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第八章【恋心】

「有来は水族館が好きだよね」


 その言葉に、私は右隣に立つ慧を見上げる。


「慧は、あんまり好きじゃない?」


「いや、好きだよ。でも、有来は本当に水族館が好きだなー、って思って」


 慧の言う通り、私は水族館が大好きだ。それは、大好きという言葉では表し尽くせ無い程に。透明なガラスの向こうに、こちら側とは違う水の世界が広がっている。絶えず魚たちは泳ぎ、時折、私と目が合ったように感じたりもする。ゆらゆらと動く珊瑚、底に敷き詰められた小さな石、広く高い水槽、湛えられた水。目の前に広がる全てが神秘的で、幻想的で、切ない程に輝いていた。


「綺麗だね…………」


 私は思わず、そう口にしていた。


 綺麗。そこに凝縮された心は複雑で、本当なら綺麗の一言では表せないものだ。けれど、自然と零れ落ちたその言葉が、全てを語ってくれるようにも感じた。姫君は今、この景色を見ていてくれているだろうか。綺麗だと思っているだろうか。


 私は視点を固定し、その視界に飛び込んで来てはフレームアウトして行く魚達を見つめた。どれほど近くに感じても、その距離は遠い。たった一枚のガラスを隔て、私の手が魚達に届くことは絶対に無い。彼らが泳ぐ水温に触れることも無い。ただ、見つめるだけ。綺麗だと、切なさを抱えるだけ。私が一方的に想うだけ。それはまるで、私と姫君の今の関係性のようだった。


 私が姫君を想っても、姫君からは何も返事が無い。彼女が私の心だけに棲んでいたという事実を認めたとしても、その距離は近いようで、今はとても遠い。どれ程に思い出を浮かべ、見つめてみても、時が経てば経つ程にそれらは掠れて行く。視界に映り込んだ色鮮やかな魚も、刻々と時が経つ程に、僅かずつ印象も映像も薄れて行く。


 突然、静かな寂しさが私の全身を包んだ。はっきりとした理由は分からない。ただ、どんな思い出も感情も記憶も、時間が経てば、それだけ正確性は失われて行く。それを体全体で感じ取ってしまったのかもしれなかった。目の前に広がり、私を包むようなこの水景色が、殊更にその気持ちを増幅させたようにも感じた。


「……どうした?」


 私は、顔に出ていたのかもしれない。頭上から、慧の気遣うような声が降った。


「……綺麗だな、と思って」


 私は、視線を依然、固定したまま、そう答えた。おそらく慧は、何かを感じ取っていただろう。


 けれども慧は、


「そうだね」


 と、一言、短く告げたきりで、それ以上は聞いて来なかった。


 そして私達は、しばらく無言のまま、泳ぎ回る魚達を見ていた。不意に、ずっとガラスに触れていたままだった私の両手のうち、右手に温かさを感じた。振り向くと、そこには慧の左手が重ねられ、やがて私の手は慧のそれと共にガラスから離れた。慧が私の隣にいる。こんなにも近くに立っている。繋がれた片手から伝わる体温を感じながら、私は再び魚達に目を戻した。


「ありがとう」


 私が小さく告げると、


「どういたしまして」


 と、慧の言葉が返って来た。


 私は、切なくも温かな気持ちでそこにいた。左手に光るメレダイヤが、その象徴のようだった。


 私は、ゆったりとした時間が好きだ。木々の多い、あの公園を歩いて行く時間。他愛のない話をしながら、友達とお茶を飲む時間。ゆらゆらと溶けて行くような錯覚を覚える、水族館で過ごす時間。そして、こうして慧と過ごす時間。最近、私は、慧と同じ時間を過ごしている時が一番、落ち着くようになっていた。勿論、緊張したりドキドキしたりはする。それでも慧の近くにいる時が、一番、心が落ち着いている。矛盾しているかのようだけれど、慧と同じ空間にいる時、私にはそれが自分に無理の無い、自然な形のように思える。そしてそれが、ひどく幸せなことだと、私は知っている。


 水族館からの帰り道、慧は、


「良かったら、家でお茶飲んでいかない?」


 と、私をお茶に誘ってくれた。


 慧の家で過ごす時間はとても温かく、どこか懐かしさすら覚える。私は、慧と一緒にいられる時間が増えたことを心から嬉しく思い、二つ返事で頷いた。


「何、飲む? 紅茶、珈琲、牛乳、オレンジジュース、無糖炭酸水……」


 ダイニングで私に振り返りながら、慧は次々と飲み物を挙げた。その様子が少しおかしくて、私は紅茶をリクエストしながら笑ってしまった。


「あれ、何かおかしい?」


「ちょっと。どんどん言うから面白くなって」


 ダイニングには、鍋から生まれる、お湯の沸く、こぽこぽという音と、慧が紅茶の缶やティーポットを用意する音が静かに響いていた。


「紅茶、どれにする?」


「セイロン」


 私の答えに軽く返事をして、慧は手際良く準備を進めて行く。


「手伝おうか」


 立ち上がり掛けた私を慧は軽く手で制し、


「良いから座ってな」


 と、告げた。


 私は、慧が紅茶を淹れているところを見るのが好きだった。うまく言えないけれど、とても穏やかで幸せな気持ちになれる。だから私は再び椅子に座りながら、慧の手元を見つめることにした。やがて二人分のティーカップと、ティーコジーに包まれたティーポット、ミルクピッチャー、シュガーポットがテーブルに置かれた。


「有来はセイロンのミルクティーが好きだよね」


 慧は、私の向かいに座りながら言った。


「うん、好き。ミルクティーは全般的に好きだけどね。何だか落ち着くから」


 慧といる時のように落ち着くから、と思ったけれど、その言葉は私の胸の中に仕舞っておいた。


 私と慧は、少しの間、沈黙を保ちながら紅茶が抽出されるのを待った。


「あのさ」


 静かに沈黙を破ったのは慧だった。


 私が慧に目を合わせると、


「思い違いなら、それで良いんだけど。最近、元気が無いような気がする」


 と、慧は告げた。


「何か気になっていることでもあるのかと思ってさ。さっき、水族館でも少し心配になって」


 私は、慧の言葉を受けて少しの迷いが生まれた。気になっていること、それはある。でも、それは自分の中で解決すべきことであると思っていた。だから私は誰にも言う気は無く、ひっそりと日々、考え続けていた。


「言いたくなければ、それで良い。でも、有来が話したいなら俺は聞きたい」


 慧は、ティーコジーを外して、柔らかな手付きでティーポットで軽く円を描いた。ガラスのポットの中、茶葉がゆらゆらと揺れているのが見えた。まるで私の心のように、それらはゆらゆらと揺れていた。慧は、ティーカップに入っていたお湯をシンクに流し、ゆっくりとティーカップに紅茶を注いで行った。途端、ふわりと紅茶の香りが広がる。温かく、柔らかなセイロンの香りが、私と慧の周りを包み込むかのように立ち昇った。


「思い過ごしかもしれないけど。でも、俺の勘ってあんまり外れないから」


 ティーカップを私に差し出しながら、慧はそう言って優しく笑った。


「こと、有来に関してはね」


 私の心を大きく揺るがすには、充分過ぎる一言だった。


 温かなセイロンのストレートティーに角砂糖を二つ入れて溶かし、私はゆっくりとミルクを注いだ。すると透明な紅茶の水色は、たちまちミルクと混ざり合って行く。私はその様子を眺めながら、慧に話すべきかどうかを考えていた。最近、気に掛かっていること。それは勿論、小さな姫君のことだった。しかし私の中で何かしらの答えを出さなくてはいけないと決めた以上、そこまでは私一人で辿り着かなければならないような気がしていた。また、それ以上に、慧に姫君の話をすることに、私は遠慮というか、引け目というか、素直になれない自分を感じていた。それは、罪悪感に少し似ていた。


 私は、こうして慧と一緒にいられることを本当に嬉しく思っているし、もう自分からその手を離すことは無いと思っている。それが今、現実のものとなっているのは、慧が私のことを諦めないでいてくれたからだ。慧が姫君の存在に気付き、そして私が慧よりも姫君を選んで慧を拒絶してしまってからも、慧は私を諦めないでいてくれた。本当の気持ちを私から引き出そうと、ずっと私の側に立って支えてくれていた。私は、自分の残酷で利己的な面に気付かされたようにも思えて、慧と姫君の間で相当に揺れてしまった。そして結局、私は慧を求めてしまった。でも、もう後悔は無かった。慧から離れたくは無いし、慧を失うことを自分からしたくなかった。ただ、慧を失いたくは無いけれど、姫君を失いたくも無い。


 それは我儘なのだろうか? だから姫君はいなくなってしまった?


「有来?」


 呼び掛けに顔を上げると、慧と目が合った。私は、慧と目が合う瞬間が好きで、そして、苦手だ。私の思っていることが、全て見透かされてしまうような気がするからだ。


「無理に、とは言わないけど。でも、話してみない?」


 誘うような歌うような問い掛けに、私は再び心が揺らぐのを感じた。心を落ち着ける為に、私はセイロンのミルクティーをひと口、飲んだ。温かな紅茶が私の喉を通り過ぎ、お腹の辺りに辿り着く頃、私はようやく慧に言葉を紡ぐことが出来た。


「…………姫君には、もう二度と会えないのかな」


 それは思ったよりも小さく、そして自分でも驚く程に、頼り無い声だった。


「有来」


 慧が、僅かに驚きを含んだ声音で私の名前を呼んだ。私は、うっすらと視界がぼやけたことを感じ、泣いてはいけないと必死にそれを堪えた。姫君のことで涙を流すことは、慧の前ではしてはいけないと思っていた。慧は私を想い続け、ずっと私を助けてくれていた。私は一度、それを強く拒み、それでも最終的には慧と手を繋いだ。慧はそれを許し、私を責めることはしなかった。それだけで、もう私は充分すぎる程に幸せだった。恵まれていると思った。そこに辿り着かせてくれた慧、沙矢、そして姫君に心から感謝をした。これ以上、私は何を求めるというのだろう。これ以上、私は慧に、何を言おうというのだろう。私の子供じみた、駄々っ子のような願いごとを、慧に告げてどうしようというのだろう。


 慧の前で、姫君のことで、泣きたくない。それは私なりの慧に対する誠意だった。私は慧の手を取ったことを後悔などしていない。それなのに私が姫君を想って慧の前で涙を見せることは、卑怯な気がした。慧に申し訳無いと思った。


「有来」


 もう一度、慧が私の名前を呼ぶ。慧の声が、頭の中心に直接、響いたような錯覚に陥った。心の中心かもしれない。そして私の全身が、慧に傾きたいと叫んでいた。慧に、この苦しい気持ちを預けてしまいたいと泣いていた。私は懸命に涙を堪え、慧から目を逸らした。


 がたん、という音が私の耳に届く。


「もしかして、ずっと我慢してた?」


 先程よりも近くで聞こえる慧の声は、慧が私の隣にいることを示していた。肩と背中に感じる温かな体温は、慧の手のひらに違い無かった。


「有来」


 また、慧が私の名を呼んだ。私は俯き、振り向けなかった。振り向いたら、そのまま何もかもを吐き出すように、子供のように、泣いてしまう予感があったから。


 私は、小さな姫君をイマジナリーフレンドだと認めてはいなかった。姫君がそうだと受け入れることは、まるで、姫君は私が作り出した儚く淡い夢のような、幻想のようなものだと認めるようで、きっと無意識下で心が拒絶を示していた。けれど、それに気付いたところで、私はどうしたら良いのだろう。私に出来ることなど、もう何一つ残されてはいないのではないだろうか。


 ただ、姫君を忘れないでいることだけ。彼女は確かに存在し、私を助け、導いてくれたことを忘れずにいることだけ。思い出を繰り返し繰り返し思い出しては、それを日記に綴って書き留めておくだけ。私に出来ることは、きっともう、それだけ。そんな小さな抵抗だけ。


 私は、慧を選択してしまった。けれど、それは決して姫君を切り捨てるような意味では無かったと、今、私は誰に伝えれば良いのだろうか。姫君が何であろうと、どんな存在だろうと、私はもう一度、彼女に会いたい。話がしたい。謝りたい。伝えたい。それを今、私は誰に告げれば良いのだろう。この気持ちを、どうすれば良いのだろう。どこへ導けば良いのだろうか?


「有来」


 呼ばれると共に、私の右頬に温かな体温を感じた。私の顔はそのまま慧に引き寄せられ、半ば無理矢理に、私は慧と視線がぶつかることとなった。


「別に悪いことじゃないよ」


 慧は、静かな声で言った。


「会いたいと思うことは、悪いことじゃない」


 静かに、けれどはっきりと言い切る慧に、私は救われるような気持ちを味わった。


「でも、そうやって有来が一人で悩んで、考えて、泣くことを、俺は望まない」


 一つ一つの言葉を間違い無く私に届けようとでもするような、そんな風に慧は私に話した。穏やかで芯のある慧の声は、静かなダイニングに確実に響いては私の耳に届き、心に吸い込まれて行った。


「これからは色々話してって言ったのに。気付かなかった俺も悪いけど」


 その言葉の後半を否定しようと、私が慌てて口を開き掛けた時、


「いつ頃から?」


 と、慧は私に尋ねた。


「……高校に、入学した時くらいから」


 ぽつ、と私は告げた。未だ話して良いものかどうか迷う心を抱えたまま、それだけが零れ落ちるように私の口から紡がれてしまった。


「じゃあ四ヶ月近く、ずっと考えては泣いていたの?」


 窺うような気遣うような慧の声に、私は答えることが出来無かった。表面上は、ただの意地だったのか、強がりだったのか。勿論、心を締め付けるものは慧への気遣いであり、罪悪感に似た何かであることは間違い無かった。慧を否定し、拒み続けた日々は、忘れずに私に刻まれている。この上、姫君について慧に話すことは、無神経というか配慮不足というか……うまく言えないけれど、慧を頼ってはいけないと思った。


 そして、それ以上に、これは私が一人で越えなくてはならないものだと感じていた。姫君が何者であろうと、どんな存在であろうと、彼女が私を助けてくれたことは事実であり、真実だった。そこから生まれた、未だ私をこんなにも大きく包むこの気持ちを、どこへ導くかは私が一人で決めなくてはならないことだ。それは、小さな姫君への精一杯の誠意であり感謝であり、そして同時に慧への誠意で、私のプライドでもあった。だから私は、勇気を出して心から慧に伝えることにした。私は、大丈夫だと。


「一つだけ、約束して」


 慧は、芯のある声で私に言った。


「限界まで考え続けるのは無し。そうなるより前に、必ず話をして欲しい」


「うん、分かった」


 私が即答すると、慧は少し訝しげな表情になった。


「……あまりに聞き分けが良すぎても不安だな」


 慧は軽く溜め息をついた後、私の頭に手を置き、頬に添えられていた手は肩へと滑って行った。そこから伝わる体温は温かく、いつものように私を安心させてくれるものだった。


「大丈夫、無理しないから」


 私の言葉が確かに慧に届いたのか、慧の表情は和らいだものになった。私は、慧の優しさに甘えている。その声と、体温と、心に、寄り添うように立っている。


 それが悪いことだとは思わない。私達は長い空白を埋め尽くすように、互い共に傍にいることを望んでいたし、互い共にそれが苦痛だと思っていなかった。ただ、小さな姫君のことは、私一人で考えてみたかった。そこには一言では表し切れない、複雑で説明し難い感情と思考があり、それが私の奥底にそっと息づいていた。でも、私が本当に困ってしまった時、きっと慧は私を助けてくれるだろう。それは思い上がりでも自惚れでも無い、信頼というものだった。だから私は大丈夫だ。だから嘘偽り無く、私は慧に伝えることが出来る。


「大丈夫。慧がいてくれるし」


 すると慧は安心したように表情を崩し、


「そうだな」


 と、自信と不敵さを以て付け加えた。


 私は、その言い方に少し笑いながらも、安堵を確かに感じていた。


 ダイニングには、心が安らぐセイロンのミルクティーの香りが漂い、少しの隙間も残さないように私達を包んでくれているようだった。


 家まで送ると言ってくれた慧の申し出を断り、すっかり夏色に染まった公園を、私は一人でゆっくりと通った。春は過ぎ去り、私の好きな公園の桜はとうに散ってしまっている。公園の半ばで、私は蒸し暑い夏の夕方を体全体に受け止めつつ、辺りの木々を見上げた。新緑の季節だった。昼間は輝かしい夏の日光を一心に浴び、強くその存在を主張する木々の葉も、夕方のこの時間では少しばかり頼り無く見える。夏は、私にとって否応無しに思い出が蘇る季節だった。


 小学校四年生の初夏に、私は小さな姫君と出会った。そして、小学校六年生の夏、姫君はいなくなってしまった。あれから、もう四年近くが過ぎようとしている。けれども未だに、私は姫君を忘れられないでいた。それどころか、記憶は鮮やかになって行く一方だった。姫君との会話が、思い出となって色鮮やかに私の胸に蘇る日々。やはり、日記を書いているせいだろうかと思う。毎日、姫君との思い出を思い出しながら書き記し、姫君に話し掛けるように綴っている。読み返せば、姫君との思い出、姫君への想いが、いとも容易く蘇る。


 …………もう、諦めなくてはいけないのだろうか。


 あれから四度目の夏をこうして迎えても、姫君は一度も私に話し掛けてくれることは無かった。それどころか、姫君はもう私の中にいないように思えた。小さな姫君が、私の中にいない。それは認めたくない事実だった。


 しかしながら、私は、心のどこかで分かっていた。やはり姫君はあの日を境にいなくなってしまい、もう私の中のどこにも存在しないことを。うまく説明は出来ないものの、それは本当は疑いようの無い、紛れも無い真実だった。感覚、とでもいうのだろうか。姫君がいなくなったあの日から、私は心に空虚感を感じていた。そして今日まで、それが埋められることは無かった。その事実が示す真実から、私はずっと目を背け続けていただけだ。背け続けていたかったのかもしれない。もしくは、一縷の希望に縋っていたかったのかもしれない。きっと、また会えると。


 オレンジ色の夕陽を受けて柔らかく光る木々から、私は、つま先へと視線を移した。ともすると涙を落とそうとする両目に、私は、きゅっと力を込めた。泣いても、何も変わらない。姫君がいなくなってから今まで、私は何度、泣いて来たのだろう。日記を書いている時、綺麗な桜を見上げた時、夏が訪れた時、部屋に一人きりの時、そして、夜、眠る時。幾度泣いても、姫君は帰って来なかった。幾度想いを馳せても同じだった。だから、泣いても何にもならないことを、私はもう、充分過ぎるくらいに知っていた。


 顔を上げ、私は一歩を踏み出した。視界に入った夕陽を、まるで琥珀のようだと思う。美しく大きな琥珀。姫君も、どこかでこの夕陽を見ているのだろうか。姫君の考えや想いは、もう私にすら分からない。それならば、他の誰にも分かるはずが無いのだ。私は少しの自嘲を唇に刻み、琥珀色の飽和する公園を、ゆっくりと通り抜けて行った。


 やがて自宅に着き、鍵を回せば、冷たい金属音を立てて玄関扉は開かれた。私は、この無機質な音がどうしても好きになれず、小学生の頃から未だに慣れないままだった。居間の照明ボタンを押せば、かたん、という音に続いて、二本の蛍光灯が白く光る。木製の小さなテーブルの上には、「遅くなります」とだけ走り書きされたメモが置かれていた。私は、無意識に溜め息を零した。


 以前より、私は物分かりが良くなったとは思う。誰だって自分の思う通りに行動してみたいのだ。自分の人生を好きなように歩いて行けたら、それに勝る幸福は無いと思う。それでも、無機質な扉の音や、真っ暗な室内には慣れることは無かった。


 私は、居間の明かりを消して自室への扉を開けた。生活の色を濃く残す空間より、自分の部屋の方がまだ気分が楽だった。


 部屋の明かりを点けないまま、私は静かに扉を閉めた。扉に寄り掛かり、ぼんやりとしていたら、自分の気持ちが薄暗く落ちて行くことを感じた。いつか、また会える。そう信じていた。今でも、その気持ちは、ちゃんと私の中にある。けれど、あれからもう四年が過ぎ行こうとしている。その間、姫君の声を聞くことは一度も無かった。そもそも、姫君がまだ私と共にいるという確証すら無いのだ。証拠も無い。逆に、あの別れの日以来、心に感じている空虚感がある。それが何よりの証拠ではないだろうか。小さな姫君は、もういないということの。


 ずるずると背中を引き摺るようにして、私は扉を背に座り込んだ。軽く膝を抱えると、私自身がひどく小さな存在に感じられた。私一人分の体温と体積。それが、どうしようもなく心細かった。


 ――その内に私は眠っていたらしく、ふと目覚めた時には室内は先程よりも暗く、夕方の光は消え失せていた。ぼやけた視界を見つめながら、今は何時だろうと、私は同様にぼんやりとした頭で考えた。その時、薄暗闇の室内で、ちか、と何かが光った。光は手元の携帯電話からのものだった。私は携帯電話を開き、届けられていたメールを読む。


 ――有来に渡そうと思っていたものがあるんだけど、忘れてた。ちょっと出て来られる?


 慧からのメールの受信時間は、三十分程前の夜七時だった。夏になり、日が伸びたせいで、この時間になってもそこそこ外は明るい。私は慧にすぐ返事を書いた。私の書いたメールは「送信中だよー」と言いながら、ドレスを着た小さな女の子がジャンプをして送信してくれた。私は未だに、このメールの送信画像を変えられないでいた。悲しくならないわけは無く、けれども悲しいだけでは無かった。姫君が近くにいてくれるような気がする、ただそれだけの、単純で切ない祈りのようなものだった。


 すぐにピアノの音が軽やかに鳴り、メールの着信を知らせた。


 ――公園で待ってるね。


 私は携帯電話を閉じて立ち上がった。扉を開けると、自室と同じく廊下も居間も薄暗闇のままだった。その暗闇から目を逸らすように、意識しないようにしながら私は素早く靴を履いて外へと続く重たい扉を開けた。


 足早に歩きながら私は軽く髪を手櫛で整え、少し目線を上に向けた。夏の空気は体に纏わり付くように重く、暖かく、水中を歩いているかのような錯覚を覚える。鳴き叫ぶ蝉の声、色鮮やかな緑、重く暖かな空気、そしてダークオレンジの空に、灰色に近い白に染まった厚みのありそうな雲が見えた。夏は、私にとって複雑な季節だが、この雰囲気は嫌いでは無かった。全てが力強く、生命を歌っている気がする。それに負けたくないと、私は思った。


 住宅街を抜けると、公園のベンチに座って軽く片手を挙げる慧が見えた。私も手を振り、それに応えた。その瞬間、ああ私は幸せだと思った。これ以上に私は何を望むというのだろう。私の願望は、ただの我が儘で贅沢に過ぎないのだろうか。姫君に会いたいという気持ちは、もう諦めなければならないのだろうか? 答えなど出ない問い掛けをしながら、私は慧の隣に座った。


「何か用事だったの?」


 私が尋ねると、


「そう、渡したいものがあってね」


 と、慧は言い、自身の右隣から小さな箱を取り出して見せた。


「何、それ?」


 私は僅かにドキドキして、知らず期待を込めて聞いた。


「開けて良いよ」


 慧の声は少し嬉しそうに弾んでいた。手のひらに綺麗に収まる水色の小さな箱には、鮮やかな赤いリボンが掛けられていた。手に触れるとしっとりとした感触を伝えるリボンは、上質なものだと分かった。


 私は(はや)る気持ちを抑えつつ、その赤いリボンを解いて行った。解いたリボンは、慧が預かってくれた。私はお礼を言い、再び小さな箱に目を移した。自分の鼓動を感じながら、私はそっと箱の蓋を開く。途端、私は声をなくした。驚きと、感慨。蘇る思い出。そこには、悲しい程、美しく、そして力強く佇む石があった。これの名前を私は知っている。小学校四年生の時、慧の家にあった鉱物図鑑で見たのだ。小さな姫君と一緒に。


「これ……どうしたの?」


 純粋な疑問だった。けれど、自分でその問いを発したにも関わらず、私は慧の答えを聞きたいような聞きたくないような、複雑な思いでそこにいた。それはまるで、判決を待つ人間のような気持ちだったかもしれない。言葉にし難い何かが全身を包み、喉元に引っ掛かるものを感じた。


「お土産なんだ。先週の土日に行って来たところで買ったんだけど、気に入らない?」


「……これ、どこで?」


 明るく、けれど私の反応を窺うような慧の言葉に、返す私の言葉は、ごく僅かに震えていた。自分でも、そうと気が付かない程に。


「大学の友人に誘われて、岩手県に行ってきたんだ。そこに大きな博物館があって」


「どうして、これを私に?」


 私は慧の言葉を遮り、自分の疑問を優先した。箱の蓋を開ける時とは比べものにならない程に、鼓動は早く、大きく打っていた。


「有来が好きだと思って……違った?」


 私の様子を見て、何か感じ取るものがあったのだろう。慧の声は先程よりもトーンが落ちていた。しかし、私は慧を見る余裕の無いまま、自分の手のひらの中で輝く真っ赤な石を見つめ続けていた。あの日、姫君と一緒に鉱物図鑑で見たものと、とても良く似た色。真っ赤な、夕焼けのような色。


「琥珀」


 私の声は震え、夏の空気に溶け込むように消えて行った。小さな、小さな囁きだった。


「好きかなと思ったんだけど……嫌い?」


 慧が再び尋ねる。私は精一杯、首を横に振って、慧の問い掛けを否定した。姫君と見た石が、今ここにある。私の目の前に、私の手の中に。その存在を誇示するかのように、赤く強く染まった色で、琥珀はそこに佇み続けていた。私は目が離せなかった。目を離せば、幻のように、夢のように、消えてなくなってしまうような気がした。


 ――まるで、姫君のように?


「違う…………」


 自分の内側から生まれた疑問を、私は声に出して否定した。そうしないではいられなかった。


「有来?」


 私は思い切って顔を上げ、慧を見た。慧は、やや心配そうな顔付きで私を見ていた。慧を見つめても、手のひらの中の重さは失われなかった。慧から再度、視線を戻してみても、真っ赤な琥珀は美しいまま、静かにそこにあった。


「琥珀、好きだよ。大好き」


 もう一度、慧を見て、私はそう告げた。自然に私は笑顔になっていて、自分でも少し驚いた。


 そんな私を見て、慧は安心したように、


「良かった。でも、どうかした?」


 と、気遣うように言った。


 私は、意識的に呼吸をした。気持ちを落ち着ける為、そして、慧に話をする為。私は、もう慧に隠しごとはしないと決めていた。それは慧の願いであり、私の願いでもあった。姫君にそうしていたように、私は私の正直な気持ちを慧に知ってほしかった。伝えたかった。伝わって欲しかった。その為の努力をしようと思った。もう遠回りをしないように、慧を信じて行けるように。


「あのね、琥珀、姫君と一緒に見たの」


「ああ、そうだったんだ」


 注意していなければ分からない程に、ごく僅かに慧の声音には緊張のようなものが含まれていた。それは、私の心に対する優しさかもしれない。あるいは、恐れかもしれない。でも、私の決意は揺るがなかった。姫君との再会を諦められないこととは、これは別の問題なのだ。私が慧を信じているかどうか。ただ、その一点に収束されるもの。


「小学生の時、慧から鉱物図鑑を借りたでしょ? あれに載ってたの」


「ああ、作文にも書いていたし、好きなのかなと思っていてさ」


 ちゃんと、笑えている。演技なんかでは無かった。姫君との思い出が、悲しいものであるはずが無い。確かに、別れは悲しかった。後悔もある。もう取り戻せない予感もある。時間は巻き戻らないということを現実として認識出来る年齢になり、それが、より一層、悲しみに加速を掛けた。それでも全てが無くなるわけでは無い。夢幻のように消えてしまうわけでは無い。悲しみだけに埋もれてしまうわけでも、無い。


「私、あの時に初めて琥珀を見たんだ。真っ赤で、すごく綺麗でびっくりした。姫君も綺麗だって言ってた」


 慧は黙って頷いた。静寂に、蝉の鳴き声と、微かな葉ずれの音が聞こえている。


「ありがとう、琥珀。嬉しい」


 鮮烈に赤く、存在を主張する琥珀をじっくりと見つめた後、私はそっと箱に蓋をして、そう告げた。正直な私の気持ちだった。


「ちょっと心配なんだけど。無理してない?」


 気遣うように私を見る慧に、私は偽り無く答えた。


「無理して無いよ。本当に嬉しかったし。悲しい思い出にはならないんだって分かったから」


 不思議な程、私の心は静かだった。波一つ無い、穏やかな海のように落ち着いていた。それはとても自然な気持ちで、無理などどこにも無い本当のものだった。私は、ようやく受け入れたのかもしれなかった。姫君との思い出を。


「大事にするね」


 私が笑って言うと、やっと慧も安心したように笑顔を見せた。


「気に入ってくれて良かったよ」


 私と慧は、ほぼ同時に立ち上がった。ふと、私は頭上を振り仰ぐようにして空を見上げた。夏のやや明るい夕暮れの空は、深く濃いオレンジ色に染まり、そこに濃紺が力強く混ざり始めていた。


「勉強、ちゃんとやってる?」


 右隣から降って来た慧の声に、私は空から慧へと視線を移した。


「やってるよ、大丈夫」


「そうか。分からないところあったら早めに言えよ。一つ分からなくなって放っておくと、どんどん分からなくなって行くから」


 軽く私の頭の上に手を載せ、慧は言った。


「経験談?」


 笑いを含んだ私の言葉に、


「まあ……」


 と、曖昧に返す慧。


 私は、ささやかなこんな時間が大好きで大切だった。もう二度と失わないよう、手放さないよう努力していこうと、私は密かに誓った。


「じゃあ、帰るね」


「ああ、気を付けて」


 途中、振り向くと慧と目が合った。私が手を振ると、慧もそれに応えて、肩の辺りまで手を挙げ、振ってくれた。ひどく幸せだった。帰り道、手の中で微かに揺れて、小さな音を鳴らす琥珀は、まるでその象徴のように感じた。


 家の前に着き、もう一度、空を見上げると、オレンジ色よりも濃紺の方が遥かに広く大きく空中に広がっていた。私はしばらくそれを目に映し込み、静かに首を正面に戻した。たとえ冷たい無機質な扉の音と、暗闇に包まれた室内が私に手を伸ばそうとも。慧と、琥珀と、そして姫君との思い出があれば、私はきっと大丈夫。


 そう信じて、私は重たい鉄の扉を開けた。

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