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第二章【幼馴染】

 部屋にランドセルを置き、帽子を取る。名札も外した。ランドセルから宿題をするのに必要な教科書とノート、筆記用具を出して、机の上の参考書などと一緒に手提げへ詰める。そして、静かに部屋から出て、居間にいる母の元へと向かった。何故、私はこのようなことに、こんなにも緊張しなければいけないのだろう。どうして私の心臓は、こんなにもうるさく鳴るのだろうか? まるで、これから狩られる獣のように。


「あの、ね」


 いつもの通り、母は居間で洗濯物を黙々と畳んでいた。私は意を決して、もう一度、話し掛ける。


「あの、宿題をやりに出かけて来る」


「いってらっしゃい」


 姿勢を崩さず、私を見ず、母は言った。すかさず私は母に背を向け、足音すら立てないようにして息を殺し、そっと玄関へ向かう。これで儀式は終わった。しばらくはここを離れ、私は私になれる。いつもの約束に出掛けられる。


 靴を履き、入って来た時と同じようにして静かにドアノブを捻り、一歩を踏み出した。そして、そうっと扉を閉める。そこで私はいつものように、ほっと一息をつく。


『……毎回のことながら難儀ね』


 姫君が呟く。


「うん、そうだね」


 私は返事を返す。そして、地面までの僅かな階段を一段飛ばしに下りて行く。そうすればきっと、きっと少しでも体が軽くなって忘れられる気がした。


 私は、まだ小学四年生だ。だが、来年は五年生に進級する。階段を上るように、私は大人に近付いて行く。生きて行けば自然と大人になる日は必ず、やって来る。そうしたら、私は私として歩いて行ける。だから、それまでに沢山の知識と教養を身に付けて行くのだ。私は、この頃ではそう思うようになっていた。


 近くの公園を目指して走る。季節は、やがて初夏を迎えようとしている。昼間は、両手を広げてそれを待っているかのような植樹された木と草の多い公園も、今は薄く夕方を控えた色に染まり、どこか郷愁を誘う。木々は、さわさわとひそやかに揺れていた。その公園の中央に配置された木製のベンチの一つに、彼は座っている。私の足音に気が付いたのか、彼は顔を上げてこちらを見た。


 少しだけ息を切らせて私が彼の前に立つと、


「そんなに慌てなくても良かったのに」


 と、手元の本を閉じながら言う。


 そして彼はベンチから立ち上がると、軽く後ろを払って私に笑い掛けた。


「じゃ、行こうか」


「うん」


 私と彼の家は、歩いて十五分程の近い距離にある。私達は、最近、こうして会うことがほとんど日課のようになっていた。


「今日は何を持って来た?」


「国語の宿題と、英語の参考書」


 私達は並び、比較的、ゆっくりと歩いた。夏を間近に控えた夕暮れに近い時間帯は柔らかく、ほんの少しだけ物悲しい光に満ちている。だが、私は、二人でこうして公園を歩いて彼の家に向かう、この時がとても好きだった。緩やかに流れているかのような時間を錯覚させる、このひと時が。


「英語をもう勉強しているの? 小学校ではまだだよね?」


 私の答えを受け、彼は驚いたように言った。


「うん、でも中学校に入ったらあるんでしょ? それに、小学校で英語を学ばせることも考えられているみたいだし。早くは無いと思う」


「有来は勉強家だね」


 そう言って、彼は微笑む。薄い夕陽に照らされた優しい横顔が、とても綺麗だと思った。


「国語の宿題は何が出た?」


「作文なの。作文用紙、五枚以上は書いてって。題材は何でも良いって言ってた」


 私達は公園を抜け、いつもの細い路地を歩く。


「もう何について書くか、決めてある?」


「うん。実はね、その作文を書くのに図鑑が見たいの。慧は沢山持っているから見せて貰いたいんだ」


「何だ、それが狙いか」


「ありがたく見せて頂きます」


 私達は、顔を見合わせて笑った。たったそれだけのことが、私にはひどく幸福なことだった。学校よりも、家よりも。私には慧といる時間が一番大切だ。反面、私は彼に幸せな時間を与えて貰うばかりで、何も返せていないような気がしていた。


 けれど、以前にそう言った時、


「そんなことは無いよ。俺だって有来といて楽しいんだから、そういう風に思うことなんて無いよ」


 と、言ってくれた。


 私は、その言葉にとても安心し、それからは慧に対して「悪いな」と思うことをやめた。慧の言葉を、信じることが出来たから。学校の教師や同級生や母に覚える、作り物めいた言葉や雰囲気を感じなかったから。本当にそう思ってくれていると思うことが出来たから。そしてそれからは、慧との時間が、より一層、楽しい時間に変わった。私の全ての幸福は、ここにあった。


「ジュースとか持って来るから、図鑑、見ていて良いよ」


「うん、ありがとう」


 やがて慧の家に着くと、彼は私をいつものように二階の部屋へと促した。私は階段を上り、慧の自室の扉を開ける。慧の部屋には大きな本棚が二つあり、一つには漫画や小説が、もう一つには図鑑や参考書などが綺麗に並べられている。私は少し羨ましく思いながら、図鑑が収められている棚を眺めた。


 国語の宿題である、作文の題材は既に決まっている。以前、慧の部屋に来た時の帰り際、気になって見せて貰った図鑑があった。それは「鉱物解説図鑑」だ。色々な鉱物や岩石が、カラー写真付きで詳しく解説されている。今度、良く見せて貰おうと思っていたので、ついでにそれで作文を書いてしまおうと考えたのだ。図鑑を手に取り、ぱらぱらとページを捲っていると、姫君が話し掛けて来た。


『この図鑑、好きなの?』


「うん。前に見せて貰った時に、すごく気に入ったの」


『これのどこが良いの?』


 姫君は、心底から不思議そうに尋ねた。


「どこっていうか、全体的に、わくわくするの。写真も綺麗だし。解説は難しい単語があって全部は分からないけど」


 私は、小さい頃から石が好きだった。勿論、今も。道端に普通に転がっている小さな石でも、何となく目に留まることがある。気に入ればポケットに入れて持ち帰る。それは、つやつやとした光沢のある真っ白な石だったり、ただの黒ずんだ石だったり、縄のような模様の入ったものだったり、様々だ。


 今でも良く覚えているのは、幼稚園のお泊まり保育の日、先生と皆が川で遊んでいる時に、私は川底の綺麗な石を拾い集めることに夢中だったことだ。先生から貰った透明なビニール袋いっぱいに集まった、まんまるな石ころ。それらは宝箱に詰まった宝石のように思えた。帰りの荷物が、かなり重くなってしまったけれども後悔は無く、それどころか幸せいっぱいの気持ちでそれを抱えて帰ったことを覚えている。


 どうして石がこんなに好きなのかは分からないが、私は改めて鉱物図鑑を見ながら何とも言えない幸福感に浸った。


『あら、これは綺麗ね』


 開いていたページには、美しい赤い色の石が載っている。


「琥珀、って書いてある」


 解説には、「絶滅した針葉樹の化石樹脂。樹脂、あるいは透明から半透明な光沢を持つ。虫や小さな脊椎動物が、中で化石化しているものもある」と書かれていた。


「虫が、石の中に入っているものもあるんだね」


 私が言うと、


『太古のロマンね』


 と、姫君は呟いた。


 その時、こんこんとドアがノックされ、慧が入って来た。


「目当ての図鑑はあった?」


 ジュースやお菓子の載ったお盆を部屋の中央にあるガラステーブルに置き、慧は私の手元を覗き込む。


「有来は石が好きなの?」


 私が広げている図鑑を見て、慧は少し意外そうな声を出した。


「うん。うまく言えないけど、好き。石ころを拾って帰ったりもするよ」


「知らなかったな。あ、琥珀が好きなの?」


 開かれているページを見て、慧が尋ねる。


「初めて見たけど好きになった。綺麗な色だよね。しかもね、中に虫が入っていたりもするんだって」


 私は、知ったばかりの事実に少しばかり興奮しながら話した。


「この写真は赤い石だけど、透明なものもあるんだって。良いなあ」


「本当に好きなんだね、石」


「うん。わくわくする」


 私は、図鑑のページを更に捲ってみる。見たことのない石の写真が沢山あり、聞いたことのない名前がそれぞれに付けられていた。解説文には、難しい単語が沢山、連ねられている。私は、時間を忘れてそれらに見入っていた。思えばこの時、慧との会話も無かったように思う。夢中になっている私に気を遣ってくれたのかもしれないと、あとから私は思った。


 そして、鉱物図鑑を見ている私を夢から引き戻すかのように、やがて、夕方六時を知らせるメロディーが流れた。「ふるさと」の曲だ。少し切ないその音色は、私に帰宅を促すものだった。名残惜しく顔を上げると、慧と目が合う。


「あーあ、って顔をしてる」


 苦笑気味に慧は言った。


「そう思ってる。良いな、慧は。こんなに素敵な図鑑を持っていて。こんなに沢山、本があって」


 私は、背後にある二つの本棚を見遣りながら答えた。


「その図鑑で作文を書くんだよね? 貸してあげるから家でゆっくり読むと良いよ」


「本当!」


 私は自分でも驚く程に大きな声を上げてしまい、慌てて謝った。


「ご、ごめんね。あんまりびっくりしちゃって」


「俺は有来の声にびっくりしたよ」


 笑いながら慧は言った。私は、もう一度「ごめんね」と重ねる。ふと見ると、慧の部屋の窓からの景色は本格的に濃い茜色に染まろうとしていた。それはとても綺麗な色なのに、とても悲しくなる色だ。きっと、「ふるさと」のメロディーと同じように、私に帰る時間を知らせるからだろう。


「勉強、見てあげられなかったね」


「私が図鑑ばかり眺めていたから。でも、大丈夫。帰ったらちゃんとやる」


 そう、私はもう家に帰らなければいけない。


「図鑑、本当に借りて良いの?」


「良いよ。でも、作文が出来たら見せて」


 慧の言葉に、私は頷いた。


「あ、ジュース、飲んでいったら?」


「うん。いただきます」


 私の大好きなオレンジジュース。細く透明なガラスのコップの中に湛えられたその液体は、太陽の色に似ていた。慧は、家まで送ると言ってくれたけれど、私は一人で帰ることにした。まだ外は暗くないし、大丈夫だからという私の言葉に、慧は仕方無くといった感じで頷く。


「寄り道しないで、気を付けて帰れよ?」


「うん。大丈夫だよ、近いんだから」


 またね、と手を振って、私は慧の家を出た。来た時よりも外は濃い夕陽影に染まっていて、沈み掛けている太陽が見えた。まだ星は見えなかったけれども、遠く上空に、うっすらと白い三日月が出ていた。


『月が見えるわね』


「うん」


 姫君の言葉に、私は小さく返事を返す。不意に、さらさらと乾いた風が吹き、木々の枝や葉、そして私の短い髪を静かに揺らして行った。まるで黄金色に包まれたとも言える公園を、一人で、ゆっくりと歩く。その時、私はどうしてか悲しくなった。胸が苦しくなった。反射的に私は胸の辺りを強く押さえる。


『有来?』


 私は返事をする余裕をなくしていた。何故、こんな気持ちになるのか、自分でも良く分からなかった。慧に会って楽しかった。嬉しかった。図鑑を貸して貰えた。私の好きなオレンジジュースを出して貰えた。そして、またね、と言って手を振った。そう、また明日にでも慧とは会えるのだ。図鑑を借りたから、きっと良い作文が書ける。初めて見た琥珀の写真。とても綺麗だった。


「悲しい」


 誰に言うでも無く、私は言った。声に出すつもりは無かったけれど、気が付いたら、もう言葉になっていた。そして、実際に声に出したことで、悲しさが急速に加速したように思える。間を空けず、微かな涙が落ちて消えた。


『有来、泣かないで』


 私は公園の中で一人立ち止まり、強く目を擦った。


「どうしたんだろう」


 風が私の後ろから駆け抜け、先程よりも強く私の髪を揺らして行く。


『ねえ、有来。星って、昼間は見えないのよ。こんな夕暮れ時もね。知ってるでしょう?』


 その唐突な話題に、私は不思議に思いながらも頷く。


『でも、昼間でも星は、そこにあるのよ。聞いたことない?』


「ある、けど」


 少し掠れてしまった声で返事をすると、姫君は続けた。


『ね、見えなくてもそこに星はあるのよ。それぞれちゃんと輝いている。有来の未来だって、それと同じように』


 その言葉で、私は姫君が言おうとしていることに気が付く。


『分かったみたいね。有来の未来だって今は見えなくても、ちゃんと輝いている。ちゃんと有来を待っている。今は見える時ではないだけ』


 私は自分のつま先から視線を剥がし、空を仰いだ。今、まさに沈もうとしている太陽と儚げな白い小さな三日月が見える。星は、まだ一つも見えなかった。いつの間にか涙は止まっている。少し冷たさを感じる風が、静かに頬の上を滑って行った。


『帰りましょう』


「そうだね」


 私は、残り僅かの帰路を歩き始めた。右手には図鑑の入った手提げを持って。きっと良い作文を書いて、慧に読んで貰うのだと決めて。重く感じる足取りは、きっと気のせいだと思い込んで。






 慧に図鑑を借りた、翌日の土曜日。私は、少々、学校へ行くことが憂鬱だった。昨日のアンケートのことで担任の機嫌を損ねたのではないかと、やはり気になっていたからだ。気にするぐらいなら担任に意見などしなければそれで済んだ話なのだが、とてもそうはいかなかったということが私の真実なのだろう。とにかく、いわゆる自業自得というものだと私は諦め、通学班に加わって学校までの重い道のりを歩いた。


 しかし、朝の会、三時間目までの授業、そして帰りの会に至るまで、担任は特に何も私に言っては来なかった。少し拍子抜けしながらも私は確かに安堵し、ランドセルを背負い、下駄箱へと向かう。


「あ、有来。一緒に帰らない?」


 靴を履き掛けた私の後ろで、沙矢の声がした。


「うん、一緒に帰ろう」


 私と沙矢は並んで昇降口を出て、正門を抜けた。


「ねえ、国語の作文で何を書くか決めた?」


「うん、決めたよ。私は鉱物について書くことにしたんだ」


 三年生から同じクラスになった樹沙矢は、私より少し背が高く、細身の女の子だ。同じ学年だが、しっかりしたお姉さんのようなところがある。良く話すようになってから、私は密かに憧れていた。


「鉱物って、石とか岩とかのこと?」


 不思議そうに沙矢は尋ねる。


「うん、そんな感じ。図鑑を借りたから結構良いのが書けそうなんだ」


 私達は気が合った。とは言っても、クラスメイトの多くの女子のように、ほとんどいつも一緒にいるわけでは無かった。


 彼女達は、たった十分間の休み時間にでも、一つの机に集まって話していたり、お手洗いへも連れ立って行ったりしていた。私も初めの内は流されるままにそうしていたのだが、学校にいる間、いつもそうしていることにだんだんと疲れ始めた。そして、やがて私はその流れから抜けた。それを良く思わず、陰口を言う子もいた。逆に気にせず、普段通りに話し掛けて来る子もいた。沙矢は後者だった。


「私は、まだ決めてないんだ。作文用紙五枚以上でしょ?」


 隣でそう言う沙矢は、面倒そうな顔付きで前を見ていた。


「何が良いかな。何でも良いって言うんだから、ヨーグルトについてとかにしようかな」


「ヨーグルト?」


 意表を付かれて聞き返すと、


「好きだから。ヨーグルト」


 沙矢は私を見て、笑いながら言った。


「ヨーグルトはとてもおいしいです、ビフィズス菌が、みんなでヨーグルトをおいしくしてくれているのです、とか。どう?」


「何だか童話みたいだね」


 私も笑った。私と沙矢は、他愛も無いことを話しながら帰り道を歩いた。夏を間近にした真昼の日差しは若干強く、暑さを感じる。それでも私は、この時間がもっと長く続けば良いと思っていた。


「良し、私はヨーグルトについてにする」


 別れ道、沙矢は決意したかのように私に告げた。その様子が何だかおかしくて、私はまた笑った。


「とりあえず今日は暑いから、ヨーグルトを凍らせて食べてみるよ。実験してみる」


「おいしそうだね。私もやってみようかな」


 私達は少しの間、別れ道で立ち止まって話をした。そして、またね、と言う。手を振って別れる。沙矢は左へ。私は直進。沙矢と別れて少しすると、姫君が話し掛けて来た。


『本当にヨーグルトについてにするのかしら』


「多分。本気みたいだったし」


 学校からは、一人で家まで帰ることもあったし、先程のように友達と途中まで一緒に帰ることもあった。学校から家への帰り道の途中で、友達と別れてしまえば今までは一人だったけれど、昨日と今日は姫君がいたので寂しくなかった。一人で帰り道を歩くことが特別寂しいわけでは無かったけれど、何となく気分が沈む時はあった。けれど、もうそんなことは無い。そう思うと、気持ちに羽が生えたような気がした。


『今日は作文を書くの?』


「うん、そうする。来週の金曜日までだし」


 私の足取りは、今までに比べれば決して重くは無かった。姫君と話しながら帰り道を辿れることが、とても嬉しかったのだ。たとえ辿り着く先が、いつもと変わらない、あの家だとしても。


『そういえば、琥珀って綺麗だったわね』


 思い出したように姫君が言う。確かに図鑑で初めて見た琥珀は、夕暮れ時の太陽のように綺麗な赤い色をしていた。まるで吸い込まれてしまいそうな程に。


「琥珀、落ちてないかな」


 思わず、私は辺りを見回した。こんな道端に琥珀が転がっているわけは無いとは分かっていたのだが、写真では無く、実際に手に取って見てみたかった。


『石が好きな有来の気持ちが、少し分かった気がするわ』


「そう? 嬉しいな」


 押しボタン式の横断歩道を渡り、私達は家に帰り着いた。いつも通り、そうっと玄関扉を開け、静かに閉める。靴を脱ぎ、自室への扉を開けて部屋に一歩入り、私は、やはり扉をそっと閉めた。そこで私はようやく安心し、息を洩らす。


『本当に難儀な帰宅ね』


「うん」


 私はランドセルを下ろし、帽子を脱いで、さっそく慧から借りた鉱物図鑑を机の上に広げた。途端に色とりどりの石の写真が視界に飛び込んで来る。慧の部屋での時のように、やがて私は図鑑の世界に引き込まれて行った。分厚いそれは、読んでも読んでも終わりなどないかのように次のページがあった。数多くのカラー写真と解説文とで構成された図鑑は、私に時の流れを忘れさせた。


 だが、その幸福に亀裂を入れるかのようにして、唐突に居間と廊下を繋ぐドアが開く音がした。続いて慌ただしい足音と、玄関扉の重たい開閉音。


『出掛けたのね』


 姫君が、私の様子を窺うように言った。


「そうみたいね」


 私が答えると、


『お昼ご飯を食べてしまったらどう?』


 と、姫君が提案する。


 確かに、今がチャンスだった。私は、母と同じ部屋で食事をすることが苦手だ。母といると、その空間が持つ重苦しい重圧に負けてしまいそうになる。なるべくなら接する回数を減らしたいのが本音だった。だから私は頷き、部屋を出る。居間へのドアを開けると、木製のテーブルの上には、お茶碗と箸とコップだけが置いてあった。


『何、これ』


「お茶碗と箸とコップ」


『そんなことを聞いているわけじゃないわ』


 姫君の言わんとしていることは分かっている。けれど、私は敢えて見たままを告げたのだ。そうして自分の気持ちを誤魔化すことが、ここで私が生活して行く為には必要なことだからだ。


『いつもいつもこんな感じじゃない。特に、ここ数年』


「良く知ってるね。見てたの?」


 冷蔵庫を開けながら私が聞くと、


『だから、私はずっと一緒にいたの。有来は覚えていないみたいだけど』


 と、少し皮肉っぽく姫君が返して来る。


「そうだったね、ごめん」


『失礼しちゃう』


 機嫌を損ねてしまったらしい姫君へ、私はもう一度、ごめんねと言った。すると思いのほか、早くに姫君は機嫌を直したらしく、調子を取り戻して私に言う。


『まあ、良いわ。それより早くしないと彼女が帰って来るんじゃない?』


「うーん、多分、遅いと思うよ」


 母の気に入りの黒いバッグが定位置に無かったし、三面鏡の前には色々な化粧道具が散乱していた。加えて、開け放たれたままのクローゼットからは、数着の洋服が零れ落ちている。


「こういう時は、大抵、帰りが遅いの。朝方の時もあるし」


 私が言うと、


『ああ、そういえばそうだったわね』


 と、姫君が答えた。


 私はそれに若干の引っ掛かりを感じ、尋ねた。


「ずっと私と一緒にいたんだよね? 知らなかったの?」


 不意に沈黙が流れた。そのことに何故か、私は言い知れない不安を感じる。


「姫?」


『――私は、有来のことしか見ていなかったから』


 ぞくりとした。いつもとは違った声音。小さな声なのに、静まり返っていた居間に、冷たく鋭く降り落ちた氷の塊の如くの大きな存在感があった。私は、思わず息を飲む。それは、今までで初めて聞いた声だった。


 冷蔵庫を開けたままで私が固まっていると、トゥルルルルルと、高らかに電話の音が鳴り響いた。私は驚き、慌てて冷蔵庫を閉める。電話機のディスプレイには、慧の電話番号が表示されていた。


「もしもし」


「あ、有来? 今から来ない?」


 慧の明るい声に、私は思わず安堵する。


「有来?」


「あ、ごめん。えっと、遊びに行っても良いの?」


「都合が良いなら遊びにおいで。実は、スパゲティを作りすぎてさ。お昼食べた?」


「まだ」


「良かった! 食べに来てよ」


 慧は嬉しそうに言う。その様子に私は少しだけ笑った。


「うん。じゃあ今から行くね」


「待ってる」


 私が受話器を置くと、再び居間は静けさに包まれる。その静寂が、ひどく怖かった。さっきの姫君の声音が、言葉が、頭の中に浮かび上がる。


『有来?』


「えっ」


 思わず、私の体がびくりと震えた。


『どうしたの? スパゲティ、食べに行くのでしょ?』


「あ、うん。そうだね」


 返事をしながらも、私は先程に感じた違和感を拭えなかった。姫君の声は既にいつもの調子に戻っていて、先の冷たく静かな声音はかけらも感じられない。しかし、逆にそれが私に更なる違和感を与える結果となっていた。そして、さっきの言葉の意味を、聞きたくても聞けなかった。まるで、それを許さないかのような雰囲気さえ、私は姫君から感じ取っていた。釈然としないまま私は玄関へと向かう。靴を履いていると、姫君が話し掛けて来た。


『良かったわね、昼食をご馳走になれて』


「うん」


 姫君の声は、いつものように穏やかで柔らかい。それでも、私の不安感は頭に張り付いたまま動かなかった。それを振り払うかのように、私は勢い良く扉を開けて外へ飛び出す。昼過ぎ、強さを増した陽光が、とても眩しい。公園を抜け、慧の家に着いた時には、私はうっすらと額に汗を掻いていた。太陽は、これから夏が始まろうとしていることを確かに力強く告げていた。


「冷たいオレンジジュースも用意してあるよ」


 私を迎えてくれた慧は、いつも通りの優しい笑顔だった。私の頭の中に未だ強く残されている姫君の言葉と声音は、それによって少しだけ影を潜める。


「うん、ありがとう」


 慧の後を付いて廊下を歩く。居間に入った瞬間に、とても良い香りがした。テーブルの上には、丸く白いお皿に盛り付けられて湯気を立てているトマトスパゲティが置かれている。


「つい、作り過ぎたんだよね。良かったよ、有来が食べに来てくれて」


 勧められるまま椅子に座り、いただきますと告げてから、一口、トマトスパゲティを食べた。


「おいしい!」


「良かった。ありがとう、嬉しいよ」


 スパゲティには薄切りにした玉葱とマッシュルーム、小さく切られたトマトの果肉が沢山入っていて、塩味もちょうど良い感じだった。


「この緑のものは何だろう」


 そしてスパゲティ全体に、二、三ミリの小さな緑色の葉っぱが散りばめられていた。


「バジル。良い香りだろう?」


 確かに、トマト以外の香りがすると思っていた。居間に入った時にも、そう感じた。


「バジル?」


「ハーブだよ。トマト料理に、とても合うんだ」


 私は、初めて聞いた「バジル」という響きがとても気に入り、そして、ハーブの入った料理なんて食べたことが無かったので少し驚いた。


「ハーブって聞いたことはあるけど、もっと世界が違うものだと思ってた。こうやって料理に使えるような、身近なものなんだね」


 慧がハーブを使った料理をすることにも驚く。今まで何度か慧の料理を食べたことはあったが、ハーブの話は一度も聞いたことが無かった。そんな私の心を見透かしたかのように、慧は笑って言う。


「実は、これがハーブ入り料理の試作品第一号。バジルがトマトに合うっていうのも、最近、知ったんだよ」


 そして、慧は透明な細いグラスにオレンジジュースを注ぎ、私に差し出す。


「ハーブって難しいものだと俺も思っていたけど、全然そんなことは無いよ。スーパーの食品売場に沢山の種類が並べられていたし」


「知らなかった。何だか楽しそうだね」


 私はトマトの果肉を口に運び、確かにトマトと塩だけの風味ではないことを改めて実感した。爽やかなバジルの風味、それがトマトの味を、より一層に引き立てている。私は、こんなにおいしくて新鮮な印象を与えるスパゲティは初めて食べた。夢中でもぐもぐと口を動かし、ストローでオレンジジュースを飲む。良く冷えたオレンジジュースが喉を滑り下り、お腹の中に流れて行く感じが分かった。一息ついて私が顔を上げると、慧と目が合う。


「実は、有来に食べてほしくて二人分、作ったんだ」


 その言葉が、私の心の中にひたすらに真っ直ぐに落ちる。まるで地面に雨が染み込むように、ごく自然に私に辿り着く。


「ありがとう、すごくおいしいよ。こんなにおいしいスパゲティ、初めて食べたよ」


「バジルを使うのが初めてだから、おいしく出来るか分からなくてさ。でも、食べてみたら結構おいしいと思って。それで、電話したんだ」


 慧の声が途切れると、空間に静寂が訪れる。私は、何か言わなければと思うも、何をどう言えば良いのか良く分からなくなっていた。ただ、慧の言ってくれたことに対するお礼を。それだけは、きちんと伝えたいと思った。


「あの、ありがとう。スパゲティ、とてもおいしいよ。それと」


 どうしてか、私は一度言葉を切った。いつも慧に話すように話せなかった。


「電話してくれて、ありがとう」


 伝える。それだけの行為が、ひどく私を緊張させた。


「良かった。喜んでくれて」


 慧は、いつも以上に優しい顔をしているように思えた。それがますます私を緊張させ、どうしようもない焦燥感のようなものを生まれさせる。その時だった。唐突に、姫君が私に尋ねる。


『有来は、この人が好きなの?』


「えっ」


 私は驚き、思わず大きな声を出した。すると慧が不思議そうに私を見る。


「どうかした?」


「ううん、何でも無いの」


 私は慌ててそう答え、食べかけのスパゲティに手を伸ばした。助かったことに、慧はそれ以上には追求して来なかった。そして、姫君も口を閉ざす。


 やがてスパゲティを食べ終えた頃には、午後二時を回っていた。慧は、遊んで行くかどうかと聞いてくれたが、私は作文を書き始めたかったので、そう告げる。


「有来の作文、楽しみにしてるよ」


 と、慧は笑顔で見送ってくれた。私はもう一度、スパゲティのお礼を言い、手を振って慧の家を後にした。


 ふと空を見上げると、先程よりも陽光の強さが更に勢いを増しているように思える。公園内の木々の全てには色濃い緑の葉が宿り、夏の太陽の光を求めて手のような枝々を伸ばしていた。地面には、まだら模様の葉の影が落ちている。木々の間を抜けて歩く私に、姫君が先程と同じ質問を繰り返した。


『有来は、あの人が好きなの?』


「さっきは本当にびっくりしたんだから。どうしたの、急にそんなことを聞いて」


 私の言葉に返事をすること無く、姫君は少しの間、押し黙る。しかし、すぐにまた同じ質問を繰り返した。


『ねえ、有来はあの人が好き?』


 それは強い口調では無かったが、曖昧な答えは許さないような、はっきりとした強い意思を感じた。


 私は、少し考える。確かに、慧のことは好きだ。慧は、私にとても優しい。いつも私の喜ぶことを自然にしてくれる。柔らかく笑ってくれる。私は慧と一緒にいると、私自身すら知らない、心の奥底のようなところが温かく満たされるような気がする。それは、他の誰といても味わうことの出来ない感覚だった。母は勿論、教師、クラスメイト。友達でさえ、対象から外れる。沙矢や姫君と話していると温かな気持ちにはなるが、それは慧といる時の気持ちとは少し違うような気がした。


「良くは分からないんだけど、慧といると嬉しい。もっと一緒にいたいと思う。慧が笑ってくれると、私も笑顔になれる」


 私は、考えつつ話した。私の今の心にぴったりと合う言葉を探しながら。慧のことを頭に、心に思い浮かべながら。


「慧は、とても優しいから。とても温かいから。いつも、ありがとうって思ってる。慧が喜ぶことを私も贈りたいって思ってる」


 知らず私は俯き、自分の靴のつま先を見つめていた。


「何も返せていないけど。うまくありがとうって言えていないかもしれないけど。慧がいなかったら、私は毎日をどうやって過ごしたら良いか分からない。苦しい気持ちの逃がし方を、きっと知らないままだった」


 風が吹き、葉ずれの音がする。その音が何故かとても大きく聞こえ、そして私の気持ちを後押しした。


「慧は、私のことを考えてくれる。私が悲しまないように、落ち込まないようにしてくれる。とても温かい気持ちにしてくれる。私は……慧が好き」


 言い終えて顔を上げると、太陽の光が目に飛び込んで来た。私が思わず目を細めた時、それまでずっと黙って私の言葉を聞いていた姫君が口を開く。


『有来が幸せなら、良いわ』と。


 それはひどく優しく、どこか切なさすら感じさせる声だった。だから、私は慌てて姫君に言う。


「姫君のことも大好きだよ」


 決して嘘偽りない、正直な私の気持ちだった。実際、私は姫君がいてくれるおかげで、一人きりの時の寂しさをあまり感じなくなって来ていたのだから。聡明なところに憧れや敬意も感じたし、アドバイスも貰った。私は確かに姫君に助けられている。


『ありがとう』


「本当に大好きだからね」


 重ねて告げると、姫君は小さく笑い声を零す。


『二回も言わなくても分かるわ』


 私達は夏の始まりの太陽を浴びながら緑の間を歩き、公園を抜けた。その日は、初めて私が慧への気持ちを自覚した、私にとっても始まりの日となった。

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