の痛みもなくなる。ふとした時にゼイン様を思い出すこともなくなる。
『本当に俺を好きになればいい。そうしたら優しい公爵様は強く出られないよ。本気で君を好きだからこそね』
『諦めもつくんじゃないかな。好きな相手に別の好きな人間がいるのは、何よりも辛いことらしいから』
何よりゼイン様がシャーロットと上手くいっていたとしても、私に対する好意がいきなりゼロになるとは思えない。他にも背中を押すようなきっかけは必要だろう。
色々と考えた末にこくりと頷けば、ランハートは長い睫毛に縁取られた目を瞬かせた。
「本当に? ダメ元で誘ったんだけど。今日も半ば無理やり誘ったし」
私がOKするとは、全く思っていなかったらしい。嬉しそうに微笑む彼に手を引かれ、馬車に乗り込む。
当たり前のように隣に座ったランハートは、至近距離で私の顔を覗き込んだ。
「どこに行きたい?」
「私は全然分からないから、あなたに任せるわ」
ランハートは「うーん」と顎に手を当て、悩む素振りを見せた。
「本当は祭りが催される王都の外れの街に行こうと思って、今日にしたんだ。でも突然、近くのラヴィネン大森林で魔物が一気に湧いて、中止になってさ」
「──え?」
信じられない言葉に、頭が真っ白になる。
だってそれは、小説なら本来もっと先──ゼイン様とシャーロットが結ばれて数ヶ月ほど経った後に起こる事件だからだ。