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第三章【邂逅】

 ――静かな、細い雨音が聞こえ始めた。私は本を捲る手を止め、椅子から立ち上がる。小さく軋んだ音が生じ、消える。白いレースのカーテンを少しだけ開けると、どんよりとした灰色の雲から糸のように雨が落ちて来ているのが見えた。少し冷たい空気が流れ込む、僅かに開かれた窓の傍で、私はまたいつもと同じことを考えてしまう。


 考えても仕方の無いことというのはある。また、考えて辿り着いた結論が、その時点では何の意味も持たず、何ももたらさないこともある。それを、私は知っている。それでも、こうして時間が流れ去った今でも、考えずにはいられないのだ。考えても仕方の無いことを、ぐるぐると考え続ける。出口が無いと知っている迷路の中を彷徨い歩くように。


「間違っていたのかな」


 その言葉に答える声はない。聞こえるのは、秋も終わりに近付いた空から落ちる、静かな雨の音。そして、かちかちと時を刻む小さな秒針の音。雨音と、流れ込む冷たい空気。秒針の音と、私自身の心。それらが少しずつ混ざって行く。


 私は、いつになったら考えることをやめるのだろう。いつになったら後悔することをやめるのだろうか。果たして、この気持ちが後悔とも断言出来無い。後悔なのか、懺悔なのか。それとも、ただ悲しんでいるだけなのか、あるいは全く別の気持ちなのか。


「間違っていた?」


 答える声がないことを知っていて、私は尋ねる。私の声は、ささやかな雨音にさえ吸い込まれるようにして消える。そして、やがて室内はまた元の静寂を取り戻す。私の思考はいつも通り、ゆっくりと、しかし確実に加速して行く。出会いから別れまでの時の流れが思い出となって蘇って行く。私は、ずるずると引き摺られるように窓際に座り込み、外を眺めた。雨は静かに降り続けている。






 ――私と「小さな姫君」との出会いは、およそ五年近く前に遡る。私と彼女は、私が小学四年生の頃に出会った。夏が始まろうとしていた、少し暑い日のこと。


 今でこそ、自身に降り掛かる沢山の理不尽や、多くの納得の行かないことをうまく切り抜けて行く知恵を少なからず手にした私だが、当時は、とてもそうはいかなかった。小学四年生という背景を踏まえれば当然のことなのかもしれないが、私にとってはそれが、ひどく息苦しく、毎日は重い枷のようでしか無かった。


 また、私は言いたいことのほとんどを告げることが出来無かった。周りの、特に大人は信用が出来ず、発言を奥深くに閉じ込めた。それはおそらく、自分にとって最も身近であった大人の母が、信じられなかったからであろう。今でもそれらが大きく変わったわけではないが、以前よりは幾分ましになったのかもしれない。


 当時、友達と呼べる人間がいなかったわけではない。きっと私は不幸では無かったはずだ。クラスメイトの中には沙矢という友達がいた。他にも何人か話が出来る人はいた。そして、大切な幼なじみの慧が、私をずっと支えてくれていた。私は恵まれていたはずだ。それでも時折、形容のし難い、複雑なような単純なような、良く分からない感情の波が私を飲み込んだ。それはおそらく悲しみという感情か、それに近いものだろう。しかし当時の私にとっては、そのような一言では決して済まされないものだった。私は、日々の時間の流れから逸脱しないよう、柔らかい泥のような感情に飲み込まれて溺れないよう、現実だけをしっかりと見て生きて行くことを、いつも考えていた。


 今にして思えば、私は相当に無理をしていたのだろう。おそらくは小学四年生以前の私から、ずっと連続していた何かしらの感情があり、それが私を知らずの内にある一点へと向けて導いていたように思える。明確な自覚がなかったにしろ、そういった毎日を繰り返す私にとって、「小さな姫君」の存在は救いであり、拠りどころであったのは確かだ。


 あの頃の私に、寄り添うようにしていてくれた姫君。彼女は何を考えていたのだろうか。頼り無い私を、何を思いながら支えてくれていたのだろうか。私が間違っていたというのなら、あの夏の「始まりの日」からだろうか。それとも、もっと以前からだろうか。






 間断なく落ち続ける雨は、止まらない私の思考と似ていた。いつ消えるとも知れない渦の中で、私はずっとこうして動けないままでいる。断ち切られた繋がりが再び結ばれることを、私は望んでいる。それが正解か間違いかは分からない。ただ、望んでいる。


 その時、私の思考を打ち破るかのようにして、薄暗い室内に明るいピアノの音色が短く響いた。窓の外から机の上に視線を移すと、携帯電話が光っているのが見える。私は、のろのろと立ち上がり、携帯電話を開く。メールが届いていた。読んだ後、私は返信をするかどうかを少し迷い、結局いつもの通り、そのまま携帯電話を静かに閉じた。端末の光がやがて消失すると、再び室内は薄暗い空間に戻る。私はまた元のように窓際に座り込み、鈍色の空を見上げた。まだ、雨は止まないままだった。


 ――随分、長いこと窓際に座り込み、雨を見ていたようだ。体がうっすらと寒さを訴え始めて、私はようやく窓を閉めた。しかし、また同じところに座る。ぼんやりと窓ガラス越しに暗い空を見上げる。私は、取り返しの付かない過ちを犯したように思っていた。


 再び室内にピアノの音が響く。机の上で、携帯電話が先程のように紺碧の光を放ち、メールの着信を知らせている。私は立ち上がる気力が無かった。数分後、今度は電話の着信音が鳴った。暗い室内と今の私の心情には不似合いな、明るい音楽が鳴り渡り続ける。私は何とか立ち上がり、携帯電話のウインドウを見る。思っていた通り、着信相手は慧だった。おそらくはメールもそうだったのだろう。迷った末、私は携帯電話を開き、通話ボタンを押した。


「――有来?」


 私が黙っていると、慧が続けた。


「……悪かったと思ってる。本当に。有来の気持ちを考えずに」


「その話は、もう良いの」


 私は慧の言葉を遮り、告げた。


「もう何度も言ったでしょ。その話は、良いの」


 慧は何かを言おうとしたのだろうが、それを飲み込んだように押し黙る。私の耳には、僅かな秒針の音と微かな雨音が聞こえている。そして、電話の向こう側には、慧の息遣いを感じていた。どれくらい経っただろうか、やがて慧が口を開いた。


「ごめん」


 私は、何も答えられ無かった。慧が謝ることでは無いような気がする反面、たとえ何度、謝って貰ったところで決して許せないような気もした。


 慧のせいにするのは簡単だ。しかし、真実、慧が悪かったとは言い切れ無い。それに、誰かのせいにして自分の感情を誤魔化せる程、私はもう子供では無いし、そんな単純なことでは無いと思った。ただ、慧と話していると、思い出す。慧の声を聞けば、鮮烈に蘇る。私が慧を好きになった日のこと、あの「始まりの日」のこと。そして、「小さな姫君」との出会いから別れの全て。私の喜び、私の悲しみ。気が狂いそうな、あの悲しみを手に取るように思い出してしまう。そして他に置きどころのない感情が慧へと向かってしまう。慧のせいだとは言い切れ無い、けれど違うとも断言出来無い。私は、いつもよりも更に渦の奥深くに飲み込まれてしまいそうになる。もう、誰も私を引き上げてはくれないというのに。


 私は、無言のまま電話を切った。携帯電話を閉じ、その光の消失を見届けると、心なしか安堵したことを感じた。私はまた、そのままそこに座り込む。


 明日も学校がある。内申の為にも、欠席するわけにはいかなかった。勉強は難しくは無い。小学生の時から知識を求め、勉強して来た私の習慣は、変わらず今も続いている。授業を良く聞く。分からなければ自分で勉強する。参考書を買っては応用問題を解き、ゆくゆくは習う範囲をも学ぶ。学期ごとの中間試験や期末試験で、私は上位に入った。出題範囲が決まっている試験なのだから当然と言えば当然なのかもしれない。


 私は、数式や知識によって導き出される、シンプルな解答が好きだ。正しい知識は正しい解を弾き出す。あの頃の私の選択にも、それに相応しい、正しい知識があったなら、今のこの気持ちを味わうことは無かったのだろうか。ずっとずっと、一緒にいられたかもしれないのだろうか。


 やがて本格的な暗闇が外を包み、部屋を包んだ。私は部屋の扉を開けて居間へと向かう。そして、私の部屋と同じく暗闇が支配しているそこで、冷蔵庫を開けた。途端、脳裏に色濃く蘇る。


『……私は、有来のことしか見ていなかったから』


 あの言葉。あの時の声。あの時に感じた恐怖に近いもの。それすらも私にとっては、もはや失えない。彼女が私と共にいた証。私が忘れない限り、彼女は決して消えない。


 チーズと食パンとバター、牛乳と卵を取り出し、野菜室からピーマンやニンジンを取り出す。台所の上に設置された小さな照明のスイッチを引っ張ると、幾度かの明滅の後に明かりが点く。食パンにバターを塗り、チーズを載せてトースターで焼く。目玉焼きを作る為にフライパンを温め、油を引く。野菜炒めを作る為にピーマンなどを洗って刻む。私は、黙々と夕食を作った。どうしても止まらない思考を押し留めるように、何も考えていない振りをするように。


 暗い室内には、僅かに月の光が入り込み、台所に立つ私を静かに照らした。青白い、満月まであと一歩の月だった。






 あの電話の日以来、慧からのメールも電話も無かった。私は、それに安堵していた。今度、慧の声を聞いたら自分が何を言ってしまうか分からなかったからだ。


「有来。おはよう」


 振り向くと、沙矢が立っていた。


「おはよう」


「今日は快晴だね」


 沙矢の言う通り、今日は珍しく秋晴れの美しい日だった。


 私達は二人で並び、信号が青に変わるのを待つ。私と沙矢は同じ中学校に進み、今でも友人関係は続いていた。どちらかというと交友関係が狭い私にとって、沙矢の存在はとても大きなものだった。


「もうすぐ期末試験だよね。有来は頭が良いから羨ましいよ」


「苦手な科目はあるよ。暗記物は得意じゃないし。特に地理」


 沙矢とは、中学一年生の時も二年生の今も、同じクラスにはなれなかった。中学生最後の来年くらいは、同じクラスになれたら良いと思う。


「あ、青」


 沙矢に続いて、私も歩き出す。


「そういえば担任が、この間、ものすごく怒ったんだ」


「え、何で?」


 聞きながら、そういえば私のクラスの担任は怒ったことが無いなと思った。


「あの先生、数学の教師でしょ。数学の授業中に何人かの男子が騒いでいたの。先生は注意したけれど、全然静かにならなくて」


「うん」


 沙矢は、右手の通学鞄を持ち直して続けた。


「そうしたら、授業の時に黒板で使う指示棒っていうの? 指揮者が持つみたいな棒あるじゃない。あれを、ばきっと、真っ二つに折ったの」


「本当に?」


 私が驚いて聞き返すと、沙矢は頷いて肯定し、更に話を続けた。


「その後の授業は、先生が黒板に例題と解説を無言で書くだけ。チャイムが鳴ったら即、教室を出て行ったよ」


「すごいね。結構、穏やかそうな先生に見えるのに」


 私達はそんな話をしながら、並んで中学校への道を辿った。こうして二人で歩いていると、小学生の時に一緒に帰ったことを思い出す。あの頃から沙矢はお姉さんのようなしっかりとした印象があったが、今もそれは、そのままだった。いや、あの頃より洗練されたとも言える。同じ学年なのに、私より少し年上のような気がするのだ。身長が高いせいもあるかもしれない。


「しかも、その日の帰りのホームルームは来なかったんだよ」


「じゃあ、帰りはみんなどうしたの?」


 私の問いに、沙矢は呆れた顔付きで答えた。


「勝手に帰っちゃったよ。ラッキー、とか言って。まあ、待っていても来なかったから私も帰ったけどね」


 沙矢のクラス担任は三十代後半くらいの男性で、確か高間といったはずだ。私のクラスの数学も担当している。ほとんど話したことは無いけれども、静かで穏やかそうに見えた。人は見掛けによらないものだ。


「男子も悪かったと思うけど、関係無い私達まで巻き込まないでほしいよ」


「確かに」


 沙矢の言う通りだ。その場にいたわけでは無いから詳細は分からないけれど、とばっちりをを食う身としては、たまったものでは無い。


「私なんて数学苦手だから質問したかったのに、どんどん黒板に書き続けるし、質問が出来る雰囲気じゃないしで、最悪だったよ」


「私で良かったら教えるよ」


 すると、沙矢は嬉しそうに笑って言った。


「実は期待してた」


 私も笑った。


 他愛ない、小さな私の世界。中学校に通う私、友人と一緒に登校する私、学校での出来事や、苦手教科について話す私。いつか私はこの枠を飛び越え、大きく自由な世界に入り込みたい。私の毎日は、その日の為の糧になるべきものだと思っている。今が楽しくないわけでは決して無い。けれど満足が出来無い。心の奥底が不満を訴えてやまない。


 ――こんなものじゃないだろう?


 と。静かに、けれど強く囁くのだ。


 私は、その声を無視することは出来無いし、その声に従うことは、むしろ幸せだった。私は、いつも何かが満たされず、喉の渇きを解消する為に水を求めるかの如く生きていた。枯渇。求めることをやめれば、それは生活に対する、現状に対する諦めであり、敗北を意味すると思った。求め続けることが、私が私である為に必要な行為だった。だから知識を始めとして、私は求め続けた。生きて行くことに貪欲でありたかったから。


「そういえば、有来のクラスは音楽の時間に映画を観たんだって?」


 正門が見え始めた頃、沙矢が尋ねた。


「うん、先々週と先週で分割されたけどね」


 二時間以上はある映画だった。五、六時間目の両方を使っても観終わらず、半分は先々週、残りは先週というスタイルが取られた。


「何ていう映画?」


「アマデウス」


 私達は正門に立つ数人の教師に挨拶をして通り過ぎる。そして話を続けた。


「面白かった?」


「面白かったけど、濃かった」


 今、思い返しても、内容の深い映画だった。音楽と人間と人生の、密接な結び付きが織り成したドラマ、とでも言うのだろうか。


「アマデウスって、名前?」


「うん、モーツァルトのミドルネーム。神に愛される、って意味らしいよ」


 その映画は、モーツァルトとサリエリという二人の人物にスポットが当てられた作品だった。天才のモーツァルト、凡人のサリエリ。ライバル関係にある二人。


「モーツァルトって、クラシックの?」


「そう。クラシック曲の演奏場面もあったよ。私は引き込まれて観てたけど、みんなはあんまり面白く無かったみたい」


 自習で教師が不在だったせいもあるのか、上映時は終始、ざわついていた。幸い私の音楽教室の席は一番前なので、わりと集中して観ることが出来たが。


 沙矢と話している内に、私はアマデウスの感想文のことを思い出した。


「そういえば感想文の宿題が出てた。明後日までだったよ、忘れてた」


「有来でも宿題の存在を忘れたりするんだね」


 私達は笑いながら昇降口を通り、上履きに履き替えた。教室前での別れ際に、沙矢が思い出しように言う。


「でも、有来なら作文は簡単でしょ? 小学生の時の作文だって、すごかったし」


「ああ、鉱物についての。懐かしいね」


 あれから、瞬く間に時が過ぎた気がする。幸福も、本当の意味での不幸も知らなかった私は、あっと言う間に小学校を卒業し、中学校に入学した。そして今ではもう、中学二年生の秋を迎えている。本当に時間が経つのは早いと思った。


 私と沙矢は軽く手を振り、それぞれの教室へと入る。教室の時計を見上げれば、朝のホームルームまで、あと十五分というところだった。


 学校は退屈だった。勉強は必要性を感じて積極的におこなっているだけで、特に好きだというわけでは無かった。かと言って休み時間が待ち遠しいわけでも無く、学校で過ごす一日全体が、私には退屈だったのだ。


 同じクラスに友人はいたものの、別にいなくても困らない程度の友人だった。失礼な物言いかもしれないけれど、このクラスの人間は、担任も含めて楽観的な人が多いように思える。楽観的と言えば、まだ聞こえは良いかもしれない。しかし、つまりは何も考えていないような人間だらけに見えるということだ。少なくとも私にとっては。休み時間は、とにかく騒がしい。男子は暴れ、机や椅子を、意味もなくがたがたと鳴らしたりもする。女子は話し声が、かなりと言って良い程、大きい。他のクラスもこうなのかと、一度、沙矢に聞いてみたことがある。


 すると、


「そうでも無いよ。男子はちょっとうるさいけど、女子は静かな子が多いかな。まあ、一部の男子は授業中に騒いだりすることもあって迷惑だけど」


 と、返って来た。


 やはり、クラス性とでも言うべきものがあるのかもしれない。私は巻き込まれたくは無いし、内申の評価が下がることも嫌なので、休み時間は大抵、本を読むか眠るかしていた。時々は友人と会話をした。あまりクラスに馴染もうとはしていない私だったが、それなりにうまくやっていた。ただ、私が勉強が出来ることは周知の事実となっていたので、やっかまれることはあった。しかし、表立って喧嘩を売られたりすることは無く、私は比較的平和に毎日を過ごせていたのだ。付かず離れず、不即不離の関係を私は築き、自分からそれを崩そうと思うことは無かった。


 やがて、朝のホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴り、担任がいつものように教室の前扉を開ける。挨拶と出欠の確認が済んだ後、担任は六時間目の国語が自習になったことを告げた。


「国語以外の教科でも構わないから、各自、静かに勉強するように」


 担任であり国語の教師でもある村野は、手短にホームルームを終えて教室を出て行った。


 今朝、沙矢の話を聞いていて思ったが、私のクラス担任である村野は怒ったことが無い。授業中に騒がしくなっても淡々と注意をするだけだ。生徒が校内で携帯電話をいじっていたり、漫画やファッション雑誌などを持って来ていたり、制服のスカートが短かったりするのを見掛けても、


「学校に必要の無いものは持って来ないように」


「校則違反だ」


 などの決まり文句を、本当に淡々と告げるだけだ。携帯電話や雑誌を取り上げることもしなかった。あまり生徒に関心がないように見えなくも無い。初めは変わった教師だと思ったけれど、最近では慣れてしまった。色々な生徒がいるのだ、教師だって色々なのだろう。


 それに、この頃では村野に共感すら覚えつつある。結局、生徒の行動は生徒自身に委ねられる。校則違反だろうと何だろうと、自分で責任を取れということだ。私は勝手に、そう解釈していた。注意しても騒がしい人は騒がしいし、校則違反をする人はする。注意なんてされるべくもない生徒もいる。さすがに授業中に騒がしいことは勘弁して頂きたいが、授業が聞き取れない程であれば、あとで質問に行けば良いし、もしくは家で勉強すれば済むことだ。そう思い、私は諦めることにした。なるべく無関心でいることが、学校での時間を穏やかに終えるこつだ。


 いつも通り、一時間目の始業を教えるチャイムが鳴り、教室に、数学の教師である高間が入って来る。騒がしかった教室は少しだけその勢いを削がれ、席を離れていた者は自分の席に戻って行った。連立方程式なんて、きっと私の――いや、大抵の人間の――日常生活には役に立たないだろうし、必要性を感じることもないだろうけれど。高校に進学する為、知識を蓄える為、ひいては描く未来の為に、私は数学の教科書とノートの準備をした。






 数学、英語に続き、午前中の授業が終了した。今日もいつもと同じ、淡々と退屈な時間が過ぎて行った。授業を全く聞かなくても勉強が出来るわけでは無いけれど、さして疑問も湧かないまま流れて行く授業というのは、つまらない。しかも、かなり進行スピードが緩やかな気がする。同じようなことを何度も確認させられている気がする。社会科なんて、地理も歴史もひたすら教科書を読み、アンダーラインを引っ張ることが主だ。こんな授業で良いのならば、私でも出来そうだと思ってしまう。欠伸を堪えることが大変だった。


 昼食の時間が終わり、昼休みも終わる頃、秋晴れの綺麗だった空には薄暗い雲が生まれ出していた。そして五時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴る頃には、暗い灰色の雲は空一面に広がり、小さな雫を地に落とし始めていた。


 私は窓辺に立ち、その雨の様子を眺めた。まだ降り始めたばかりの雫は、地面に、ぽつぽつと小さな染みを作っては吸い込まれて行く。窓の外に視線を向けながら、次の時間は自習だったことに気が付いた。音楽の宿題である作文を書いてしまおうかと考えた、その時。今朝の沙矢との会話が、ふと思い出された。


 ――小学校の時の作文だってすごかったし。


 ――ああ、鉱物の。懐かしいね。


 沙矢にはああ答えたけれども、実際の私の気持ちは違った。「懐かしい」などという、温かく、穏やかな気持ちでは無かった。小学校四年生の時に書いた作文。国語の宿題で、題材は自由だった。資料として、慧が鉱物図鑑を貸してくれた。図鑑を借りた帰り道、公園で一人、私は泣いた。


 ――違う、一人では無かった。


 私は急速に時間を遡り、思い出の中に立った。意図したわけでは無く、まるでそうすることが当然であるかの如く、私の脳は過去を呼び戻す。時間にしたら数分、もしかしたら数十秒くらいかもしれない。私は手に取るように、そこに見えるかのように、思い出という悲しみに触れていた。


 そして、突如として鳴ったチャイムの音が、私を現実の流れへと引き戻す。私は席に着き、机の中から作文用紙を取り出した。そこで再び、望む望まないに関わらず、私の記憶が蘇り続けて行く。


『琥珀。綺麗ね』


 悲しくも懐かしい声が聞こえた気がした。私の頭の中は、たちまち彼女のことでいっぱいになって行く。彼女と出会った時の驚き、彼女と過ごした楽しかった毎日、悲しかったこと。


 そして、慧の存在。私には、慧が悪いとは思っていないのに、彼を許し切れない、認められない複雑な感情がある。私は、どうすることが正解なのだろう。いっそ全てを無かったことに出来たら楽だと思ったこともあった。けれど、彼女はもういないのだ。彼女の存在を覚えている私がそれを忘れれば、本当に彼女は消えてしまう。彼女の存在を心から証明する人間が、一人もいなくなってしまう。それに、私は彼女が好きだ。確かに行き過ぎたところもあったと思う。それでも私は、彼女を忘れて日々を生きて行くことは出来無い。彼女から離れてしまうことは出来無い。


 私の右手のシャープペンシルは、作文用紙の上を滑り続け、アマデウスの感想を綴った。しかし私の脳の半分は、依然、彼女が占有している。


 授業が自習となったことに浮かれ、クラスメイト達は雑談に花を咲かせたり、席移動をして漫画を読んだりしていた。正直、騒がしく、気が滅入った。しかし私は、その騒然とした環境で、忘れ難い思い出を振り返りながら、音楽の授業で観た映画の感想文を黙々と書いた。やがて書き上がった感想文は、作文用紙に六枚になった。それを読み返しながら、モーツァルトとサリエリは、少しだけ私達に似ていると思った。私は心の奥底で、静かに同意を求める。


 勿論、返事は聞こえない。分かっている。それでも求めてしまうのだ。姫君がどんな返事をするのか、想像してしまう。


 ――そうね、似ているかもしれないわね。


 と、頷いてくれるだろうか。


 それとも、


 ――どこが私達と似ているの?


 と、否定を含めつつ尋ねるだろうか。どちらでも良い、何でも良い、答えてほしかった。しかし、それはもう、叶わない願いだった。


 ぱき、と小気味良い音を立ててシャープペンシルの芯が折れる。芯は勢い良く机上を飛び出し、どこかへ行ってしまった。私はその行方を追いながら、彼女の姿を重ね合わせる。小さな姫君はどこへ行ってしまったのだろう。私は作文用紙をぴりぴりと切り離し、机の中に仕舞った。


 帰りのホームルーム終了後、私は二組の教室前で沙矢を待った。私のクラスの方が早くに終わり、その途端にクラスメイトは騒がしく廊下へと排出されて行った。薄汚れた廊下の窓からは、少し強めに降り落ちる雨が見える。雨粒が窓を叩き、水滴が窓ガラスを濡らし、室温と気温の差が、それを白く曇らせていた。


「あれ、有来。早いね」


 やがて沙矢のクラスもホームルームが終わり、教室の扉が開く。私達は、いつも一緒に帰る約束をしているわけでは無かった。けれど、今日は何となく沙矢と帰り道を歩きたいと思ったのだ。私と沙矢は今朝方のように他愛のない話をしながら、昇降口へと向かった。


「あ、今日、空いてたら数学を教えてくれない?」


 こんこん、とつま先を鳴らして靴を履きながら、沙矢は言った。


「うん、良いよ」


 私は、桃色の傘を広げながら答えた。


「やった。じゃあ、このまま私の家に来てくれる?」


「うん。お邪魔して良いの?」


 勿論だよ、と沙矢は嬉しそうに笑った。私は桃色の傘、沙矢は空色の傘の下に入り、雨を避ける。雨の雫は傘や地面にぶつかり、意外に大きな音を立てて散って行く。朝の美しい秋晴れからは予想の付かない雨模様だった。


「朝は、良い天気だったのに。嫌だな、もう」


 沙矢の言葉に私も頷いて肯定した。


「それに、少し寒いね」


 水溜まりを避けつつ、私達は慎重に歩く。そこかしこにある大きな水溜まりは、まるで罠の如く私達を待ち受けているかのようだった。強い雨で煙り、視界がはっきりと見えない。学校指定の革靴には、着実に雨水が入り込んで行く。まるで、水の牢獄に閉じ込められたような気さえした。私は雨が苦手だった。


 私と沙矢が正門を抜けて左へ曲がると、その左手側に人影が見えた。雨と傘で遮られた視界の中、革靴と黒いズボンだけが目に入る。私は特に気にも留めず、通り過ぎようとした。


「有来」


 瞬間、体全体に緊張が走る。私はほとんど反射的に足を止め、そして立ち尽くした。


「こうでもしないと会えそうも無かったから」


 桃色の傘の上に、優しく静かな声が舞い降りる。私は声の主が分かっていた。けれど分かっているからこそ顔を上げられ無かった。そんな私の右隣で、沙矢が心配そうに尋ねる。


「有来?」


 降りしきる雨の中、沢山の生徒が私達の横を通り過ぎ、追い越して行く。狭く雨に満たされた視界には、彼らの後ろ姿が微かに映っていた。


「有来、話したいことがある。突然で悪いけど、聞いてほしいんだ」


 私の体全体が、小さく震えていることが分かった。それはきっと寒さのせいだと自分に言い聞かせ、私は、ただ自分の足元を見つめていた。


「有来、知り合い?」


 沙矢が、やはり先程同様、気遣うように尋ねる。私は頷き、その言葉を肯定するだけで精一杯だった。


「有来の友達かな? 俺は有来の幼なじみで、羽野慧です。突然で申し訳無いけれど、有来をお借りしても良いかな」


「あ、はい……私は構いませんけど」


 沙矢が、私の顔を覗き込むようにして聞いた。


「ね、有来。大丈夫? 私とはまた今度で良いよ」


「……うん、ごめんね。数学、今度、教えるね」


 かろうじて沙矢の顔を見る。そして私は、やっとそれだけを告げた。


「気にしないで。また今度ね。それじゃ」


 水溜まりを避け、沙矢は私の前を歩いて行った。青空の色をした傘が徐々に遠ざかって行く。急に私の右隣は空っぽになり、心細ささえ感じてしまう。そして私の左隣からは、言いようのない強い存在感、あるいは威圧感に似たものを感じた。


「行こうか」


 その言葉に従うしかない私は、視線を下げたまま頷き、歩き出した。






 彼は、さり気なく私の右隣に回り、道路側から私を守るようにして歩いた。未だ雨は強く、上がる気配は少しも無い。ひたすらに強く落ちる雨の中、私と慧は無言のまま歩き続けた。少し歩くのが遅い私に、慧は歩調を合わせてくれているようだった。


 やがて差し掛かった横断歩道での信号待ちの時、私は、そっと傘を傾けて右隣の慧の横顔を見上げてみた。久し振りに見る慧は、以前よりとても大人びている、落ち着いた顔付きで前を見ていた。身長もかなり伸び、私は、これまでよりも自然に慧を見上げる形になっている。こうして慧と並ぶのは、約二年ぶりになるだろう。慧を見ていると、不意に私は懐かしい気持ちが込み上げて来た。だが、慧の身長、大人びた顔。そして私が着る中学校のセーラー服と慧の着る高校のブレザーが、流れた時間を証明していた。


 慧が歩き出す。見ると、いつの間にか信号は青に変わっていた。ぼんやりとしていた私は、少し慌てて慧の後を追う。すると、慧は遅れた私に気が付き、私より数歩先で振り返り、待っていてくれた。ほどなく私が慧に追い付くと、再び慧はゆっくりと歩き出す。私と同じ歩調で、私が離れることのないように。


 慧は、変わらず優しかった。変わってしまったのは、私だった。慧の隣で一緒に歩いていても、私と慧の間には、計り知れないくらいの距離が生まれてしまっているように思えた。それが自分の作り出した距離だとしても、やはり悲しかった。しかし、悲しむことは私には許されない。許されてはならなかった。それは、私の決意に反することだからだ。私は傘を持ち直し、強い雨から身を守るようにして、再び自分のつま先を見つめて歩いた。隣には誰もいないと言い聞かせて。それが、どれほど勝手なことであるのかを気が付かないままに。


 私の自宅前にある公園まで来ると、不意に慧は足を止めて振り返る。


「有来。大丈夫か?」


「え?」


 私は突然の問い掛けに驚き、ずっと俯いたままだった顔を反射的に上げる。それでも、傘の影と、傘を伝い流れ落ちる激しい雨で、慧の表情は良く見えなかった。


「元気、無いみたいだから」


 声は優しく、私を気遣ってくれていることが十二分に伝わって来た。しかし、私にはそれが息苦しく感じられ、ただ黙って下を向いた。すると、少しの間を置いて、慧が言った。


「本当は公園で話そうかと思ったんだけど、この雨だし、俺の部屋で良い?」


 心臓が、一際、大きく音を立てた気がした。この激しい雨音よりも大きく、強く。私は戸惑った。脳味噌が左右に揺さぶられる。その短い間で、どう答えようかひどく迷ったが、私は慧の提案を受け入れることにした。こんなにもひどい雨の中、傘を差して公園で立ち話はしたくないし、私の家は論外だ。どこかの喫茶店でも話は出来るけれど、慧の言う話が何についてなのか、私には予想が付いていた。おそらく予想は当たるだろう。それは他の誰にも聞かれたくない、私と慧だけの胸に仕舞っておきたい話だ。不特定多数の人間がいる喫茶店などで、容易く話せるような話ではない。


 だが、思えばそれらは全て言い訳なのかもしれなかった。ただ、私は、慧から感じる威圧感めいたものが怖くて、慧の言う通りにしようと思ったのかもしれない。しかしながら、それはきっと、私の主観による思い過ごしであったのだろう。この時の慧の声は、以前までと同様、ひどく優しかった。私に優しい、慧のままだった。結局は、私自身の内情が、慧をそのように捉えてしまっていたに過ぎない。当時、小学生の頃に比べて、少し大人に近付いたと思っていた自分であったが、実のところでは、決してそうでは無かったのだと思う。


 私が小さく返事をして歩き出すと、慧も再び私の隣に立ち、歩き始めた。公園のぬかるんだ地面は柔らかく、踏みしめるたびに土は雨水と共にへこんだ。何気なく振り返ってみると、私と慧、二人の足跡が公園の地面に残されていた。私は、すぐに前を向き、ぬかるみに注意して歩いた。公園を抜ければ、慧の家は、すぐそこだ。緊張し、張り詰めて行く心と体を落ち着ける為、私は気付かれないように深呼吸を一つ、した。






「ちょっと待ってて」


 慧は玄関に鞄を置き、廊下を右に曲がる。真っ白いタオルを手に戻って来た慧は、それを一枚、手渡してくれた。


「風邪引くから、ちゃんと拭いた方が良い」


 慧自身もタオルで頭や制服を拭きながら言う。私は頷き、タオルを受け取った。あの大雨では、さすがに傘だけで体を守り切ることは出来ず、髪が少しと、肩の辺りが結構、濡れてしまっていた。スカートの裾も軽く拭き、私は緊張する心を抑えて告げる。


「ありがとう」


 タオルを軽く畳み、慧に手渡す。帰り道から今までの間で、私は、やっと慧の顔を見て話すことが出来た。慧は軽く返事をし、優しく笑う。それは、以前と変わらない笑顔だった。


 慧は、タオルを受け取りながら、


「すぐ行くから先に部屋に上がっていてくれる?」


 と、言った。


 私は頷き、靴を脱ぐ。靴の中にも水が入り込み、靴下の先が少し濡れていた。私がそれを気にしている様子に気が付いたのか、慧はタオルを手に、私の足元に膝をついた。少し驚いた私に気付いているのかいないのか、慧は私のつま先をタオルで押さえた。軽く叩き、水分を吸い取って行く。私は、何故かその状況に胸が締め付けられるような、羞恥のような、複雑な感情を覚えた。


 両足共、終えた慧は立ち上がり、


「じゃ、二階で待ってて」


 と言い、タオルを持って先程と同じく廊下を右に歩いて行った。


 ――そこまでの一連の動作がとても自然で、私は逆に驚いてしまったのだが、正体の良く分からない感情に蓋をしたことを覚えている。そして、二階への階段を上がったのだ。


 慧の部屋のドアノブを、そっと捻る。小さく音を立てて開かれたドアの先、懐かしい光景が目前に広がる。私は緊張しつつ、一歩、足を踏み入れる。部屋の中央に置かれた小さなガラスのテーブル、大きな本棚と、そこに収められた沢山の図鑑、漫画、小説、参考書。綺麗な木目の床。私は更に二歩、足を進め、部屋全体を見回した。置かれている小物類や本が少し変わっただけで、部屋の雰囲気は以前と大きくは変わっていなかった。私は、その部屋に一人で立ち、遥か昔のことのように自らの記憶を辿り、様々なことを思い出して行く。


 私が小さな頃から仲良くしてくれた慧。学校の宿題を見て、勉強を教えてくれた慧。おいしいご飯をごちそうしてくれ、私の大好きなオレンジジュースをいつも用意して待っていてくれた、優しい慧。そして、小さな姫君のこと。瞬く間に全てが思い返され、蘇り、光り、そしてまた記憶の底に沈んで行った。


「座っていて良かったのに」


 振り向くと、いつの間にか慧が立っていた。私は通り道を空け、部屋の隅に寄る。


「ちょっと、ぼんやりしてた」


 思い出が、あっと言う間に私を包み、現在という時間の流れから心を切り離したようだった。慧が二階に上がって来る足音、室内でも意外に大きく響いている雨音に、今まで気が付か無かった。遠く彼方で小さく奏でられていたように思う雨の音色は、今、唐突に激しい演奏に変わった。私には、そう感じられた。慧は、そっとドアを閉め、ジュースやクッキーの載せられたお盆をガラステーブルの上に置く。かちゃ、とささやかな音が響く。私は、いよいよその時が来たと思った。


「座って」


 その言葉に従い、私は静かにテーブルの前に座った。クリーム色とチョコレート色の丸いクッキー、そして、細長いグラスの中で微かに揺れるオレンジジュースが、視界に映り込む。私は、膝の上で両の手のひらを、ぎゅっと握り締めた。


「姫君のことでしょ?」


 私は俯き、切り出した。顔を上げないまま続ける。


「別に、もう良いの。ちゃんと気持ちの整理を付けたから。ずっと前に電話で話した通り」


 雨音だけが室内に響き、その空間が私に重く圧し掛かる。


「慧が悪いなんて思っていないよ。ただ、一緒にいると色々なことを思い出すから。だから少し距離を置こうって言ったんだよ」


 俯いた先にある私の手が、僅かに震えていた。そっと手を開いたり閉じたりして、私は何とかそれを抑えようと試みる。


「だから、もうこれ以上、姫君のことは言わないで。思い出して、つらいから」


 そして、私が黙ると、再び雨音だけが聞こえる部屋になる。慧は何も言わず、ただ、ずっと黙っていた。慧がどんな顔をしているのか気になったけれども、私は、とても視線を上げる気にはなれなかった。どれくらいの時間が過ぎたのか。数分か数十分か分からなかったが、私はやがてその沈黙に耐え切れなくなり、言った。


「もう良いかな。私、帰っても」


 この重苦しい空気に身を置いていることには無理があった。そもそも話題にだって無理があるのだ。私は彼女の話をしたくなかった。慧にも、誰にも。私だけが分かっていれば良い、私だけが抱えていたい存在なのだ。彼女――小さな姫君は。


「あのさ」


 慧は、軽く溜め息を洩らして言った。


「誰も姫の話をしようとは言ってないだろう?」


 私は、咄嗟に頭の中が熱を持ったように感じた。


「姫なんて気安く呼ばないで!」


 下を向いたまま、私は思わず声を荒げて告げた。そのことに自分でも驚きを覚えながら、心臓の鼓動が早まって行くように思えて、私は胸の辺りを手で押さえる。


「……ごめん」


 慧が謝っても、なかなか私の感情は落ち着かず、心がざわざわと嫌な音を立てていた。


「最近、有来と連絡が付かないから。元気かどうか、心配になっただけなんだ」


 私が黙りこくっていると、更に慧は言う。


「本当に彼女の話をする気は無かった。でも、この際、有来には悪いけど心配だから聞かせて貰う」


 その言葉の指すところが気になり、私は躊躇いがちに顔を上げる。慧は不安そうな、そして、私の様子を窺うような顔をして私を見ていた。


「さっきの言葉は本心?」


 心中の嫌な音が、先程よりも格段に大きくなる。更に鼓動が早くなったように思う。胸が苦しくなり、当てていた手で制服を掴んだ。そして慧の目を見て、瞬きを堪えて、はっきりと告げた。以前、彼女がくれたアドバイスを思い出しながら。


「本心よ」


 目を逸らさず、瞬きを堪え、私は時が過ぎるのをひたすらに待った。絶対に目を逸らしてはいけない、俯いたらいけない。私は慧の言葉を待った。慧は私の視線を避けるように、一度、目を閉じ、すぐに開いた。そして慧もまた私と同じように、真っ直ぐに私の目を見て言った。


「嘘だな」


「どうしてそう思うの」


 すかさず、私は尋ねた。胸を押さえている方とは反対の手を、強く握り締めながら。


「ちゃんと気持ちの整理が付いているなら、そんな泣きそうな顔にはならないよ」


 慧はテーブルの上で両手を組み、私を真剣な目で捕らえる。


「言えば良い。俺のせいだって」


 私は、唐突なその言葉に驚愕する。震える心臓を落ち着けながら、やっとの思いで聞き返した。


「慧のせい、って?」


 返す慧の答えはシンプルなものだった。


「俺が彼女を消したんだと、どうして言わないんだ?」


 私は、しばし言葉を失う。


「慧のせいなんて」


「そう思っているだろう?」


 喉の奥から絞り出した私の声を遮り、慧は言う。まるで否定することを許さないかのような、強く、とても静かな声で。私は、瞬時にして何を言えば良いのか分からなくなっていた。否定も肯定も出来ずに、ただ、慧を見ていた。


 私が今、考えるべきなのは、慧への返答だ。しかし、何をどう言葉に乗せるべきなのかが、全く分からない。窓の外では、強く激しく雨が降り続いている。私達は互いを見つめたまま、何も言わないままだった。


 慧の目は、誤魔化しを許さない目だった。真実を要求する視線だった。私はそれを受け止めながら、どうすれば良いのかを必死に考え続けていた。私は、本当に、もう誰とも姫君の話をしたくなかった。私だけが姫君を記憶し、信じていれば良い。たとえ慧であっても、いや、慧だからこそ私は、姫君のことを話したくないのかもしれない。慧は、彼女を否定したのだから。


「姫君がいなくなったことが、慧のせいだとは思っていないよ。本当に」


 私は感情を抑え、なるべく冷静に告げた。


「私は私がしたいようにしているだけ。慧と距離を置きたかったから、そうしただけ。そうしているだけ。他に何も無いよ」


 距離を置きたい。以前に伝えた言葉。そこから生じている現状を、私は口にした。何故、ここで、私は聞かれてもいないことを敢えて告げたのだろう。慧に改めて言うことで、自分への再確認を図ったのだろうか。


 慧は、黙って私を見ている。一言一句を、聞き洩らすまいとでもいうように。


「気持ちの整理は付いている。ただ、悲しみが残っているだけ」


 私は言葉を切り、意識的に軽く呼吸した。その間も慧は、無言で私を見つめている。話すべきことが見付からなくなった私は、そこでようやく慧から視線を外した。俯き加減になると、視界に再び、オレンジジュースが映った。それは私の思い出を呼び覚ます鍵の一つであり、慧の優しさの象徴でもあった。


「俺と距離を置きたいのは、どうして?」


 唐突に慧が尋ねる。


「だから、姫君を思い出して、つらいから」


 顔を上げ、私が先程と同じ内容を繰り返すと、慧はすぐに否定をした。


「それは違う。いや、それもあるかもしれないけど、それが主な理由ではないね。他に何か隠している」


 慧はテーブルの上の両手を組み直し、


「どうして言わない?」


 と、私に尋ねた。


「別に、そんなことは……」


 私は動揺を悟られないよう、精一杯、はっきりと発音したつもりだった。しかし、喉の奥から出て来た声は頼り無く、細く小さなものだった。そして語尾が、どこかに吸い込まれるようにして消えてしまう。私は堪らず、下を向いた。どうしたら良いのか、どうしたらこの場から逃げられるのか、そればかりが頭を巡っている。両脇にある手を握り締め、私は軽く唇を噛んだ。慧に対する、もっともらしい言い訳が浮かばない。それらしい理由が見付からない。どうしたら良いのか、分からない。まるでメビウスの輪のような閉じた空間を、あてどなく、ぐるぐると一人で歩いているかのようだった。


 この時、私は、慧よりも自分自身を守ろうとしていた。偽りとなる言い訳や理由を探していたことが、その証明だ。やはり私は、大人になど近付いてはいなかった。優しさを以って接してくれる人に対し、私は、その場を切り抜けることしか考えていなかったのだから。だが、これこそ言い訳になるかもしれないが、私にとって小さな姫君は、表に立ち、裏に立ち、私を支え続けてくれた大切な存在だったのだ。彼女より慧を軽んじているわけでは無い。けれど、幼い私が失った、かけがえのない光である彼女についての一切を、この時はまだ、誰にも話したくは無かったのだ。


「俺が側にいると苦痛とか?」


「違う……」


 私は、即座に慧の言葉を否定する。それは、そうしなければならない強い義務感のようなものに駆られてのことだった。私は慧が嫌いなわけではない。むしろ、私は……。


 不意に視界が歪む。私の目に涙が浮かんでいると気が付く。途端、もう何をどう考えたら良いのか、先程とは比較にならないくらい分からなくなってしまった。パレットの上で入り混じる、様々な色の水彩絵の具のように、心が歪み、溶けて行く。私は、もうこれ以上、慧と向き合っていたくなかった。


「私、帰るね」


 鞄を持ち、立ち上がった私を、慧は驚いたように見上げる。


「いや、話が全然、まとまっていないよ」


「無理にまとめなくたって良いでしょ」


 私は、もう何も話すことは無いと思った。もとより、彼女のことを慧と話すべきでは無いのだ。意見が合うわけが無いことは数年前の時点で既に分かっている。


 私がドアノブに手を掛けると、素早く立ち上がった慧が、それを制する。


「離して」


「まだ質問に答えて貰ってない」


 慧は私の手を引き、ドアと私の間に入り込んだ。


「何も隠してない。もう話すことは何も無いよ」


 慧は私の右手から手を離し、代わりに左手を掴む。そして、その手を包むように指を重ねた。


「どうしても気になるから。教えて」


 先程よりも柔らかな口調で、慧は言う。勝手な発言だと思った。それなのに私は、心を揺さぶられている。けれども、今までを無駄にするわけにはいかない。これまでを崩すわけにはいかない。慧と距離を置いた意味を、ここで壊してしまうわけにはいかないのだ。


「私ね、姫君が大切なの。すごく。慧よりも、ずっとずっと大切。だから慧より、姫君との時間を大事にしたいの」


「でも、彼女は」


 私は慧の言葉を遮り、続ける。


「いないよ。でも、私が忘れたらいけない。慧といるより、姫君を信じて待っていることに時間を使いたいの」


 ――だから、もう構わないで。


 告げると、慧は私の手を離し、テーブルの前に座り込んだ。


「ごめんなさい」


 私はドアを開け、そっと閉めた。部屋を出る時、視界の端に映ったオレンジジュースと慧の姿が、様々な記憶と共に脳裏をちらつく。私は泣きそうな気持ちを堪え、階段を静かに下りた。外は薄暗く、未だ、大雨が降り続いている。


 叩き付けるような雨の中、私は桃色の傘を広げて歩いた。あまり風が無くてまだ良かったと、どうでも良いことを思いながら、家へと歩いて行く。公園を抜ける。家の玄関扉を開けると、いつもと変わらない真っ暗な室内が私を迎えた。玄関先に鞄を置き、制服の水気を払ってから、お風呂場に向かう。無造作に積み上げられたタオルの山から一枚を引き抜き、髪や服を押さえた。薄暗い中で一人きりという状況が、逆に私を安心させたのか、思わず言葉が零れる。


「……鋭いね、慧は」


 受け止める器のない言葉は誰にも届くこと無く、暗がりに吸い込まれて消えた。私はタオルを顔に押し当て、声を殺して泣いた。混乱する頭と苦しむ心に挟まれて、私はひどく疲弊していた。その時、心身の中に残された冷静な部分が、ひっそりと囁いた気がした。全部、このまま溶けてしまえば良いと。暗闇の中、私の心はどこにも辿り着けないまま、ただずっと私の中を彷徨い続けている。






 慧と話した翌日から一週間、私は学校を休んだ。その間、携帯電話の電源は切っていた。学期末試験の直前に学校を休むことが得策とは思えなかったが、心が付いて行かなかった。


 あの日、慧と話して分かったことがある。私は、真実、本当に姫君を忘れられない、忘れていないということ。彼女の存在を信じ、求めているということ。そして、私は、やはり慧が好きだということだ。それに気が付いたのは、慧の部屋で二人で話している時だった。慧が私を心配してくれているということ、気に掛けてくれているということ。さり気ない心配りや、優しい心遣い。私は嬉しく、だが、苦しかった。抑えていた感情が流れ出して行きそうだった。そして、それに気が付いた瞬間、私は心を押し殺したのだ。


 私が慧と距離を置いたのは、小さな姫君に、もう一度出会う為。あの「始まりの日」を、やり直す為だ。


 小学校四年生の夏、私が慧を好きだということを姫君に告げてから、彼女は変わってしまった。ほんの少しずつ、ゆっくりと緩やかに、彼女は変化して行った。私が慧を好きだと言わなければ。姫君を一番、大切にしていれば。こんなにも悲しい思いに沈まず、今も姫君と一緒にいられたはずだった。いつもアドバイスを与えてくれ、導いてくれた。暗く冷たい家に、いつも一緒にいてくれた、優しい彼女。私が慧に重心を預けて行き始めたことに、きっと、いち早く姫君は気が付いたのだろう。そして、私を繋ぎ留めようとした。私ばかりが姫君にしがみ付いているのかと思っていたけれども、姫君もまた、私に依存していたのだ。きっと、私が知る、ずっと以前から。


『有来しか見ていなかったから』


 あの言葉が、それを証明しているように思えた。


 歩いても歩いても、幾つもの思い出の輪っかが私をきつく捕らえる。それは不幸のようであり、幸福のようでもあった。確かに言えることは、今の私の幸福は、慧と一緒にいることよりも、姫君を信じて待つことだった。いつか会える、もうすぐ会えると信じて。






 一週間後。さすがに期末の試験そのものを休むことは問題があると思い、私は気怠い体を引き摺るようにして何とか登校した。七日ぶりの学校は、どこか不思議な印象を私に与える。その建物も、それに付随する空気も、まるで私の生活から切り離された存在のように見えた。クラスメイトの何人かが私を心配し、声を掛けてくれる。私は出来るだけ笑顔で、それに答えた。


 久し振りに握ったシャープペンシル、そして私の脳味噌は、ある程度の正答率を弾き出したようだった。今までよりは順位や点数が下がるかもしれないが、仕方が無い。むしろ試験前に学校を休んだことを考えれば、あれだけ解答出来れば良い方だと思った。とにかく私は、いつも通りに学校での時間を終え、家に帰るつもりでいたのだ。明日も期末試験は続く。勉強をしなければならない。


 しかし、帰りのホームルームが終わり、昇降口に向かう途中で、唐突に私はひどい頭痛に見舞われた。歩きながら右手で頭を押さえる。気のせいなどというような痛みでは無く、頭の奥が軋むように痛かった。そういえば今日の登校時には、頭痛こそ無かったけれども、かなり体全体が怠かったことを思い出す。一週間ぶりに登校するからかと思っていたが、今の頭痛と合わせて考えると、体調を崩しているのかもしれない。試験前なのに、と思いつつ、私は早く帰って少し横になろうと思った。


「あ、有来」


 不意に、私の後ろから明るい声が聞こえた。振り向いた先には沙矢が立っている。


「良かったら一緒に帰ろう?」


「うん」


 私は返事をしながらも、頭痛が激しくなって来ていることに気が付く。


「もう体調は大丈夫なの?」


 私を覗き込むようにして沙矢は聞いた。


「うん、大丈夫……でも、頭が痛い」


 答え終わるよりも早く、私は片手で頭を押さえたまま歩みを止める。そして、その場に座り込んでしまった。


「有来!」


 沙矢が、慌てて私を支えるようにして膝を着いたのが視界の片隅に映る。更に二度、沙矢が私の名前を呼んだ。しかし、私は返事をすることが出来無かった。


「待ってて、先生、呼んで来るから!」


 遠ざかる沙矢の足音が、ぼんやりとした頭の片隅で聞こえる。私は痛む頭を押さえながら、空いている手で鞄から携帯電話を取り出した。少しの眩暈が生まれ始める。何故か浮かび始めた涙を堪えて、私は震える指で電話帳から「羽野慧」を探し出した。発信ボタンを押すと無機質な呼び出し音が響き始め、ほどなくして慧の声が耳に届いた。


「有来?」


 その途端に堪えていた涙がぼとぼとと零れ落ち、制服に染み込んで行く。


「有来、どうした? 今、どこにいる?」


「学校……」


 私はそれだけ言うと、携帯電話を持つ手から力が抜けてしまった。がしゃん、と少し大きな音が廊下に響いた気がする。

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