夢の在処 5
ゼイン様からすれば、私から好きだと言って無理やり恋人になったくせに、自分が好きになった途端、いきなり別れようと一方的に突き放された立場なのだ。
自分勝手な私を憎らしく思うのも、当然だろう。
「俺はそんなに頼りない?」
それでもそんな問いや声色も優しいもので、切なげな表情に胸が締め付けられる。
私を嫌いにならず、何か事情があると考えて責め立てることもないゼイン様の優しさに、泣きたくなった。
「ち、違います! そういうわけじゃ──」
すると否定する間もないまま、正面から整いすぎた顔が近づいてきて、思わず息を呑む。
「グレース」
酔ってしまいそうな甘い声や吐息に、くらくらする。
「…………っ」
この角度では唇が重なってしまうと、きつく目を閉じたけれど。しばらくしても、何も起きないまま。
恐る恐るゆっくりと目を開ければ、鼻先が触れ合いそうなくらいの至近距離で視線が絡んだ。
どうやら唇には寸止めだったらしく、蜂蜜色の瞳に映る私は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……消えた?」
そんな問いに、満足げな笑顔に、余計に頬が火照っていく。答えなんて聞かなくても、分かっているくせに。
そもそもイザークさんの感覚が消えるどころか、私は事故程度にしか思っておらず、何も残っていなかった。
何よりゼイン様に一度目のキスをされた時点で、それ以外のことなんて考えられなくなっていた。
とにかく早く解放されたくて必死に頷けば、ゼイン様はふっと唇で綺麗な弧を描いた。
「そろそろ君の騎士が迎えに来る頃かな」
ぱっと両手を離され、ほっとした瞬間腰が抜けそうになってしまう。ゼイン様は平然とした様子のままで、やはり悔しい気持ちになった。
「あの、どうして、ここに……」
「今日に関しては偶然だよ。遠方での仕事を終えてようやく王都へ戻ってきて、一番に見たのが恋人が見知らぬ男にキスされている現場だっただけだ」
どうやら嫌味のようで、それはもう眩しい笑顔を向けられた私は謝罪の言葉を紡ぐほかない。
領地での仕事や討伐遠征と多忙だったらしく、社交の場にも顔を出していないようだった。つまりシャーロットとも会えていないし、状況は全く好転していない。
むしろ失踪のタイミングとしては完璧だったのではと思っていると、ゼイン様は「ちなみに」と続けた。
「俺はどんなに忙しくても必ず君を迎えに行くから、旅行がしたいならいくらでも行くといい」
心の中を見透かされてしまった私は動揺し「あ、ありがとうございます」と謎のお礼を口にした。
「……本当に、忙しかったんですね」
「ああ、俺から手紙が来なくて寂しかった?」
「そ、そんなことありません!」
「そうか。俺は君からは一切の返事もないし、顔も見れなくてとても寂しかったよ」
まっすぐな言葉に、胸がまた高鳴る。この短時間でゼイン様は私を好きなままなのだと、思い知らされた。
「この後も予定が詰まっているから、もう行くよ」
「……はい」
「それと、先程の男には気を付けた方がいい」
ゼイン様の奥にこちらへとやってくるエヴァンの姿が見え、ほっと安心した時だった。
「好きだよ」
耳元でそれだけ言い、ゼイン様は去っていく。完全に力の抜けた私は、その場にへなへなと座り込んだ。
エヴァンは「あ、いたいた」と呑気にこちらへと歩いてくると、手を差し出してくれる。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……ぜんぜん、大丈夫じゃない……」
それからもずっと心臓は早鐘を打ち、ゼイン様の残した感覚や声が、離れないままだった。
◇◇◇
ゼイン様と会うのは本当に危険だと思った私は、あれ以来、食堂への行き来以外は引きこもるようになった。
「ウィンズレット公爵様とランハート様から、お手紙とプレゼント、お花が届いています」
「……そこに置いておいて」
手紙や贈り物も届いていたけれど、もちろん開封していない。花だけは枯れてしまうし勿体ないから、部屋に飾っているけれど、以前何気なく私が好きだと言ったものばかりで、心臓に悪かった。
そうしているうちに、食堂のオープン日を迎えた。
ゼイン様とのことは解決していないけれど、食堂のことをいつまでも放置しておくわけにはいかないし、準備に集中していると心の安寧が保たれる気がしていた。
「き、緊張してきたわ……どうしよう、もしも誰も来なかったら……吐きそう……」
「大丈夫ですよ。きっと上手く行きます」
「ぷぽ! ぷぽ!」
寝る間も惜しんで準備を続けてきたけれど、やはり緊張はしてしまうし、不安になる。それでもみんなが励ましてくれて、私は両頬を叩いて気合を入れた。
「ありがとう、頑張りましょうね」
もちろん私もオープン期間はフルで働くつもりで、髪を魔法で暗い茶色に染め、周りからはガラスの奥がほとんど見えないような眼鏡をかけている。
これだけでも雰囲気はかなり変わるし、悪い意味で有名なグレースも、平民にまでは知られていないだろう。
「お嬢様、お客様が」
「はっ、いらっしゃいませ!」
ドアベルが鳴り、すぐに気持ちを切り替える。
以前からミリエルの人々に宣伝していたせいか、オープン後は途切れることなくお客さんがやってきた。
お客さんが来るたびに、なんとも言えない喜びや安心感が込み上げてきて、足元がふわふわする。
「お待たせしました、ランチセットです」
「おお、美味そうだ」
「ありがとうございます、どうぞごゆっくり」
私はキッチンを時折手伝いつつ、接客もしながら店内を見回り、忙しなく働き続けていた。
前世で高校時代、ファミレスで週6バイトしていた経験がここにきて生きている気がする。
「お嬢様、お客様をお連れしましたよ」
「ありがとう」
そして時折エヴァンが外に客引きに行くと、ごっそり女性客を連れてきてくれるため、とても助かる。
私はエヴァンを異性ではなく珍獣枠として認識しているけれど、やはり世間では相当モテるのだと実感した。
「えっ、美味しい……!」
「本当だわ、ねえ、そっちも一口ちょうだい」
女性のお客さんにもさっぱりとしたパスタや華やかな盛り付けのセットは好評で、嬉しくなる。
一度こうして食べてもらう機会を作れば、きっとまた来てくれるという自信があった。
「おい、約束通り来てやったぞ」
そんな中、再びドアベルがちりんと鳴り振り向けば、そこにはアルと見知らぬ男性の姿があった。