12.
カウンターでぼんやりとグラスの水割りを舐める。
客はちらほらと入っていて、おっさんは別の客と喋っているので考え事には丁度いい。
…やっぱり、葵が気になる。と云うか、先刻の使いの男の目が。
気に入らないだけだと云ってしまえばそれまでなんだけど。
やはり透さんに電話してみよう。
尻ポケットから携帯を取り出して透さんの番号を呼び出す。
と、同時に表示が変わった。表れたのは『篠原透』の文字。タイミングのいい事だ。
「透さん?」
ワンコールも待たせずに出た事に驚いているらしい透さんは、いつもと何も変わらない受け答えだ。
『葵いる? もう少しかかりそうなんだけど、いつも付き合わせちゃって悪いね』
…一瞬で、血の気が下がった。
透さんはまだ何か喋っていたけれど、俺の耳には届いてこない。
携帯を閉じて、おっさんを見る。
「おっさん、葵を探してくれ」
訝しげにこちらを見るおっさんに背を向けて店を飛び出し階段を駆け下りる。
七階だがエレベーターなんて待っていられない。一階分を三歩で飛び降りてビルの外へ転がり出た。
あのイタメシ屋はそう遠くない。歩けば十分…葵の足なら十五分かからないくらいか。
焦りながら街のビル配置を頭に思い浮かべつつ、裏道やビルの隙間を通って邪魔なフェンスを飛び越える。
今までも喧嘩なんかで裏道を使ったおかげで、分かりにくいビル同士の隙間なんかは大体把握している。
五分足らずで店に着くと息を静めながらドアを開ける。
家庭的な雰囲気の店の中には、当然葵や透さんの姿も、ましてやヤンチャじみた野郎の姿もない。
朗らかにいらっしゃいませと云われ、葵の風貌を話すがこのドアを開いていない事だけが分かった。
車通りの少ない道の向こうの神社が目に付いた。
街外れの神社。塀越しには木しか見えないが、林のようになっていると聞いた。祭りや正月などの行事以外は夜は無人の筈だ。
…手早く連れ込むなら、あそこか?
迷う。いや、迷っている時間はない。
おっさんなら事情は話していなくても、あの一言で察してくれただろう。そして探してくれるとしたら、街中のどこかの店に連れ込まれていないかだけはすぐに分かる筈だ。連れ込まれていたら、俺が探すより見付けるのも早いだろう。…なら、俺はこっちだ。
鳥居に向かおうとして躊躇する。人通りは少ないとは云え、表通りに近い所で何かするとも思えない。
神社の敷地を越えれば、向こう側は住宅や会社しかない。
駆け足で裏手に回って塀をよじ登る。顔だけ出すが、見える場所には誰もいない。
音を立てないように飛び降りて、気配を探る。街とは反対側に向かって足を進める。
あまりにも静かで、心臓の音がやけに煩い。
焦るな。焦らずに、急げ。
頭の中と視線だけが忙しなく動く。
間に合うか。間に合ってくれ。
待ってろ。必ず、助ける。
裡から這い上げるような叫びに歯を喰いしばった時、道から外れた奥で何かがガサリと音を立てた。
息を潜めて窺うと…いた。
葵が木を背中に座り込んでいる。囲んでいるのは、三人。
しゃがみ込んで葵に手を伸ばしている男と、後ろに立って見下ろしている二人の男。
追って来るとは思っていないのか、背後がガラ開きだ。
手を伸ばした男の手が葵に届いた瞬間、俺の頭のどこかでブチリと音がした。
迷わず飛び出して、勢い任せにしゃがんでいる男を蹴りつける。
気配に気付いたときには地面に転がっていただろう。
そのまま立っていた男二人を殴り飛ばして葵を振り返る。
服に大きな乱れはない。それだけを目で確認しながら腕を引っ張り上げる。
「走るよ」
不意打ちは一度しか効かない。
今の内に、せめて葵だけでも人目のある場所まで逃がしたい。
葵は真っ白い顔をしていたが、俺に引き摺られるように走り出した。
背後から怒号が聞こえる。
思ったよりも回復が早い上に、声からして仲間がいたらしい。少なくとも三人の声じゃない。
三人なら撒く事が出来るかもとは思ったが、甘かったか。
神社を出て通りを横切った辺りで、葵が苦しそうに喘ぐ。
全力疾走なんてそう保たない。足止めをして、その隙に逃がした方が早いか?
「きゃああっ」
葵の体が後ろに揺らいだ。
長い髪を鷲掴みにしているのは、先刻の伝言男だった。
その腕に肘を叩き込み、葵の体を巻き取るように男から遠ざける。
男は腕を抱え込んで跪いた。筋か骨、暫く使い物にはならないだろうが折れてはいない。後ろ足で顔を蹴り飛ばして沈める。
「ハルっ」
葵の声に反応する前に、右足に衝撃が走って体が浮いた。
足を払われた。いや、スライディングで蹴り飛ばされたらしい。
俺は自分だけでは転がらず、葵を抱きこみながらビルの壁へと倒れ込む。ゴミ捨て場になっているポリバケツがガタガタと音を立てた。
「葵、まだ走れる?」
声にせずに聞く。しっかりと抱いたままなので、口は耳元にある。
「う…うん…っ」
震えるような返事の終わりで息を詰まらせ、葵は身を縮ませた。
俺の横腹が衝撃に悲鳴を上げそうになるが、まだ耐えられる。容赦のない蹴りだが骨はいってない。
「後ろのビルの間、ポリバケツの向こう側に走って。そしたら人通りあるから…っ」
ドゴッという音と痛みに歯を喰いしばる。
軽く袋にしているつもりなんだろう。反撃すら俺はしていない。まだ、出来ない。
泣きそうに顔を歪ませている葵に、俺の携帯を握らせる。
「出たすぐ右の店。…都己達がいるから知らせて。分かんなかったら、おっさんに電話して隠れてて。必ず向かえに来てくれるから」
頭を蹴られて一瞬目の前が白くなる。くっそ、脳が揺れるだろうが。
まだだ。もう少し待ってろ。
葵に向かって笑って見せる。大丈夫、必ず逃がすから。
「絶対、後は追わせないから。行けるね?」
「ハルっ」
葵は首を振る。
俺達を囲む連中の輪は狭まってきている。野次る声も殺気立って来た。遊んでくれている内がチャンスなんだ。
「正直、俺一人なら逃げる自信あるんだ。だから、先に行って。少し足止めしたら、俺も逃げるから」
「…ハル」
「行って!」
突き飛ばすように葵をビル側に押しやる。
すぐ後ろにポリバケツ。ここへ座り込んだのは計算尽くだ。
ポリバケツを掻き分けて行く葵に駆け寄ろうとした男の横顔に右の拳を叩き込む。ああ、ストーカー男じゃん。
「一方的にやられてるだけだと思わないでくれる?」
振り返ってげっそりとしてしまった。六…七人いるじゃないか。
周囲に人はいない。近くの店が気付けば通報も期待出来るが、それは運任せだろう。
手近な男の鼻面に肘を喰らわせる。これで一人潰れた。
だが、残った連中を煽った事に間違いはないだろう。
飛び掛ってきた男の腕を避けながらそれを掴むと、力任せに足を跳ね上げる。転がった背中に膝を落とすが致命傷には程遠い。だが、もう次の手が伸びて来ている。
何度か顔や腹、背中に喰らった。息は上がってきているが、人数の割りにはダメージは少ない。勢いを流すように受けているので、まだ動ける。
だが、さすがに鉄の棒とナイフが目に入った瞬間、ヤバいと確信する。俺の手が届く範囲に得物はない。
ちらりと葵が行った方向に視線が向く。
都己達はいなかったか。って事は、おっさんが来るまでどこまで待てるか。
ゴクリと唾を飲むと鉄臭い血の味がする。武器を奪えそうな奴に目星を付けて、体の動きを頭で浮かべながら間合いを計る。
痺れを切らしたように動いたのは、向こうだった。
棒を掴んで持っていた奴の急所を蹴り飛ばす。棒を握り直して構える間もなく数回の衝撃は跳ね返した。
肩を抉るように切り付けられたおかげで左腕は既に上がらない。利き腕が残っている事に感謝する気にはなれない。左ばかり狙ってくるのが忌々しく、気を取られれば空いた側を切りつけられる。
嬲られる趣味はないので、切られるのを覚悟で反撃を繰り出す。
頭に振りかぶってきたバカを防いだところで、後ろから体当たりの衝撃を受けた。
肘でそいつの頭を払おうとして、違和感を感じた。
体中、痛みだらけで何処が何の痛みなのかは分からない。
一発喰らって膝をついたが、立ち上がろうとしてかけた力が空回りするのを感じる。
…ヤバい、深かったか?
顔を顰めて振り返ると、目も口大きく開けたまま顔を強張らせてる男の両手に握られたごついナイフが血まみれなのが見えた。
この野郎、抜きやがった。
止血を許してくれる程親切な連中じゃないのは分かってる。
力が抜けていく反面、ボコられている衝撃も遠ざかっていく。
ああ、本当にマズいな。これは。
霞む視界の中、頭に浮かんだのは。
…ごめん。
それが誰だったのか、誰に対しての言葉なのか考えられないまま、俺は意識を閉じた―――。




