優しい人 1
自室で朝から食堂に関する書類仕事をしていると、テーブルの上の薔薇の花をつついていたハニワちゃんが側にやってきて、ペンを持つ私の手にちょこんと触れた。
「ぺぱぽ、ぱ?」
「ごめんね、エヴァンは今日いないの。外で魔物と戦うお仕事をしているのよ」
「ぷ……」
ハニワちゃんはとても寂しそうにしていて、喧嘩をすることもあるけれど、本当はエヴァンと仲良しで大好きなのが伝わってくる。
そもそも小さな子ども──むしろまだ一歳の赤ちゃんのようなハニワちゃんと同レベルで喧嘩をしている、二十六歳のエヴァンがおかしい。
「無事に帰ってきてくださるといいですね」
「ええ、本当に」
旅行鞄に私の荷物を詰め込んでくれているヤナに笑顔を返すと、私はしゅんとするハニワちゃんの頭を指先で撫でた。
「明日には戻ってくるし、二日後からの旅行も一緒だからね」
──そう、いよいよ明後日はマリアベルと彼女やゼイン様の親戚である、ウォーレン様に会いに行くことになっている。
最近はずっと公爵領を出て、侯爵家に嫁いだご令妹の元で暮らしているという。
「何か分かるといいんだけど……」
色々と調べてみたものの、結局聖女の力について詳しいことは分からないまま。
その一方で、シャーロットが言っていた通り瘴気は日々各地で増加しており、過去に例を見ないペースで魔物が現れているという。
ゼイン様もエヴァンもここ最近は魔物の討伐で忙しく、心配は募るばかりだった。
魔鉱水の買い占めも激化しており、隣国では既に国規模の問題になっているそうだ。
「……本当に、あっという間に変わっていくのね」
一気に小説の展開通りに世界が変化し始め、心が鉛になったみたいに重たくなる。
ゼイン様の愛情を疑うことなど二度とないし、私にできることならどんなことだってする覚悟だってある。
それでも解決策は未だに見つからない以上、恐怖心を抱いてしまうのも事実で。
グレース・センツベリーが主人公であるゼイン様と結ばれる未来があるのだろうかと、不安になることだってある。大勢の人の命がかかっていると思うと、尚更だ。
とにかくウォーレン様に会う機会を無駄にしまいと、気合を入れた。
◇◇◇
翌日の昼過ぎ、私は食堂の新メニューの試作のため、ミリエルへとやってきた。
けれど店の裏で待機していても、食材が届くはずの時間はとうに過ぎているのに、いつまでも業者が現れる気配はない。
「どこかで迷っているのかしら?」
「俺が少し様子を見てきます。魔法を使えば馬車よりも速いですし」
「ありがとう、お願いね」
黙って座っていると眠くなってきたという、先程から仕事中とは思えないほど欠伸を連発していたエヴァンが、外まで探しに行ってくれることになった。
その間、手持ち無沙汰になり、食堂の手伝いをしようと店の中へ移動すると、賑わう店内に一際目立つ男性がいることに気が付いた。
「イザークさん、こんにちは! 今日も来てくださったんですね」
「ちょうどこの辺りで仕事がありまして」
すぐに駆け寄って声をかけると、深緑のジャケットを着こなすイザークさんは、黒曜石に似た両目を細め、ふわりと微笑んだ。
最近もお客さんとして定期的に食堂を訪れてくれており、その度に手土産なども持ってきてくれるため、従業員からも大人気だった。
近くにいた女性客も、彼を見て色めき立っている。けれどそれも当然だと思えるほど、イザークさんの美貌や大人の色気は圧倒的で、凄まじい。
「最近は満席で入れないことも多いんです。大盛況で何よりですね」
「いつもありがとうございます。お蔭様で従業員を増やそうと思っているんです」
細部までしっかりとこだわっていること、そして店のコンセプトを応援してくれる方が多いことにより、リピーター率がものすごく高いんだとか。
その上で口コミによって新規客も入り、店の経営は順調そのものだった。二階部分も客席として使えるよう、近々工事を進める予定でいる。
「お忙しい中、引き止めてしまってすみません。日替わりのランチをお願いします」
「いえ、ありがとうございます。少々お待ちください」
注文を取り、厨房へ伝えようとした時だった。
ドン、ガシャン、という大きな音が店内に響き、音がした方へ視線を向ける。
「ったく、酌くらいしろよ! こっちは客だぞ!」
「うちはそういう店じゃありません」
でっぷりとした中年男性が酒瓶を手に、従業員のアニエスに対して怒鳴りつけていて、私はすぐに二人の間に割り入った。
男性はかなり酔っているらしく、油ぎった顔は真っ赤に染まっている。
「アニエス、大丈夫? 何があったの?」
「こちらのお客さんが酒を持ち込んだ挙句、隣に座って酌をしろって言いだして……断ったら怒鳴って机を思い切り殴ったんです」
床には水とガラスの破片が散らばっていて、先程の音は男性がテーブルを叩きつけ、グラスが床に落ちて割れた音だったのだろう。
最低最悪で迷惑極まりないと、怒りが込み上げてくる。客の立場だからといって、何をしてもいいはずがないというのに。
「ごめんなさいね、驚いたでしょう? あなたは裏で少し休んでいて」
アニエスに笑顔を向けて声をかけ、奥へ行ったのを確認すると、男性に向き直った。若い女性に怒鳴ってセクハラまがいのことをするなんて、絶対に許せない。
「出て行ってください。あなたはうちの店のお客様じゃありません」
「何だと? 生意気な口を利きやがって!」
「出ていかないのなら、自警団を呼びます」
「ふざけるな! 俺が何をしたって言うんだよ!」
私が一歩も引かないことに対して男性はさらに苛立ったらしく、もう一度テーブルを思い切り叩きつけた。
この様子では自ら出て行きそうになく、周りのお客さんにも迷惑がかかるだろうと、私は離れた場所にいるローナに「裏口から自警団を呼んできて」と伝える。
彼らが到着するまで、周りのお客さんや従業員に迷惑がかからないよう、見張っておかなければと思い、振り返った私は息を呑んだ。
「──え」