人を愚かにするもの 1
今話と次話、2話まとめて更新しています!
「ウィンズレット公爵様! お忙しい中来てくださり、ありがとうございます」
「ああ、遅くなってすまなかった」
知人にどうしても顔を出してほしいと頼まれ、仕事後に遅れて舞踏会へやってきた。
常に大勢の人間に囲まれ続け、少し外の空気を吸いたくなり、適当な理由をつけて庭園へと出る。
心地良い夜風を感じながら、空を見上げる。あの日、グレースと星空を見てからというもの、こうして空を見上げるようになっていた。
「……綺麗だな」
ここ最近、彼女のことを考えないようにしようと仕事を詰め込みすぎたせいか、息をつく間もなかった。
「ウィンズレット公爵様……?」
そんな中、背中越しに声を掛けられる。
振り返った先にいた貴族令嬢──シャーロット・クライヴ嬢は、薄暗い中でもはっきりと分かるくらい、赤い顔で俺を見つめていた。
子爵家の養女になったばかりだという彼女とは、最近顔を合わせる機会がやけに多い。
社交の場だけでなく、街中の思わぬ場所でも偶然会うのだ。偶然が重なり、会話をすることも少なくない。
それでも不愉快に思わないのは、彼女が常に適度な距離をとっているからだということにも気付いていた。
『先日、偶然カフェで相席させていただいたのがマリアベル様で……本当に可愛らしくて素敵な方ですね。とても幸せな気持ちになりました』
『そうか』
それでいて親しみも感じさせる態度に、不思議な令嬢だという感想を抱く。そんな彼女は酒に酔っているらしく、足元がふらついている。
「きゃ……っ」
やがて倒れかけた瞬間、彼女の身体を支えれば、恐ろしく身体は細くて軽く、心配になるほどだった。
縋るように首元に腕を回され、鼻先が触れ合いそうなくらい顔が近づく。思わず離れようとしたものの、がくんと彼女の足の力が抜けたせいで、それは叶わない。
少しの後、両肩を支えるようになんとか立たせれば、彼女は今にも消え入りそうな声で謝罪の言葉を紡いだ。
「ご、ごめんなさい……ご迷惑をおかけして……」
どうやら上位貴族の男に無理やり酒を飲まされ続けたらしく、酔いを覚まそうと外へ出てきたという。
貴族の中には女性を酔わせ、無体を働こうとする者もいる。その卑劣さには、怒りを覚えずにはいられない。
「ごめんなさい……あと、ほんの少しだけ、このままでいても、いいですか……?」
「……ああ」
彼女は心底辛そうで今にも倒れそうで、無理に運ぶことも放っておくこともできず、仕方なく静かに頷く。
縋るように背中に腕を回され、少しの間、彼女はその場で浅い呼吸を繰り返していた。
「あの、ありがとうございます、落ち着きました」
「そうか」
ここで放置してまた一人で倒れられては夢見が悪くなりそうだと、会場までは送ることにする。
「公爵様は、とてもお優しいんですね」
「……そんなことはないよ」
以前の俺なら絶対に、こんな行動はとらなかった。お人好しで優しいグレースと共に過ごすうちに、感化されたからだということも分かっている。
グレースは今頃、何をしているのだろう。そんなことを考えていると、俺のすぐ隣を歩いていたクライヴ嬢は不意に「きゃっ」と小さな悲鳴を上げ、足を止めた。
何かあったのだろうかとその視線を辿った先には、暗がりで抱き合う男女の姿がある。
社交の場でのこうした密会も珍しくなく、くだらないと通り過ぎようとした時だった。
「あ、あのお二人って……グレース・センツベリー様とランハート・ガードナー様ですよね……?」
「──は」
まさか、と再び視線を向けて目を凝らせば、彼女の言葉が事実だと思い知らされた。
なぜグレースがあんな場所で、あの男と触れ合っているのか理解できない、できるはずもない。
「以前もお二人で一緒にいるところをお見かけしたんですが、お似合いだと思っていたんです」
「……へえ」
何もかもがひどく不愉快で、全身が焼けつくような激しい嫉妬を覚えた。
それでいて、恋人同士のように身体を寄せ合う二人から目を逸らせなくなる。
「俺にすればいいのに。大事にするよ」
やがてそんな声が聞こえてきたかと思うと、自らランハート・ガードナーの胸元に顔を埋めたグレースを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
まさかあの男のことを、好きになったのだろうか。
俺の知るグレースという女性は、誰にでもあんな風に身を委ねたりはしない。だからこそ余計に、焦燥感が込み上げてくる。
「ウィンズレット公爵様? 大丈夫ですか……?」
やがて心配げな声で我に帰った俺の口からは、乾いた笑いが漏れた。
──グレースの言う通りに三ヶ月、距離を置いているのだから、俺は今も恋人という立場であり、彼女を責める権利がある。
それでもこの場から動けずにいたのは、あの男を好きになったと告げられるのを想像し、怖くなったからだ。
押し潰されそうな不安が胸に広がり、自分にこんな弱さがあることを初めて知る。
俺がこれまでグレースに「別れたい」と言われても強気でいられたのは、彼女が本当に俺と別れたいわけではないという、確信があったからだった。
だが、今は違う。
「……クライヴ嬢、すまない。戻ろうか」
「は、はいっ」
俺の少し後ろを歩く彼女はまだ具合が悪そうだったものの、会場につくなり友人達に囲まれていた。
無理に酒を飲まされたというのは周知の事実らしく、「助けてあげられなくてごめんね」「姿が見えなかったから心配していたの」としきりに声を掛けられている。
「あの、公爵様、ありがとうございました」
「ああ」
これでもう大丈夫だろうとその場を離れた途端、急ぎ足で俺の元へやってきたのは、友人のボリスだった。