グレース・センツベリーの失踪(2回目) 2
流石にこんな奇跡みたいな偶然、二度もあるはずがないというのは、私にも分かる。
「怪我はないか?」
「…………」
そっと地面に下ろされたものの、呆然としながらゼイン様を見つめ返すことしかできずにいた。
「顔にまで泥がついている」
ゼイン様は胸元から取り出した見るからに高級なハンカチで、躊躇いもなく私の顔を拭ってくれる。
まるで王都の街中で偶然すれ違ったようなゼイン様の自然さに、戸惑いを隠せない。
泥まみれの身体を抱き止めてくれたせいで、ゼイン様の服にまでべったりと泥がついており、ようやく我に返った私は慌てて口を開いた。
「ご、ごめんなさい! ゼイン様まで、こんな……」
「これくらい、どうだっていい。君の方が大切だ」
「…………っ」
そんなことをさらりと言い、ゼイン様は柔らかく目を細める。私はきつく両手を握り締めると、顔を上げた。
「どうして、こんな山奥にいるんですか?」
「君だって流石に分かっているだろう」
私の心の内を見透かしたように、ゼイン様は綺麗に口角を上げてみせる。
「グレースを迎えに来たんだ」
「な、なんで……」
「君と別れたくないからだよ。先日も言っただろう? 時間をかけて、俺の気持ちを分からせてやると」
先日、確かに公爵邸でそう言われたことを思い出す。
「まずはもう二度と、俺の元から逃げ出す気なんて起きないようにするつもりだ」
そしてゼイン様はそんなとんでもないセリフを、爽やかな笑みを浮かべ言ってのけた。
つまりゼイン様は今、私への愛情を示しつつ、いくら逃げても無駄だと分からせるために、この追いかけっこをしているのだ。
──小説を散々読み、勝手に知ったような気になっていたけれど、私はきっとゼイン・ウィンズレットという人の本質を理解していなかった。
ゼイン様は想像していたよりもずっと厄介で強敵で、私のことが好きなのかもしれない。
先日の言葉がこんな意味だったなんてこと、あの時の私が分かるはずもなかった。
「…………」
そもそもなぜ、私の居場所が分かったのだろう。何よりゼイン様ほどの人が、私のためだけに時間や手間をかけてこんなことをしているなんて、信じられなかった。
「グレース?」
不意に整いすぎた顔が近づき、心臓が跳ねる。いつもの私だったなら、ここで絆されてしまっていただろう。
けれど先日、誓ったのだ。私はゼイン様に幸せになってほしい、そのために改めて頑張るのだと。
だからこそ、ここはしっかり心を鬼にすべきだ。
「私からすれば、迷惑でしかありません。本気で別れたいと思っているんですから」
「このジャケット、いくらすると思う?」
「えっ……あっ……」
「冗談だよ。君が気にすると思って言ってみただけだ」
一瞬で泥まみれになった彼の服のお値段を想像し、軽くパニックになる私を見て、ゼイン様は楽しげに笑う。
完全にゼイン様の手のひらの上で転がされてしまっているものの、ひとまず助けてもらった身で、泥だらけのまま追い返すわけにはいかないだろう。
「まずは助けてくださって、ありがとうございました。この先に私達が滞在している小屋があるので、エヴァンの替えの服に着替えたら、帰ってください」
「残念、迎えが来るのは3日後なんだ」
「…………」
もちろん長期滞在の予定の私達の迎えはまだまだ来ないし、場所が場所なだけに馬車だって滅多に通らない。
今から急ぎ迎えを呼んだって、数日はかかる。
徒歩移動となれば、1日2日でどうにかなるような距離でもないため、ゼイン様は本気で私の元──この山奥に滞在する気でやってきたのだと、思い知らされた。
このままでは本当に、最低でも3日間は一緒に過ごすことになってしまう。
「……そうだわ」
これではいつもと変わらないと内心頭を抱えた私は、この山奥ならではの打開策を思いついてしまった。
逆にこれからの3日間を利用し、ゼイン様に冷められればいいのだ。そうすれば全てが解決する。
今まで浮気作戦をしたり悪女ぶったりしても効果はなかったものの、まだ試していない方法があった。
そう、百年の恋も冷めてしまうような、貴族令嬢としてあり得ない行動をしまくるのだ。
貴族女性は皆いつだって美しく、優雅でマナーも完璧で余裕に溢れており、それがあるべき当然の姿だった。
公爵家に生まれ何不自由のない生活をし、華やかな世界のみで生きてきたゼイン様はきっと、平民の本気のド貧乏モードを見ればドン引きするはず。
「……よし」
そもそも今だって私は動きやすいシンプルなパンツスタイルの上に三つ編みで、芋くさいことこの上ない。
これから3日間、ゼイン様には平民のド貧乏生活を体験してもらい、価値観の違いを味わわせようと決める。
「では、行きましょうか! さっさと洗濯しないと、汚れが落ちにくくなってしまうので」
「ああ」
そのままゼイン様と共に山道を下って行き、小屋へと向かう。途中でエヴァンを忘れてきてしまったことに気が付いたけれど、今は仕方ない。
「お嬢様、もう戻って来られ──……」
ちょうどハニワちゃんを抱いてオンボロ小屋から出てきたヤナは、泥まみれの私とゼイン様の姿を見るなり、やはり信じられないという顔をした。
なんというデジャヴ。とは言え、今回も当然の反応すぎる。先程の私のように呆然とするヤナに着替えと桶を持ってくるよう頼むと、小屋の裏へと移動した。
いつの間にかハニワちゃんも付いてきており、嬉しそうにゼイン様に「ぺぴぽ!」と話しかけている。
やはりハニワちゃんは、ゼイン様が大好きらしい。