聖女の力 3
「──様、お嬢様、おーい」
鼻先が触れ合いそうな距離までエヴァンの顔が近づいていて、はっと我に返る。
慌てて後ろに飛び退いた結果、椅子の縁に思い切り頭をぶつけてしまった。
「お姉様、大丈夫ですか? すごい音がしましたが」
「少し考えごとをしていただけなの、平気よ」
ずきずきと痛む頭を押さえながら、マリアベルへ笑顔を向ける。
──ウォーレン様からロザリー様に関する話を聞いてから、一夜が開けた。
お礼を告げて侯爵邸を朝早くから出発した後、私達は馬車に揺られ、近くにある大きな街へやってきている。
せっかく遠くまで来たのだから少しだけ観光をして、王都へ戻ろうという計画を事前に立ててあった。
「叔父様とお話をする中で、お姉様の知りたかった情報は得られましたか?」
「ええ、マリアベルのお蔭よ。本当にありがとう」
「それなら良かったです」
はっきりとした答えは見つかっていないものの、ウォーレンさんのお蔭で核心に近づけた気がしていた。
この先のことは王都に戻った後、ゼイン様にも相談をして考えようと思っている。
やがて街に到着した私達三人とハニワちゃんは遅い朝食をとり、辺りを見て回った。とても賑やかで綺麗な場所で、街の人々もみんな親切な人が多い。
この街に来るのは初めてだと話すと「良い場所だから、ぜひ好きになってほしい」とこちらが申し訳なくなるくらいサービスをしてくれて、心が温かくなる。
その言葉の通り、ほんの短い時間でも私達はこの街がとても好きになっていた。
「この街は魔草を使ったお菓子が有名なのね。今度またゆっくり来たいわ」
「はい、次はお兄様も一緒に」
近くの屋台で飲み物を買った後、街の中心にある広場で少し休憩をすることにした。
美しく整えられた花壇の前に並ぶベンチに腰を下ろしたところで、見覚えのある黒髪が目の前を横切った。
まさかと思いながらも、咄嗟に名前を呼ぶ。
「……イザークさん?」
「グレース様? どうしてここに」
やはりイザークさんで、彼は足を止めてこちらへ歩み寄ってきてくれる。
王都から遠く離れた街で出くわすなんて、かなりの偶然に違いない。イザークさんも私やエヴァンの姿を見て、切れ長の目を瞬いている。
「近くに用事があったんです。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「ええ、本当に。この街は僕の生まれ故郷なんです。里帰りの最中でして」
彼は昨日の晩に帰ってきて、今日は数年ぶりにのんびりと街中を散策していたそうだ。
せっかくの里帰り中なのに邪魔をしてはいけないし、引き止めてごめんなさい、と伝えようと口を開きかけた時だった。
「きゃああああっ!」
「逃げろ! ゼドニーク軍が攻め込んできたぞ!」
「──え」
そんな悲鳴が聞こえてくるのと同時に、男性の怒鳴り声や馬の足音が広場に響く。
逃げ惑う民達の背後から、馬に乗った騎士達が広場へ押し入ってくるのが見えた。
「お嬢様、マリアベル様、下がっていてください」
私達を庇うように、剣を抜いたエヴァンが前へ出る。
「……嘘、でしょう……」
その後ろで口元を両手で覆いながら、私は動揺を隠せずにいた。足が震え、冷や汗が背中を伝う。
なぜなら小説でゼドニーク王国が攻め込んでくる場所はこの街でもなければ、時期はもっと後で。
──彼らに攻め込まれた末、グレース・センツベリーは死にかけるのだから。
「ははっ、抵抗する者は殺せ! 皆殺しだ!」
やがて聞こえてきた声の主を視界に捉えた瞬間、全身の血が凍りつく感覚がした。
ひとつに束ねられた真っ赤な髪に、真っ赤な目。その姿には、見覚えがあった。
「……フィランダー・ゼドニーク……!」
彼は『運命の騎士と聖なる乙女』に出てくるサブキャラクターであり、今回攻め込んできたゼドニーク王国の第二王子だ。
そして小説でグレースを殺そうとするのも、フィランダーだった。
『へえ、俺好みの女だな。国へ連れ帰ってやろうか』
『お前のような野蛮な男なんて、願い下げだわ』
フィランダーは美しいグレースを見かけて興味を持つものの、グレースは攻め込んできた敵国の人間、それも俺様気質な彼に対して嫌悪感を露わにする。
『そうか、残念だ。俺は生意気な女が何よりも嫌いなんだよ』
フィランダーは短気で残忍で冷酷で、プライドだって高い。そんな彼の機嫌を損ねたことで、グレースは容赦なく剣で顔を斬りつけられる。
『ああああっ! 私の……私の顔が……よくも……!』
激昂したグレースは護衛たちに彼を殺すよう命じるも返り討ちに遭い、その結果、腹部に剣を突き刺されてしまう。
それでもグレースは顔の傷ばかりを気にして、叫び続ける。
そうして命を落としかけたところでシャーロットが争いの場に駆けつけ、瀕死のグレースを聖女の力で救ってくれるのだ。
「…………っ」
このままフィランダーと顔を合わせてはまずいと、顔を伏せる。
とにかく混乱に乗じて、今はこの場を離れることを優先しようと決めた、のに。
「おい、お前ら。この国の上位貴族だろう、止まれ!」
華やかな装いをしていた私とマリアベルの姿は目立ってしまっていたようで、背中越しにフィランダーの鋭い声が聞こえてくる。
ここで無視をしては、彼の機嫌を損ねてしまうのが目に見えている。彼も殺人鬼という訳ではないし、本来のグレースのような高圧的な態度を取らなければ命を取ろうとまではしないはず。
エヴァンが常に間に入ってくれていることもあって、私は深呼吸をすると足を止め、怯えるマリアベルを抱きしめながら振り返る。
すると血によく似た真っ赤な瞳と、視線が絡んだ。
「……へえ?」
フィランダーの形の良い唇が、ぞっとするほど綺麗な弧を描く。