聖女の力 5
腕を引かれ、顔が近づく。イザークさんは呆れや苛立ちを含んだ笑みを浮かべていて、先程までの人の良い雰囲気は一切ない。
まるで別人のような態度に、私の嫌な予感は的中していたのだと悟る。
「離してください!」
「そういうわけにはいかないんです。あなたにはここで死んでもらうので」
「──え」
次の瞬間には、イザークさんが左手で握ったナイフが私の首元にあてがわれていた。
ぴりっとした痛みが走り、皮膚が切れた感覚がする。
状況を理解するよりも早く、これまで姿を隠していた侯爵家の護衛達が私を守ろうと、剣を抜いてイザークさんへと向かっていく。
「貴様、何を──ぐあっ」
「雑魚は黙っていてくれないか」
けれど私が人質のような状態で捕らえられているせいで手出しができず、その隙をついたイザークさんが片手を翳し、氷魔法で攻撃を放つ。
その攻撃の威力は凄まじく「それなりに魔法を使える」なんてレベルではない。もしかするとエヴァンにも劣らないほどかもしれないと、直感的に思った。
騎士達は防戦一方で、一人、また一人と倒されていく。
このままでは本当に危険だと思った私は、ドレスの胸元に付けていたブローチを外し、側で震えているマリアベルに握らせた。
「マリアベル、ハニワちゃんと逃げて!」
「で、でも……お姉様が……!」
「私は大丈夫だから! ハニワちゃん、マリアベルを連れて行って! お願い!」
「ぴぱ! ぴぱ!」
そうお願いしても、ハニワちゃんは悲しげな顔で頭を左右に振る。私を置いて逃げるのは嫌だと言ってくれているのだろう。
──マリアベルは小説の世界では、既に亡くなっているはずだった。そんな彼女の身には私以上に、何が起こるか分からない。
それにイザークさんの標的が私だという、確信もあった。だからこそ今すぐにこの場を離れてほしくて、心が痛むのを感じながらハニワちゃんの名前をもう一度強く呼ぶ。
ハニワちゃんは泣きそうな顔をした後、小さく頷いてくれた。
「び!」
その途端、ハニワちゃんが私の視界を覆うほど巨大になっていく。
初めて見る姿に戸惑っているうちに、ハニワちゃんは大きな太い手でマリアベルをそっと抱き上げ、来た道を走り出す。
その姿が小さくなっていくのを見つめながら、どうか無事でいてほしいと祈った。
アルがくれた相手の位置が分かる魔道具のブローチも渡したため、何かあってもゼイン様が見つけてくれるはず。
「他人を気遣って逃がしてやるなんて、余裕がありますね」
呆れたように笑うイザークさんはナイフを離し、私を思い切り突き飛ばした。
地面に倒れこみ、背中に強い痛みを感じて呻き声が漏れる。同時に、既に護衛達が全員倒されていることに気付く。
イザークさんは私の側にしゃがみ込み、ひどく冷たい手を首に沿わせた。
ぐっと首を絞められ、息が苦しくなっていく。
それでも呼吸はなんとかできる程度で、もっと力を入れることも、先程の魔法を使えば一瞬にして私を殺すことだってできるはず。
けれどそうしないのは、時間をかけて痛めつけてから殺すつもりなのかもしれない。
「ど、して……こんなことを……」
出会った頃からずっと、イザークさんは優しかった。
困っていた私を助けてくれて、食堂にも顔を出し、子ども用のおもちゃや本なども寄付してくれていたのだ。
イザークさんはそんな私を見て、嘲笑うように唇の端を釣り上げた。
「シャーロット様のためですよ」
はっきりとそう言ってのけたイザークさんに、私は息を呑んだ。
なぜここで、シャーロットの名前が出てくるのか分からない。
「私はシャーロット様にお仕えしているんです。ウィンズレット公爵様とシャーロット様が結ばれるためには、あなたが邪魔なんですよ」
「そん、な……」
イザークさんとシャーロットに関わりがあるなんて、想像すらしていなかった。
そもそもイザークさんは、小説に出てこないのだから。
「物語の主人公は公爵様とシャーロット様なんでしょう? 端役のあなたは大人しくしていれば、こんな目に遭うこともなかったのに」
「…………っ」
物語、主人公、端役。それらの言葉によって、ようやく全てを理解した。
──シャーロットも私と同じ、転生者だったのだと。
彼女からすれば、小説の悪女から脱線した私はイレギュラーな存在で、同じ転生者だと気付くのも容易だったに違いない。
これまでのシャーロットの行動にも、全て納得がいった。私に近付いたのも様子を窺い、牽制するためだったのだろう。
「あなたのこと自体は嫌いではないので、残念です」
首を絞める手に、ぐっと力が込められる。
じわじわと呼吸がままならなくなり、視界が滲む。
ゆっくりと、けれど確実に意識が遠のいていく。
「公爵様のことは、聖女となったシャーロット様が幸せにしてくださいますよ。いずれ、気の迷いだったあなたのことなんて忘れるはずです」
イザークさんはこれまでになく饒舌で、楽しげに私を見下ろしている。
ここで死ぬなんて──ゼイン様が自分以外の誰かと結ばれるなんて、絶対に嫌だった。
グレースという端役の悪女として転生し頭を抱えたこともあったけれど、いつの間にか私はこの世界に、たくさんの大切なものができていたから。
そんな大事な人たちと──ゼイン様とこの先もずっと、一緒に生きていきたい。
「……う、……ぁ……」
必死に抵抗しようとしても、身体に力が入らない。
魔法を使うこともままならず、両目からはぽろぽろと涙が伝う。
「さようなら、グレース様」
目の前が真っ暗になり、本当にもう駄目かもしれないときつく目を閉じる。
それでも諦められなくて、心の中でゼイン様の名前を呼んだ時だった。