そして物語は始まる
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「まあ、グレース様だわ。例の事件で怪我をされたと聞いたけれど、もう大丈夫みたいね」
「やはり公爵様との関係は続いているんだな」
「ゼイン様の影響もあって、改心したのかしら」
もはや恒例となった刺さるような視線や囁き声は気にせず、まずは主催者である国王陛下の元へと向かう。
「……お前達がまさか、そんなにも親しくなるとは」
「ええ、彼女と出会えたのは幸運でした」
「むしろ苦手な人種だと思っていたんだがな」
「陛下でも読み違えることがあるのですね」
ちくちくと嫌味を言う陛下と、笑顔で言い返すゼイン様の様子をヒヤヒヤしながら見守る。
自身の手の内の人間とゼイン様を結婚させたい陛下にとって、私は邪魔でしかないのだろう。
その後、陛下の元を離れるとゼイン様は足を止めて私に向き直り、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「不快な思いをさせてしまってすまない」
「いえ、全然大丈夫ですよ。気にしていませんから」
小説を読んでいた私からすれば、そういうものだと理解しているため、今更気にはしない。
そうして次々とやってくる人々の相手をしていると、不意に「あ」と聞き慣れた声が耳に届いた。
「やあ、グレース。お手柄だったね」
「ランハート」
今日も彼にだけ特別なスポットライトを当てているのかと思うほど、キラキラと輝きを放っている。
ランハートは事件後、体調を気遣う手紙やお見舞いの品を贈ってくれ、私の中での株が上がっていた。
「公爵様も先日ぶりですね」
「……ああ」
一応は浮気現場を目撃された浮気相手の立場だというのに、ランハートの気まずさを感じさせない堂々とした態度には、尊敬の念すら抱いてしまう。
ゼイン様はランハートに冷ややかな視線を向けると、私の腕を掴んだ。そしてそのまま、歩き出す。
「行こう」
「あっ、はい。ランハート、また!」
「グレース」
すると私の何気ない「また」が引っかかったようで、ゼイン様は明らかに苛立った顔をした。
いつも無表情に近かった出会った頃よりも、喜怒哀楽が分かりやすくなった気がする。
「本当に浮気者だな、君は」
「嫌いになりました?」
「全く? 俺だけを見てもらえるよう努力しないと」
「…………っ」
耳元でさらりとそんなことを言われ、頬が火照る。
そうして腕を引かれホールを歩く途中、人混みの中で一際目を引く美女を見つけた私は、一瞬で全身から熱が引いていくのが分かった。
「──シャーロット」
そこにいたのは間違いなく、先日の劇場ぶりのヒロイン・シャーロットだった。
挿絵と同じレモンカラーのドレスを纏う可憐な彼女の姿から、やはり物語通りに進んでいるのだと悟る。
「顔色が悪いが、大丈夫か?」
「は、はい。すみません、少し人に酔ったみたいで」
「少し休もう」
「いえ、大丈夫です。あ、あちらにいるのは──」
なんとか動揺を隠した私は、ゼイン様と共に知人の元へ向かい、ひたすらに時間が経つのを待ち続けた。
◇◇◇
やがて深夜0時を知らせる鐘が鳴り響き、私はいよいよかと気合を入れる。
「ゼイン様、少し外の空気を吸いませんか」
「ああ、もちろん」
舞踏会も終盤に差し掛かる中、ゼイン様の手を取りホールを出て、庭園へと向かう。
小説ではこのタイミングで、グレースはゼイン様に別れを告げるのだ。確かこの辺りだったと挿絵の場所を思い出しながら移動し、噴水の前で足を止める。
「……グレース?」
ゼイン様に向き直ると、まっすぐに彼を見つめた。
月明かりに照らされたその姿は息を呑むほどに美しくて、なんだかとても遠い人に感じてしまう。
──グレース・センツベリーは、ゼイン様とシャーロットを出会わせるための舞台装置でしかない。
自身にそう言い聞かせ息を吐くと、口を開いた。
「ゼイン様、私と別れてください」
「無理だ」
笑顔での即答と「何を馬鹿なことを言っているんだ」とでも言いたげな態度に、動揺してしまう。
「ど、どうしても別れたいんです! お願いします!」
「理由は?」
「それはその、上手く言えないんですが絶対に別れたくて……何でもしますから、とにかく別れてください」
「別れない」
やばいまずいどうしようと思いながらも、まだ大丈夫だと必死に落ち着こうとする。
そう、大人の男性で紳士であるゼイン様なら、きっと話せば分かってくれ──
「本当に困るんです、お願いします、私と別れ」
「嫌だ」
別れたいと本気で懇願する女に対し「嫌だ」などと言う人ではないはずで、プライドだってあるはずで──
「お、お願いします! どうか別れてください!」
「いい加減諦めてくれ」
にっこりと眩しい笑顔でそう言ってのけるゼイン様は全く別れてくれる気配がなく、冷や汗が流れる。
「……あ」
そんな中、噴水の向こうにシャーロットの姿が見えた瞬間、一気に焦燥感が込み上げてきた。
『私がずっとゼイン様のお傍にいます。絶対にあなたを裏切ったりしません、この命が尽きるまで、永遠に』
『君の傍にいられることが、俺にとって最大の幸福だ』
何度も繰り返し読んだ小説の、大好きだった二人の言葉を思い出す。一時の感情に流されてはいけない。
──しっかりしなきゃ。だって、シャーロットが傍にいるんだもの。絶対に、大丈夫。
ぎゅっと両手を握りしめると、私は顔を上げた。
「私はもう、ゼイン様のことが好きじゃないんです。むしろ、き、嫌いです! 別れてください!」
本来のグレースはこの1000倍は酷いことを吐き捨てるとは言え、ずきずきと胸が痛む。
ゼイン様は真剣な表情を浮かべると、口を開いた。
「それでも俺は、君が好きだ」
そう告げられた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
ゼイン様からの好意を感じてはいたものの、こうして「好き」という言葉にされたのは初めてで。鼓動が痛いくらいに早くなっていく。
嬉しいと思ってしまうのと同時に、シャーロットがはっと口元を両手で覆うのが見えた。
「君は本当に嘘が下手だな」
「ち、ちが……」
「そんなところも好きだよ」
「…………っ」
こちらへ近づいて来たゼイン様は、思わず後ずさった私の手を掴んだ。掴まれた場所が、ひどく熱い。
溶け出しそうな金色の瞳から、目が逸らせなくなる。
「俺は君と、絶対に別れるつもりはない」
視界の端で、シャーロットが涙を流すゼイン様に渡すはずのハンカチが、ふわりと飛んでいく。
もうどうすればいいのか分からず、私は頭を抱えた。