悪女と主人公 3
馬鹿みたいにうるさい心臓の音が、ゼイン様にまで聞こえていないだろうかと心配になる。
逃げよう、離れようと身体を動かせば、お腹に回されている両腕に余計に力が込められた。
「ど、どうして……」
「恋人を抱きしめるのに、理由なんて必要ないだろう」
「わ、私は別れたいんです!」
「俺は別れたくない」
ゼイン様が喋るたび、耳元がくすぐったくて、低い少し掠れた声が身体に響く。
完璧王子様主人公であるゼイン様は、声までそれはそれは良いのだ。何もかも刺激が強すぎて、眩暈がする。
「と、とにかく離してください」
「嫌だ」
これまでは私の意思を尊重してくれていたのに、今は離してほしいと言っても、離してくれる気配はない。
「今までは、もっと優しかったのに……」
「十分優しくしてるつもりだよ。俺だって、君のために色々と我慢しているんだ」
私が別れると言ったせいで、妙なスイッチが入ってしまったのかもしれない。ゼイン様の態度や言葉からは、私に対しての遠慮がなくなっているのが窺える。
「それに君は、優しくするだけではもう捕まえられないだろう? 俺も君の気を引く努力をしないと」
こんなにも「気を引く努力」という言葉が似合わない人がいるのだろうかと、心底思った。
私は男女関係についてさっぱり詳しくないけれど、そもそも同意の上で始まった交際というのは、同意がないと解消できないものなのだろうか。
「と、とにかく、心臓に悪いので離してください」
「なぜ心臓に悪いんだ? 君は俺が嫌いなのに」
「え」
「君は俺のことが嫌いなんだろう?」
何故か二度も「嫌い」という言葉を強調され、私は舞踏会の夜、そんな言葉を言い放ったことを思い出す。
『私はもう、ゼイン様のことが好きじゃないんです。むしろ、き、嫌いです! 別れてください!』
いくら懇願しても別れてくれる気配はなく、咄嗟に口に出した私なりの酷い言葉が、それだった。
本来のグレースは思い出すだけで吐き気がするような言葉を吐き捨てるため、比べ物にならないのだけれど。
「それは、その……」
そして、気付いてしまう。ゼイン様は私に「嫌い」だと言われたことを、かなり根に持っているのだと。
いつも落ち着いた大人の男性であるゼイン様にも、そんな一面があるなんてかわいい──なんて考えてしまったところで、私は思い切り自身の両頬を叩いた。
こんな状況で追い打ちをかけるように、思わずきゅんとしそうになった愚かな自分に、喝を入れる。
何度か深呼吸すると、私は口を開いた。
「き、嫌いだから、心臓に負担がかかっているんです」
「ははっ、それは大変だ」
そう言って笑ったゼイン様だって、本当に私に嫌われているとは思っていないはず。
実際に私がゼイン様を嫌っていた場合、こんなことをする人ではないからだ。
逆に言えば、私がゼイン様を心底嫌いになれば、きっとすんなり別れることも可能なのだろう。
けれどそんな方法で別れることなんて、絶対に無理だということも分かっていた。私がゼイン様のことを嫌いになれるはずなんて、ないのだから。
「お二人とも、広間にいらっしゃらな──きゃあ!」
そんな中、廊下のど真ん中で抱きしめられたままの姿をマリアベルに目撃されたことで、私はようやくゼイン様の腕から解放された。
まだまだ心臓の鼓動は、落ち着いてくれそうにない。
「おいで、グレース」
「はい……あ」
──つい差し出された手を当たり前のように取ってしまったことも、そんな私を見て嬉しそうに笑ったゼイン様にときめいてしまったことも、全部全部、間違いだ。
◇◇◇
その後はマリアベルから、プレゼントを受け取った。屋敷に帰ってから開けてほしい、とのことだった。
「ふふ、何かしら。楽しみだわ」
「喜んでいただけると良いのですが……」
不安げにもじもじしているマリアベルがかわいくて、どんなものでも家宝にすると誓う。
それからはいつものように二人で料理を作り、ゼイン様と三人で食事をして、楽しく過ごした。三人で過ごしている間はいつも通りで、これからもこんな優しい幸せな時間が続くような錯覚を覚えてしまったほどに。
あっという間に夕方になり、断ったものの結局、いつものようにゼイン様が送ってくれることになった。
馬車の中で会話はなかったけれど、気まずさはない。
隣に座るゼイン様からの視線に耐えられず、私はずっと流れていく窓の外の景色を眺めていた。
やがてセンツベリー侯爵邸に到着し、ほっとしつつ立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれた。
「ゼイン様?」
「……このまま君を逃がしたくないな」
そう言って、ゼイン様は困ったように微笑む。
帰したくないではなく、逃がしたくないという言葉に少しの違和感を抱いてしまう。
「すまない、行こうか」
ゼイン様は小さく笑うとそのまま立ち上がり、すぐにエスコートしてくれた。
馬車を降り、手を握られたまま向かい合う。これでゼイン様とはお別れだと思うと、やはり寂しくなった。
「それでは、また」
それでも最後に「また」なんて嘘をついて、そっと掴まれた手を引き抜こうとする。
「グレース」
けれど、これまでよりも強い力で握られたことで、それは叶わなかった。