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2.

「おかえり」


 音を立てないようにバルコニーから部屋に入った俺に向けられたのは、柔らかな笑顔だった。

 バルコニーから部屋を抜け出す方法も、セキュリティの厳しい屋敷を夜中に出入りする方法も、この人が俺に仕込んだのだから、帰って来て待ち受けられていても慌てる事はない。


「ただいま」


 いつものようにそのまま素通りして部屋に付いているバスルームに入る。

 おっさんの店に寄ったおかげで時間は経っているが、まだ体にあの女の香りが纏わり付いている気がする。

 この匂いのまま自分のベッドに入るのだけは嫌だ。


「夜更かしだね、和兄」


 髪をタオルで乱暴に拭きながら、冷蔵庫から出したミネラルウォーターをボトルのまま飲む。兄の和人はソファに座って長い足をゆったりと組んでいた。


「大学生にとっては普通の活動時間なんだ、まだ」

「…確かに」


 俺が向かいのソファに座ると、和人はテーブルからカップを取って口を付けた。

 カップに紅茶がたっぷり入っているところを見ると、おっさんから店を出た連絡でも入っていて見計らって部屋に来たのだろう。いつもの事だ。遊ばせてくれてはいるが、過保護なのは事実だから。


「最近、おっさんの店行ってる?」

「時々ね。敏郎さん、遥人の事が可愛くてしょうがないらしい。俺を見ると、昔は可愛かったってグチるからね」

「どんだけ昔の話だよ」


 和人と俺は八歳年が離れている。二十二歳の和人は高等部に入る前には既に今と同じような見かけだった。

 一番上で父親似の将人は二十歳を過ぎるとごつく男臭さが増したが、和人は昔から母親に似ていたせいか柔和な感じがしていた。それは今も変わらず、多少男っぽくなったという感じだろうか。

 和人よりも母親の血を濃く受けたらしい俺の見かけはハーフなのか外人なのか微妙な感じだし、既に大人に見えるらしい。和人の成長の仕方を考えても、きっと俺も今くらいの成長で暫くこのまま変わらないだろう。


「今日、将人は?」

「出張らしいよ。帰れないから遥人を頼むって煩いったらない」


 たかだか一泊で、と和人は苦笑まじりだ。

 いつも俺が帰って来ると将人か和人、それか二人ともが必ず顔を出してくれる。

 煩わしいと感じるのなら俺も反抗期なんだろうかとも思えるが、今の所それはない。

 二人が俺の事を大切に思ってくれているのはよく知っているし、俺も二人がとても好きだ。

 何より、このでかい籠から出してくれたのは、二人だったんだから。


「出張かあ。朝何も云ってなかったんだから、また急に決まったのかな。若い専務は大変だ」


 将人は二十四歳。子どもの頃から『御堂』のトップである父親の片腕になる為に努力を続けてきた。

 父親は後を継がせる気でいるみたいだけれど、『御堂』という会社を長く繁栄させてきた先代もそのまた先代も、単なる世襲で社長になった訳ではないらしい。

 頭がキレる奴が親戚に多いのは事実。将人は勿論、和人も俺だって例外じゃない。ただ、それだけでは認められない。

 将人も英才教育みたいに帝王学を叩き込まれたくせに、大学にいるうちに会社に入った時はただの営業でボロ雑巾みたいになって走り回っていた。

 大学を卒業するまでに周りを納得させろという父親の無茶な条件をクリアした将人は、本当にさすがだと思う。


「明日には帰って来るよ。あんなに莫迦みたいに働いて、いつか倒れなきゃいいけどね」

「本人に云ってやれば」

「充実してるって云うものはしょうがない。せめて遥人が癒してやんな」

「…男を癒すって云ってもねえ」

「いいんだよ。遥人が笑ってやれば、将人の奴上機嫌で気力体力が復活するんだから」


 にっこり笑われて肩を竦める。怖ろしい事にそれは事実だ。…ブラコンにも程があるけどな。


「俺、もう寝る」

「――明日、親父も帰って来る」


 体を伸ばそうと上げかけた手が止まる。


「…久し振りだね」

「明日は家にいろよ」

「分かってる。…ありがとう」


 俺が屋敷を抜け出している事は、兄弟だけの秘密。

 兄貴達が万策を敷いてくれている。それを俺が壊す訳がない。

 頷くと、和人は柔らかく笑った。


「おやすみ、いい夢を」


 頬に口付けて抱きしめるのは、母さんが生きている頃からの習慣。

 さすがに日本では普通しないともう知っているが、俺達には当たり前の挨拶だった。

 おやすみ、と返すとポンと温かい手が頭に乗せられた。

 その感触を残して、和人は自分の部屋へと戻って行った。 

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