人を愚かにするもの 2
「おい、探したぞ。もしかして今一緒にいたのは、お前が最近親しいって噂になっている女性か?」
「……そんな噂があるのか?」
「ははっ、やっぱり知らなかったんだな」
呆れたように笑うボリスは、グレースと別れた俺がシャーロット・クライヴ嬢と親しくしている、乗り換えたなどという噂が社交界で広がっていると話してくれた。
もちろんそんな事実など一切ないし、そんなつもりもない。これまでも勝手なことを言われるのには慣れていたし、気にしたこともなかった。
だが、この噂がグレースの耳にも入っているかもしれない、今の出来事も余計にその噂に拍車をかけるかもしれないと思うと、不愉快で仕方ない。
「で? なんでお前はそんなに、この世の終わりのような顔をしているんだ?」
「庭園でグレースとランハート・ガードナーを見た」
抱き合っていたとまでは口に出さずとも、俺の様子から全てを察したのか、ボリスは形の良い眉を顰めた。
「最近お前から彼女の話を聞かないし、嫌な予感はしていたんだが……最近は悪い噂も無くなっていたから、意外だったよ。ゼインに惚れて更生したのかと」
「…………」
過去のグレースのことは、俺も多少は知っている。
だが今の彼女は強欲な悪女とは真逆で無欲で、男好きで日替わりで遊んでいたなんて話は笑ってしまうくらい純粋で初心で、かわいらしい女性だった。
「以前、紹介した諜報員を使ってみるのはどうだ?」
「ずっと使っている」
「は?」
「彼女の監視をさせていた」
例の諜報員──アルフレッドという少年に彼女の監視をさせた結果、何らかの理由があって俺と別れたがっており、ランハート・ガードナーとは浮気をしているように見せかけているだけだと知ったのだ。
浮気の件は演技だと分かっていても、嫉妬して苛立ち壁に穴を開けてしまったのは、自分でも予想外だった。
最近は逃げようとする彼女を追いかけるために使っていたと話せば、ボリスはぽかんと間抜け面をして、俺の顔をじっと見つめていた。
「……なんというか俺の知っているゼインは、ほんの一部だったんだなと驚いてるよ」
ボリスとは幼い頃からの付き合いであり、互いによく知る仲だが、これまでで一番驚いたらしい。
「そもそも、諜報員の使い方を間違えてるって。お前じゃなかったら犯罪だぞ。いや、流石にゼインでもアウトか? 少し彼女に同情するよ」
「……俺だって、好きでしているわけじゃない」
最初は純粋にアルフレッドを使い、グレースの人となりについて調べるつもりだった。
だが、彼女が予想外の行動を取り、俺と別れようとし始めたことで、そうせざるを得なくなったのだ。
こうして追いかけ続けていなければ今頃、彼女は間違いなく俺の元から去っていただろう。
「でも、今はランハート・ガードナーと本当に浮気していたんだろう?」
「…………」
「お前もこれを機に、少しは他の女性に目を向けてみても良いと思うがな。さっきの女性だってかわいい顔立ちをしていたし。それくらいは思うだろ?」
「特に何も思わない」
即答すればボリスは信じられないという表情をして、繰り返し目を瞬く。
「本気で言ってるのか? まさかグレース嬢しかかわいく見えないとか言わないよな」
「ああ。グレース以外の女性の顔を意識して見たことがないし、彼女以外をかわいいとも思わない。今だって体調が悪いと言うから、少し付き添っただけだ」
はっきりそう告げた俺を見て、ボリスは一瞬きょとんとした顔をした後、ぷっと吹き出した。
「いやあ、純愛だね。恐れ入ったよ」
「馬鹿にしているのか?」
「まさか。大切な親友には、心から愛する女性と幸せになってもらいたいと思ってるよ」
ボリスのその言葉に嘘がないことも、分かっている。
両親が亡くなった時も、誰よりも親身になって俺達を支えてくれたのはボリスだった。
「とは言え、相手の同意は必要だがな。それで、これからどうするんだ? グレース嬢と話をするんだろう?」
「一ヶ月後に」
「は?」
「三ヶ月、彼女と距離を置いているんだ。それがあと一ヶ月残っている」
「いやいや、散々抵抗して追いかけ回したくせに、どうしてそんな話を受け入れたんだ?」
「グレースは意味もなく、そんな提案をする女性ではないからだ」
そんな彼女が辛そうな顔をしながら別れを切り出すことにも、俺を傷つけると分かっていながら様々な行動を起こすことにも、理由があるのは分かっている。
だが、それだけは受け入れられなかった。
そうしてしまえば、彼女が俺の手の届かない場所へ行ってしまう気がしたからだ。
──先日、彼女が経営する食堂にアルフレッドと共に行ったことを思い出す。
陛下にお借りした魔道具で姿を変えていたため、話をしてもグレースは俺だと気付いていないようだった。
『……実は、こうしてお店をやるのが子どもの頃からの夢だったんです』
『子ども達の笑顔を見たら、嬉しくて、泣いちゃって』
涙ながらに、けれど嬉しそうにはにかみながらそう話す彼女がどれほど優しく、思いやりのある女性なのかを改めて思い知っていた。
そして自分の行動が正しいのか、不安にもなった。
だからこそ、別れることはできなくとも、彼女の距離を置きたいという願いだけは受け入れたのだ。
「……お前は本当にグレース嬢のことを、心から信じているんだな。ついさっきも他の男と一緒にいるところを目撃したっていうのに」
「ああ」
あんな決定的な場面を見ても、何か事情があるのかもしれないと思えるくらい、これまで一緒に過ごしてきた彼女は、まっすぐで信頼できる人間だった。
「だが、なんで三ヶ月間なんだ?」
「さあ? 三ヶ月会わなければ、俺の気持ちが変わると思っているんじゃないか」
「何だそれ」
彼女は以前から、まるで俺がグレース以外の誰かを好きになると確信しているようだった。
彼女自身もそれを望んでいるような顔をしながらも、時折、俺を好いているとしか思えない態度を取るのだ。本人に自覚がない分、余計にたちが悪い。
それこそ、そんな部分は悪女だと思えるくらいに。
「三ヶ月も会えないのは辛いだろうに」
「長い人生のうちの三ヶ月くらい、耐えられる」
そう答えれば、ボリスは呆れたように肩を竦めた。
「長い人生のうち、か。まるでグレース嬢と一生、一緒にいるような口ぶりだな」
「俺はそのつもりだよ」
そう断言すれば、ボリスは目を見開く。
最初はマリアベルの命を救ってくれた礼として、彼女が飽きるまで恋人ごっこに付き合うつもりだった。
だが今は心から彼女のことを想っているし、軽い気持ちで傍にいるわけではない。
「グレース嬢も厄介な男に目を付けられたな。まあ、後悔だけはしないように頑張れよ」
そう言って笑い、ボリスは俺の肩を叩いた。
◇◇◇
ボリスと別れ会場を出て、マリアベルの待つ屋敷へと向かう馬車に揺られる。
あれからもグレースが会場へ戻ってくることはなく、今頃もランハート・ガードナーといるかもしれないと思うと、胸を刺されるような痛みを覚えた。
「……本当に、どうしようもないな」
一ヶ月後、他の男性を──ランハート・ガードナーを好きになったから別れたいと告げられたら、俺はどうするのだろう。どうすべきなのだろう。
自分の感情を押し付けて無理やり彼女を引き止めるのが正しいとは、もう思えなかった。
──いくら悩んだところで、幸せを願って離れられる段階など、とうに過ぎているというのに。




