1.
気持ちのいい、青空が広がっていた。
屋敷の庭に面したウッドテラスでの休日。
夫は妻の肩を抱き、微笑む妻の腕の中には赤ん坊が眠っている。
二人の子どもは芝生の上を、仔犬のようにじゃれ合いながら明るい笑い声を上げる。
温かい―――温かい。
それは、幸せの象徴。
「ん…」
耳元で声が聞こえて、何かが動く気配で目が覚めた。
うとうとしていたらしい。
「…ハルぅ?」
起き上がると気配の元、隣で寝ていた女がもぞもぞと俺がいた辺りを弄っている。
無視して床に散らばっていた服を着ていると、女は上半身を起こして髪をかき上げる。
大きな胸を隠す気もないらしい。まあ、十分に味わったものだから、今更構わないけれど。
「どしたのぉ?」
「帰るよ」
ボタンを留めながら微笑みかけると頬を赤らめたが、俺の言葉がやっと脳味噌に届いたらしい。不満気に口を尖らせて、上目遣いにこっちを見ている。
…狙っている表情なんだろうけど、申し訳ないが何とも思わない。
「ごめんね。ホテル代ご馳走様」
軽くキスすると、そのままシャツを引かれて口を貪られる。…まあ、いいけど。
「また会える?」
「どうかな? キミの方が忘れちゃうんじゃない?」
「忘れないよぉ、すっごく良かったもん。もう他の男じゃ物足りないかも」
…それは、お姉さんの周りの男が気の毒でしょ。
そう云いたくなるが苦笑で止める。云わぬが華と云うものだろう。
「じゃあね」
にっこり笑って背を向ける。
ホテル代くらい払ってもいいけれど、誘われた時の条件みたいだったから遠慮はしない。その分の働きは十分過ぎる程したつもりだし。
時計を見ると日付けが変わるところだった。まだ帰らなくても大丈夫だろう。
俺は鼻歌まじりに人通りの多い道を、いつもの店へと向かった。
「よう、色男」
にやりと笑顔を向けられて顔を顰めた俺を、おっさんは嬉しそうに見る。
ここに来る前にナンパされたから知られていないと思っていたのに相変わらず耳が早い。隠す気もないけれど、からかわれるのは面白くない。
雑居ビルの七階にある『bear's bar』は十席のカウンターと三つのボックス席がある。
おっさんはここのマスターで、でかい図体と顎ひげの濃さが熊みたいな男だ。店の名前もこの風体から取ったんだろうが、おっさんの店かと聞いたら「預かっているだけだ」と云っていた。
時々カウンターには違う男が立つ事もあるらしい。電話で誰かに指示らしい事もしているし、俺は雰囲気的に手下がいるんだなあと勝手に思っている。
俺がトラブった時とかもフォローしてくれるし、かなり顔が利くらしい。…知り合って二年経つが、全く得体が知れない。俺が知っている事と言えば『敏郎』と云う名前くらいだ。呼んだ事ないけど。
「相変わらず暇そうじゃん」
店内にはまだ誰もいない。
まあ、平日はこの位の時間から常連がちらほら集ってくる事も珍しくないんだけど。
「お蔭様で」
目の前にマグカップが置かれる。頼まないで出て来るのは、ブラックコーヒーだ。
「喫茶店じゃないんだから、コーヒーってさあ」
「ん? 眠れなくなるか? ホットミルクも出来るが」
おっさんは髭に隠れた口をにやりと歪ませて、俺の髪をかき混ぜた。
このぶっとい腕で頭をガシガシとやられると首がガクガクする。
「やめろって。いいよ、コーヒーで」
腕を振り払ってコーヒーをすする。おっさんのコーヒーはちゃんと手落とししてるから、インスタント嫌いの俺としては有難かったりする。
「まったく。あんまり羽目を外すと兄貴が泣くぞ」
ちっと舌打ちして見せてもおっさんの目は笑ったままだ。
この得体の知れないおっさんに俺を会わせたのはその兄貴だ。云っているのはもう一人の兄貴も込みなのだろうが。
「この程度じゃ泣かないだろ、あの人達は」
約束は守ってる。
そう云うと、おっさんは呆れたように肩を竦めた。
「で? 今日は後腐れなく帰れたのか?」
…嫌な事を思い出させるな。
以前、何度かストーカーみたくなった女とか、彼女気取りになった女とか、やってもいないのに男が脅しをかけてきたとか、そういう面倒もあった。
さすがに俺も学習したので、相手は選ぶようになった。…最初の頃は喰ってたってよりは喰われてたって感じだったしなあ。それでも自分から声をかけない分、人を見る目は育ててきたつもりだ。
そういうのも全部知られているので、おっさんは時々確認してくる。フォローしてくれてるんだから、からかわれているのではないんだろうけど。
「大丈夫だよ。…まあ、二度目はないだろうけど」
「何で」
「今日のお姉さん、ケーサツ。しかも少年課」
「おまっ」
…コーヒー噴き出してやんの。
「最初に年は自己申告したんだけどね」
「笑いとばされただろ」
「いつもの事だよ」
年齢を云ったところで誰も信じない。
本当の事だと分かったらあの女は卒倒するだろう。自分がまさか十四歳とホテルでやりまくったなんて。しかも自分から誘ったなんてな。
「お前ら兄弟は、揃って老け顔だからな」
「老け顔って云うなよ」
「兄弟揃って、顔と体の成長が早い?」
…何で疑問形なんだ。可愛くないぞ。
「兄貴達は、中身が育つのも早かったんだろ?」
「だからって、お前まで早く大人にならなくてもいいんだけどな」
「ガキの頃から可愛げがないのは血筋らしいからさ。…それに、俺は大人じゃない」
少し声が低くなってしまった事に後悔すると、案の定おっさんの瞳が少し暗くなる。ああ、もう。
「酒と女に関してくらい? 病気と孕ませる事だけには気を付けろって云う兄貴も兄貴だと思うけど?」
「全くだ」
わざとおどけた俺にくつくつと笑うおっさんの目は優しい。
「まあ、お前のナリじゃ放っとかれる訳がないからな。性質の悪いのだけには気を付けろ」
「喧嘩と逃げ足の速さには自信がついたよ、お蔭様で」
「いいトコの令息にゃ、自慢にならんな」
「放っといて」
十二歳の時に街に連れ出してくれたのは、二番目の兄貴だった。
殆ど軟禁状態で屋敷に閉じ込められていた俺には新鮮な事だらけだったが、何より驚いたのは誰も俺を子どもだと思わない事。
二分の一外国の血が入っているせいなのか単なる血筋か。兄貴達も子どもらしくなくなるのは早かったらしい。
それまで制服を着ていれば、高校生に間違われるのが精々だったんだ。面白くて調子に乗っていたら、そりゃあヤバい経験もした。
相当性質の悪い奴らはこのおっさんが陰で何やらやってくれていたらしいが、大体は自分で何とかした。おかげでかなり処世術も学べたと思う。
今では殆どトラブる事もなくなったし、ゴタついた連中の中には一緒に飲むくらいになった奴らも少なくない。
まあ、二年あれば何とかなるもんだ。
けれど、おっさんが性質の悪い連中を相手にどう立ち回ったのかは聞いていない。聞いたが「ツテがあってな」の一点張りだ。
まあ、今はそれでもいいのかもしれない。
兄貴達の事もよく知っているらしいおっさんは、俺の事を単純に子ども扱いしてくれるから。
カシュッと音がしておっさんが美味そうに煙草を燻らせる。
太い指のせいで煙草がチビて見えるのが可笑しい。
「何だ?」
俺にかけないように煙を吐き出す。別に構わないんだけどな。
「美味そうに吸うよね」
「…お前は吸わないんだったな」
「ん。興味ない」
勧められた事もあるけれど、一口貰ってから手は付けていない。敢えて美味いとは思えないし。
「ウチはさあ、スキンシップが過剰だから。ハグされた時に悲しませたくないじゃん」
家族にとって俺は未だに愛すべき子どもなのだ。
ウチは何故だか「子どもは天使」だと云う言葉を平気で使う家なんだ。事実、チビの頃の俺はそりゃあ愛らしい天使のような見かけだったらしい。
写真を見せられたら反論は出来ない。絵に描いたような天使っぷりに唖然とする程の可愛らしさだ。末っ子のせいかそれは今でも継続されているらしい、家族の目には。
さすがにヤニ臭い天使はいらないだろう。
身長百七十五センチの天使ってのもキモいけど。
「お前のそういう素直なところ、すげえ可愛いよな」
「恥ずかしい事云うな」
妙に嬉しそうなおっさんを一睨みしてマグカップを置く。
「帰るわ」
「早く寝ろよ。明日も学校なんだろ」
もう十分遅いっての。完全に夜時間の人には早いんだろうけど。
「多少の寝不足なんて、優等生の俺には関係ないし」
「眠いだろ、昼間」
「眠い時は寝る。中坊の勉強なんて教えてもらわなくても一度教科書を読めば分かる」
「可愛くねえ」
「自覚してるよ」
ひらひらと手を振って店を出る。
道は、まだまだ夜はこれからだという連中で溢れかえっていた。




