グレース・センツベリーの失踪(1回目) 2
ゼイン様とマリアベルのお母様が聖女だったという事実に、私は驚きを隠せずにいた。
小説には書かれてはいなかったし、亡くなったご両親について二人に尋ねることもなかったからだ。
「本当に素晴らしい方でしたよ。侯爵家の出で公爵夫人という立場でありながらも、慈善活動や聖女様としての仕事を精力的に続け、民からも愛されていましたから」
「……そうだったのね」
ゼイン様とマリアベルを見ていれば、ご両親がどれほど素晴らしい方だったのかが分かる。
若くして亡くなられたのが、本当に残念だった。残された二人の悲しみも計り知れない。今ゼイン様の側にマリアベルがいてくれてよかったと、心から思った。
「そう言えば、聖女様ってどうやって選ばれるの?」
「明らかになっていませんが、平民の聖女様は過去にいないので、血筋が関係しているとか色々噂はあります」
「血筋……」
そこでふと、違和感を覚えてしまう。シャーロットは子爵令嬢だけれど、確か元々は平民だったからだ。
小説ではさらっと「子爵の後妻の連れ子」としか書かれていなかったものの、間違いないはず。
やはり噂は噂で、実際には関係ないのかもしれない。
「……まあ、私が気にしても何も変わらないんだけど」
シャーロットとゼイン様が出会い恋に落ちれば、自然と全て上手くいくに決まっている。そんなことを考えながら、私は流れていく窓の外の景色へと目を向けた。
◇◇◇
トラスミナ村に着いてから、一週間が経った。
ランハートが用意してくれた豪華なコテージで、私はエヴァンとヤナ、ハニワちゃんと過ごしている。
聞いていた通り景色は美しく海は真っ青に澄み切っていて、眺めているだけで心が洗われるようだった。食べ物も美味しくて、静かで平和で文句なしの失踪先だ。
流石ランハートだと、感謝をする日々を送っている。
「心が凪ぐって、こういうことを言うのかしら」
浜辺近くの日陰で読書をしていた私は、ぐっと両手を伸ばし、椅子の背もたれに思い切り体重を預けた。潮風が心地よくて、そっと目を閉じる。
半年間続けてきたグレース・センツベリーとしての演技から完全に解き放たれ、解放感でいっぱいだった。
屋敷の中でも二人以外の前では必死に悪女のフリをしていたし、24時間素でいられるのは初めてなのだ。
「でも、朝から晩まで魔法について勉強をされたり料理を作ったりで、全く休んでいないじゃないですか」
「私、何もしないっていうのが苦手みたい」
「俺はあと50年くらい、この休暇生活ができますよ」
「休暇気分のところ悪いけど、エヴァンは仕事中よ」
トラスミナでもエヴァンにはお父様が高い給金を払っており、週末以外はしっかり護衛騎士としての仕事をしてもらうことになっている、けれど。
無職のプロになれそうなエヴァンは、今日もハニワちゃんとカニを戦わせて遊んでいた。やめてほしい。
身バレを防ぐために村の人々との交流も避けており、ヤナは今、近くの街に食材を買いに行ってくれている。
食事は私とヤナで作っていて、節約料理や海鮮料理を作ったり、近くの魔草を摘んではお菓子を作ったりと、食堂のメニューのために試行錯誤していた。
子ども達には無料で食事を振る舞う分、美味しい食事で通常のお客さん達を呼び込んで、黒字にしなければ。
──グレースの私財や土地を売って稼いだお金があれば、無料で食事を振る舞うくらい、いくらでもできる。
それでも、私が憧れた食堂はそうじゃない。しっかりお店としても成り立たせたいという気持ちがあるため、手は抜けなかった。
「それにしても、今日は怖いくらいに静かだわ」
「確かに。昨日までは魚や動物がたくさんいたのに、今日はこのカニ一匹しかいませんし」
どうしてだろうと首を傾げていると、突然ハニワちゃんが「ぴ!」と鳴いた。
私もエヴァンも初めて耳にするハニワちゃんの鳴き声に驚き、目を瞬く。
「ハ、ハニワちゃん……? どうかしたの?」
「ぱぷ! ぱぴ! ぽ!」
「こいつ、音出せたんですね」
「仕組みはよく分からないけど、すごくかわいいわ」
二人でしゃがみ込み、ぴょこぴょこと跳ねては半濁音を発するハニワちゃんをじっと観察する。何もかもが信じられないくらいにかわいくて、胸がときめく。
けれど何かを訴えているようだとも思っていると、急に夜になったかのように頭上には暗い影が差した。
不思議に思って振り返れば、そこには巨大で毒々しい色をしたクラゲの姿があり、口からは悲鳴が漏れる。
「きゃああああ! な、何よこれ!」
「毒クラゲの魔物ですね。刺されると見た目がぐちゃぐちゃになり、地獄の苦しみを味わった末に死にます」
「最低最悪じゃない!」
間違いなく、嫌な死因TOP5に入るだろう。恐ろしすぎて、変な汗が止まらない。
水中では魔力を感知しにくいらしく、エヴァンも気づかなかったという。そんな中、ハニワちゃんはクラゲの存在を感知していたのかもしれない。
「そもそも、ここは魔物がいないんじゃなかった!?」
「ですね。間違いなくおかしいです」
とは言え、エヴァンがいれば安心だとハニワちゃんを抱き抱えて彼へと視線を向けると、エヴァンは腰元に手をやり「あ」という間の抜けた声を出した。
何故かそこには、あるべきはずの剣がない。
「ど、どうして丸腰なの!?」
「先ほど砂山崩しをしていた時に剣を使ったんですが、砂山に刺したままあそこに」
「もう騎士やめなさい! クビよ!」
木の棒代わりに剣を使って遊んでいたせいで、遠く離れた場所に突き刺さっていた。いい加減にしてほしい。
「まあこれくらい、素手でも余裕──」
「──えっ?」
そうエヴァンが言いかけて片手をかざすのと同時に、私の背後からは無数の巨大な氷の塊が飛んできて、魔物の巨体に突き刺さっていく。
少しの後、クラゲはどさ、べちゃりという音を立て、海の中に沈んでいった。
「…………」
何が起きたのかと呆然とする中で、あの氷魔法には覚えがあることに気が付いてしまう。
あんな速度や規模、正確さを兼ね備えた上で発動できる人間なんて、そう多くはないはず。
──まさか、そんなこと絶対にあるはずがない。そう思いながらも心臓は嫌な音を立て、早鐘を打っていく。
「……ど、して」
やがて恐る恐る振り返った私は、息を呑んだ。
「こんなところで会うなんて、奇遇だな」
そこには騎士姿のゼイン様がおり、彼は言葉を失い立ち尽くす私に対し、誰よりも美しい笑みを向けた。