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第一章【名前】

 学校というものは往々にして人を苦しめる。それが義務でなければ投げ出すことも出来よう。だが、日本というこの国では、小学校の六年間と中学校の三年間の学習は、国民に義務付けられている。勿論、私にもだ。


 その日の五時間目は「学級活動」の時間だった。いつも始業のチャイム音とほぼ同時に教室に入って来る担任教師は、この時もやはり始業開始のチャイムの鳴り始めに重ねるようにして教室の前扉を開けたのだ。


「今日は簡単なアンケートに答えて貰います」


 担任の登場と共に静かになっていた教室全体が、再び花が開くようにざわめきを生む。私も少しばかりの興味を持ち、担任が持っている白い紙束を見つめた。


「難しく考えないで正直に書いてね」


 座席の一番前に座る生徒それぞれに用紙が渡され、順繰りに後ろへと回されて行く。前から三番目に座っていた私にもやがて用紙は渡り、残りを後ろの席へと回した。


「上に名前を書くところがありますね? 忘れずに名前を書いて、下にある質問に正直に答えていってください。思ったままの答えをね」


 担任教師の声は、ほとんど常に高く鋭い。この時も例外ではなく、そして私もまた例外なく、その声の音に辟易を覚える。正直に言うと耳障りであった。いつまで経っても私がそれに慣れることは無く、卒業を迎えるその日まで、終ぞ私が許容をすることは無かった。鋭角な刃物、あるいは細く硬いピアノ線を思わせるその声は、「正直、思ったまま」というところを心なしか強調したように思う。


『四年二組 都筑(つづき)有来(ゆき)


 私は名前を書き、そのまま下にある質問内容を見る。


 ――仲の良い友達は誰ですか? 三人まで名前を書いてください。


 次の質問を見る。


 ――あまり好きではない友達はいますか? いたら三人まで名前を書いてください。


 更に次の質問をも見る。


 ――あまり好きではない友達については、どうしてそう思いましたか?


 私は、鉛筆を固く握ったまま氷になったかのような心持ちでそこにいた。一番最初の質問に目を戻し、そこからまた順に三個の質問を読み返す。だが、読み返したところでそれが変わるわけも無く、また、私の心情も変わるわけが無かった。用紙を睨む。暗い緑に染まっている鉛筆と手のひらとの間に、いつの間にかじっとりとした嫌な汗が滲んでいた。


 私は皆の様子が気になり、少しだけ顔を上げて周囲の様子を窺う。そこには、それぞれに真剣な顔付きで鉛筆を動かし、アンケートに取り組むクラスメイト達の姿が、整然と、当然のように存在していた。


「急がなくて良いからね。この時間までに書き上げてくれれば良いから」


 机と机の間の通路を歩きながら、担任教師が生徒の様子をまるで監視でもするかのように見ている。不意に顔を上げていた私と担任の目が、かちりと合った。私は慌てて下を向き、鉛筆を持ち直す。右手の内側には、鉛筆の持ち手の形に、くっきりとした跡が付いていた。


 アンケート用紙が配られてから十分程は過ぎたのだろうか。しかし私は、未だどの質問にも答えられずにいる。私は、ひどく困惑していた。仲の良い友達がいないわけでは無い。嫌いなクラスメイトがいないわけでは無い。だが、それを聞き出してどうしようというのだろうか。私が友達と思っているクラスメイトの名前を書いても、相手もそうしてくれるとは限らない。私が嫌いなクラスメイトとして名前を書いたら、あとでその子は担任に怒られるのだろうか。もしかしたら私が書いたと相手に知られて、私がぶたれたりするのかもしれない。


 何故、皆は躊躇うことなく、これを書けるのだろう。向き合えるのだろう。何故、担任教師であるだけのあの大人に、私の交流関係を明らかにしなくてはならないのだろうか。


 私は今度こそ、氷のように冷たくなった。動けなくなった。ややあって何となく右手を広げてみると、またも力強く握ってしまっていたらしく、鉛筆の跡が、先程の跡に連なるようにして、しっかりと刻まれていた。私は、ぼんやりとその跡を見つめる。どうしたら良いのだろう。このまま時間が過ぎ去るのを待とうかとも思った。だが、真っ白なアンケート用紙が、先に私が睨み付けた仕返しのようにして私を責めるかの如く物言わず、じっと睨んでいるように思えて、やはりこのまま何も書かずというのは罪悪感が残る。だが、何をどう書けば良いのか分からない。思考が行ったり来たりを繰り返すだけで少しも進みを見せない。進むものは時間ばかりだった。


 ――「彼女」が囁いたのは、その時だった。幼い私の幼い脳味噌が困惑と混乱で満ち満ちた、まさにその瞬間をまるで狙ったかのように、彼女は私に言葉を掛けた。


『早く書かないと時間になるのに、一体、何をしているの?』と。


 心臓の音が一際強く、大きく鳴ったように思えた。私は再び周囲を窺うように左右をちらちらと見たが、誰も会話など交わしていず、先程同様にアンケートに取り組んでいる。現実逃避したいがあまりに幻聴でも聞こえたかと思い、私は視線を元に戻す。しかし、そうして私がアンケート用紙で視界を埋めた途端、またもその声は響いたのだ。


『もう一回だけ聞くわ。何をしているの? 白紙で提出するつもりなら止めないけれども』


 決して気のせいでは無かった。確かに声が脳裏で廻るようにして聞こえている。しかしながら誰も話をしていない。私は突然の出来事によって与えられた不安と緊張を大きく抱え込み、思わずまたも鉛筆を強く握り締めた。


『心拍数が上がった。そんなに驚かなくても良いのに。それより、今はそのアンケート用紙を何とかすることが最優先事項じゃないかと思うんだけれど、どう思う?』 


 その声が指摘した通り、私の心音は自分で良く分かる程に速度を増して打っている。だが、私に不安と緊張はありこそすれ、恐怖は無かった。説明は出来無い。けれども、ともすればほんの微かではあるが、それは懐郷に似た感情を心の奥底から湧き起こす、呼び起こすように思えた。その遠い昔日の甘さを掻き消すようにして、更に声は私に問い掛ける。


『あと十分しかないのよ。良いの?』


 ――良い。


 私は、ほとんど反射的に返事をしていた。


『意外に豪胆なところもあるのね。でも、賛成。こんな質問は愚の骨頂。プライバシーの侵害。いくら何でも小学生だからって馬鹿にしているとしか思えないもの』


 私は心から同意した。


 やがて時計の針は進み、五時間目の終了を告げるチャイムの音が高らかに教室内に響き渡る。アンケート用紙はそれぞれ裏返され、席列の最後尾の人が順に回収して行く。全ての用紙が担任の手に渡ると、いつもの調子で彼女は言った。まるで何の問題も無い、当然のような調子で。


「はい、みんなありがとう」と。


 間を空けずに終業の挨拶をして、担任は心なしか満足そうにアンケートを抱えて教室から出て行った。私は、何故かその姿を見送ってホッと息をついた。それはまるで、大きな災厄がようやく去ったような、そんな気分だった。


 私は、ふと自分の心の内側に意識を向けてみる。しかし、先程に聞いた声はうんともすんとも言わなかった。だが、聞き違いとは決して思えない。もしも幻聴であるならば、私は幻聴と会話を成立させたことになるだろう。


 ――結論から言えば、その思考は杞憂に終わる。この日の掃除の時間中に、またも同じ声が私に話し掛けてきたのだ。


『ねえ。さっきのアンケートのことだけれど。きっと担任に呼び出されるでしょうね』


 声には揶揄の含みがあり、ふわふわと軽く宙を舞う花びらのような印象を持たせるに至っていた。少なくとも私にとってはそう聞こえた。


 私は一人で黙々と理科準備室の掃除をしていた。そこには所狭しと色々な物が置かれ、準備室というよりも物置のような様相を呈している。小さな部屋にも関わらず、古びた木製の机が三台も置かれている為、床に関しては見えている面積の方が少ない程だった。私は、その床を出来る限り箒で掃いた。少々、埃が舞う。症状の程度が低いとはいえ、喘息を持つ私にはあまり好ましくない状況だ。その間も、声は話を続けている。


『おそらく、こう言われるんじゃないかしら。「どうしてアンケートに何も書いていないの。何か理由があるなら先生に教えてくれる?」って』


 床を掃き終えた私は、うっすらと埃をかぶっている机や椅子、鏡や実験器具などの空拭きに取り掛かる。


『何か対策、考えてあるの? 絶対にしつこく聞いてくると思うけど。悩みがあるなら話してちょうだい、とか』


 壁に掛かった丸い時計を見上げると、掃除の終了時間まであと少しとなっている。私は手早く空拭きを進め、ある程度は綺麗になったであろう理科準備室を軽く見回す。そして思わず、小さく溜め息をついた。


「誰?」


 実際に声に出して、私は姿も見えない「誰か」に尋ねる。どうせここには私しかいないのだから構うことは無いだろう。


 だが、それ以前に私は少なからず不安を覚えていた。確かに先程の授業中、私は、その声に微かではあるが懐郷に似た感情を見出した。それは、今、こうして聞こえている声にも覚え続けている。しかしながら冷静に考えてみるに、幻聴ではないかという思いの方が遥かに強い。私は、未だかつてそのようなものを自覚したことは無かったが、今までに一度も無かったからといって今後も無いとは限らないし、物事や事象の全てに何らかの前兆が存在するとも限らない。事のほとんどは唐突に生じ、そして、それらを受け止めるだけの充分な準備が出来るとも限らないのだ。


『誰、か。がっかりね』


 やはり私の問い掛けに応える声がある。しかし、その声音は今までと比べて深い溜め息のような悲嘆に満ちており、落胆していることが明らかだった。私は幼心にも自分がひどく残酷なことを言ってしまったのかと思い、理由も良く把握していないままではあったが、反射的に謝罪の言葉を口にしていた。


「ごめん」


『……忘れても無理は無いけど。でも、がっかり』


「ごめん」


『それしか言えないの?』


「他にどう言ったら良いか分からないから」


『まあ、良いわ。こうして話が出来るんだから。忘れてしまっているかもしれないけれど、私達は今までにだってこうやって話はしてきたの。本当に覚えていないの?』


 嘘をついているようには思えなかった。少なくとも私には。それに先程から生じている自身の懐かしさめいた感情が、その発言の裏付けをしているように思えて、私はその言葉を無碍に否定する気にはなれなかったのだ。


 ただ、明確な思いでは無い。懐かしいとは言っても、記憶の川の奥底、もう目には見えない忘れ去られた川の底で、あたたかい泥に包まれて眠っている記憶を思い起こすような、それは遠く不確かな感触に過ぎない。本当におぼろげで頼り無く、不確実なものだ。すると、まるで思考を読み取ったかのようにして、その声は私に告げた。


『小さい頃の記憶なんて、曖昧で、かつ、不確かなものよ。だから覚えていなくても仕方無いの。だけど、少しでも懐かしいと思ってくれたんでしょう?』


 私が肯定すると満足したように彼女は言った。


『それなら良いの』と。


 そう、声は女性のものだった。成人した女性のようでもあり、少女のようでもある、そのはっきりとした声の高さ、口調、音。それらはひどく澄んでいて意思の強さが感じ取れた。高い声とは言っても、担任教師のような耳障りなものでは無い。むしろ、凛とした、耳に心地好いものだった。加えて、落ち着いた声で、彼女は私に言う。


『私は有来の友達』だと。


「友達?」


『そうよ。小さな時から一緒だった。思い出さなくても構わない。でも本当のことなの』


 まるで姉のようだと、私はこの時に思った。私に姉弟はいないが、きっと姉がいたらこのような感じではないだろうかと。説得力を持つ声の深さ、包むような慈しみ。それらが混じり合い、緩やかな安堵を自然と私にもたらす。


「うん、ありがとう」


 与えられた安堵の大きさからなのか、私は不意に、そう口にしていた。また、その感覚が、彼女の存在感をゆるゆると明確にして行く。


 ほどなくして、掃除の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。もう何度も耳にし、聞き慣れているはずのそれは、何故かこの時だけは種類が違うように思え、残響がくるりと内耳の底で一巡りする。まるで、今、その瞬間から、それまでとは異なる毎日が始まろうとしているかのような。変化、あるいは決別を示す鐘の音のように、私には思えてならなかった。


 掃除道具を片付けて理科準備室を出る。隣室である理科室の掃除にあたっていたクラスメイト達の姿は、とっくに無かった。私は急いで渡り廊下を走り抜ける。窓から差し込む、夕方を間近に控えた太陽の光が、斜めに私に降っていた。


 教室に戻ってしばらくすると、いつものように帰りのホームルームが始まった。そして何事も無く終わる。赤いランドセルを背負って黄色い安全帽子をかぶる。そうして今、まさに帰ろうと教室を出たところで、私は担任教師に呼び止められた。


「都筑さん。ちょっとお話したいことがあるから職員室まで来てくれるかしら」


 どうやら何事も無く帰れはしないようだった。その内心の思いに反応するように、


『ほらね』


 と、どこか得意そうにも聞こえる様子で彼女が短く言った。


 担任のその言葉は私も全く予測していなかったわけでは無いので、それ程に驚きはしなかった。しかし、その後に予想される展開に見合う言葉を準備してはいない。


 仕方無しに担任の後ろに付いて歩きながら、私はどうしたものかと考えていた。おそらくは職員質で、先程に彼女が言っていたようなこと――つまり、どうしてアンケート用紙に何も書いていないのか――などを尋ねられるのだろう。それに対して私は、一体、どう答えたら良いのだろうか。視線の先にある廊下は掃除を終えたばかりのせいだろう、私の心とは正反対に白く美しく光っていた。私は、それを目でなぞりながら考える。


 アンケート用紙を白紙で提出したことについては後悔はしていない。しかし、どれ程に考えても、これから向けられるであろう担任からの質問への回答が思い浮かばない。思い浮かばないまま、私はやがて職員室の扉をくぐってしまう。押し黙ることで時間が過ぎ去るのを待とうかとも思った。けれども、それでは質問責めに合うかもしれないし、何より私自身がひどく疲れてしまいそうであった。あまり得策とは言えないだろう。何より私には、この後に約束があった。ここで時間を取られるわけにはいかないのだ。


 あの時、担任の言葉に振り向かず、聞こえなかったふりをして帰ってしまえば良かったのかもしれない。いや、そもそもアンケートに適当にでも答えを書き込んでおけば、こんな面倒なことにはならなかったのだろう。


 しかし、それよりも今、考えるべきは、これから来るであろう問い掛けにどう答えるかだ。後悔していないと思いつつも、色々な思考がぐるぐるとメビウスの輪のように際限無く巡る。私は、それらを断ち切る術が分からないまま、ランドセルを下ろし安全帽子を脱いで、担任の勧める椅子に座った。如何にも何年も使われていそうな、古ぼけた灰色を呈している椅子が軋んだ音を立て、その悲鳴にも似た音が私の心情と静かに重なった。職員室には幾人かの教師の姿がちらほらと見える。すぐに、私の目の前の椅子に担任が座った。そして、ほとんど間を空けずして、さっそく尋ねて来る。


「都筑さん。さっきの時間に配ったアンケートについてなんだけれどね。どうして何も書かれていないのかしら。良かったら先生に教えてくれないかな」


 予想していた通りの質問だった。私は溜め息を吐き出しそうになるのを堪え、内心で行う。そして、何かしらを言わなければと考えを巡らせる。だが、それはここに来るまでの間、既に試みたことだ。そこでも、現在でも、良い案は浮かばない。じりじりと時間だけが過ぎて行く。私は、いつの間にか心なし俯いていた。スカートの上で両手を強く握り締める。あのアンケートと向き合っている時に右手に感じた嫌な汗と同じものが、それぞれの手の中に少しずつ生じ始めたことを感じた。そんな私を知ってか知らずか、担任が再び私の名前を呼ぶ。


「黙っていたら分からないわ。怒っているわけじゃないのよ。ただ、どうして何も書かなかったのかを知りたいの」


 私は心底から困り果てていた。どうしたら良いのか、本当に分からなかった。まるで追い詰められた手負いの獣のように、樹木を背にして後退することも出来ずにいる。困惑と混乱が徐々に、しかし確実に極められて行く中で、今まで沈黙を守っていた「彼女」が私に言った。


『あの時に思ったことを言えば良いのに』と。


 あの時。私が心の中で彼女の言をなぞると、それを引き継ぐように彼女は更に私に告げる。


『仲の良い友達、嫌いなクラスメイト。それを聞き出してどうするというのか、どうしてそれを告げなくてはならないのか。そう、思ったのでしょう?』


 そうだ。確かに私はそう思った。


『そのまま伝えれば良いだけのことではないの? この人間はそれを知りたがっているのだから』


 ――そんなことは言えない。


『何故?』


 ――言えないよ、そんなこと。


『どう思われるかを心配しているの?』


 私は黙したままだったが、彼女はそれを肯定と受け取ったようだ。


『この人間に良く思われたかったのなら、たとえ嘘でも良いから回答欄を埋めておくべきだったわね。白紙で提出した時点で、こうなるであろうことは分かっていたはずでしょう?』


 私は、またも黙っていた。全て彼女の言う通りだった。


「都筑さん?」


 俯き、黙り続ける私を心配してか、あるいは答えを促そうとしてか、再び担任は私の名を呼んだ。私にはその声が、ひどく遠い空の彼方からでも降って来ているように思えた。まるで現実味を帯びていない。


『この人間に良く思われたいのなら弁解すれば良いのよ。私のことを「好きな友達」として名前を書いてくれる子がいるかどうか不安に思った、それを考えたら手が止まってしまった、とか。まるっきりの嘘でもないし。きっと同情して納得してくれる。少しばかり気が弱い子なのね、ぐらいに思って、適度に教師らしい諭すような言葉を告げて。そしてここから解放してくれると思う』


 彼女は一度言葉を切り、でも、と続けた。


『それは自分を偽ること。別に悪いとは言わないわ。だけど、あのアンケート用紙を白紙で提出した、それはちゃんとあなた自身の考えに基づいて実行したことではないの? いい加減な気持ちでそうしたのではないことを私もあなたも知っている。それでも、この人間にどう思われるかということを優先したいのなら、私はもう何も言わないわ』


 私は、どうするべきかを早急に決断しなければならなかった。今、この場で。


「都筑さん、大丈夫? 気分でも悪いの?」


 今度こそ担任は心配そうに私の肩に手を掛け、告げた。その体温が、私にはどうしようもなく気持ちの悪いものに思えてならなかった。いつものように細く高い声も同様だ。私は、やはりあのような問い掛けをアンケートとして撒いた、この目の前にいる女性に憤りを覚えているのだと、この時にはっきりと自覚した。しかしながら、それをどう言葉に換えて良いのかが分からない。


『――仕方が無いから助けてあげる。このままだと約束に遅れるでしょう』


 小さな溜め息の後で、少々、呆れ気味の彼女の言葉が心内で響いた。その声に私は思わず顔を上げる。職員室の中央の壁に掛けられている時計、その長針が、かちりと動いた。時計は、あと一歩で四時半を示そうとしている。担任が、何度目になるだろう、私の名前を呼ぶ。


『話す時は相手の目を見ること。目が無理なら顎の辺りでも構わないわ。それだけでも毅然として見える。声は、はっきり。けれど相手を責めるようなのはいけない。冷静に、感情的にならずに話すこと。それじゃあ、私の言うことを復唱してね』


 私は心で一つ頷く。


『まず、相手を見て』


 彼女の言う通り、私は担任を正面から見た。おそらく、職員室に来てからは初めてであろう、担任の顔を見たのは。目の前に見える表情は、強い戸惑いと憂慮とを明らかに広げていた。だが私は却って、そこに役者めいたものを感じてしまう。まるで舞台劇のようだと。本当に気遣いの出来る人間が、あのような問い掛けを文章に起こすはずがないと。そう、私は意識の底で理解していたのだ。


『アンケートに何も書かなかったのは意図が分からなかったからです』


「アンケートに何も書かなかったのは意図が分からなかったからです」


 私は正しく彼女の言葉を復唱した。


「どういうこと?」


 それを受けて担任の顔が先程よりも、曇る。


『あのアンケートは何の為に実施したのでしょうか?』


「あのアンケートは何の為に実施したのでしょうか?」


「何の為って、それはクラス全体の雰囲気を知る為よ。みんなが普段、どんな風に過ごしているのかを知りたかったの」


 担任は如何にも、もっともらしく教師らしい口調でそう言った。しかし私にとっては、到底、納得出来得る答えでは有り得無かった。


「でも」


 私は、はっとして口を閉じた。彼女が話し出す前に言葉を紡ぎ始めてしまったことに気が付いたからだ。だが、彼女がそれを言い咎めることは無く、むしろどこか愉快そうに小さく笑った。


『もう大丈夫ね。くれぐれも落ち着いて話すのよ』


 そして彼女は黙ってしまった。私はそれを正直に言うと心細く思ったのだが、既に言うべきことは決まっており、また、ここでやめるつもりは毛頭無かった。私は軽く息を吸い込み、発言を続けた。


「でも、それならもっと別の方法だってあったはずです。本当に私達生徒のことを考えるなら、あんなに残酷な質問は出来無いはずです」


「残酷って……私は、みんなのことを知って、これから更に良いクラスにしていこうと思ったの。だから、あのアンケートに答えて貰ったのよ」


 その諭すような口調が、余計に私を苛立たせる。まるで私は何一つ間違ったことなどしていないという口調。あたかも生徒に正しさを説くかのような声音。尖り切った黄色の色鉛筆の先端のように、ただ一色に染まっている声の高さ、そこに存在している思惑。だが、その一部は私にも言えるのだろう。私も、私が正しいと信じている言葉を他者に告げているに過ぎないのだから。


「ですから、それなら別の方法があったはずです。私は不安でした。好きな友達の名前を書いても、相手が私を書いてくれなかったら。嫌いな子の名前を書いて、あとで私がその子にぶたれたら。その子が先生に怒られたら」


 私と担任教師の間には沈黙が流れ、静寂が互いを押し包む。そう、静寂。いつの間にか職員室内は、しんと静まり返っていた。視界の端々で教師数名がこちらを見ていることが分かった。私は、もしかしたら間違っているのかもしれないと、少しばかり怖くはあった。しかしながら、もう後には引けない。それに、やはり、あのアンケートに素直に回答する気には今も尚、なれない。それが私の答えであり、心情に他ならないのだ。私は目を逸らさず、瞬きすら極力抑えて、ひたすらに担任の目を真っ直ぐに見続けていた。


「都筑さん。あなたを傷付けてしまったのは分かったわ。ごめんなさい」


 やがて担任はそう言い、表情を少し柔らかくした。


「いいえ、私は傷付いたのではありません。ただ、あのアンケートは私のプライバシーを侵すものでした。無遠慮なものでした。だから私は記入しなかったんです」


 そして再び沈黙が流れる。まるで時間が止まっているかのような緊張と静寂が職員室全体を包み込み、おそらくそこにいる私以外の誰もが皆、こちらに耳を、意識を傾けているであろうことが容易に予測出来た。その折、かちりと時計の針が進む音が響く。それは終局を告げる合図のようでもあった。同じように感じたのだろう、私の内側で「彼女」が静かに言った。この空間を壊さないようにとでもするかのように、とても静かに。


『もう充分でしょう。時に正論は悪意にも成り得る。それに約束の時間が近いわ』


 私はその言葉に心から同意する。そこでようやく私は担任の顔から目を外し、乾いた目を労わるかのように幾度か瞬きを繰り返した。安全帽子をかぶり、床に置いていたランドセルを手に取る。


「つ、都筑さん」


 慌てたような、少なからず動揺の滲んだ、上擦った声が響く。それは静まり返った職員室内を思いのほか震わせるようにして拡散した。私にはそう思えた。しかし、私はもうここに留まるつもりは一秒とて無かったのだ。


「ご面倒をお掛けしました。失礼します」


 歩きながらランドセルを背負う。背中で、教科書とペンケースのぶつかり合う音がした。職員室を出て、扉を閉める。


「疲れた。やっぱり、あの人は嫌い」


『そうね』


 私と「彼女」は、きっとその時、同じ気持ちで笑った。そして私達は足取りも軽く、正面玄関へと向かうのみだった。






 ――今、思えば幼かったのだろう。事実、私は小学四年生だった。決して、大人と呼べる年齢ではないだろう。


 落ち着いて考えてみれば、たかがアンケートなど、適当に書いておけば良かったのかもしれない。そうすれば、あの時にも思ったように、面倒にも担任教師に呼び出されることなど無く、私は真っ直ぐに帰路に着けたはずだ。だが、私はそうしなかった。用意された質問に何の抵抗も無く答えられる素直さや無防備さによるところの子供らしさは持たず、その場限りだと割り切り偽りを記述する周到さやあざとさによるところの大人らしさも持たず、中途半端な存在だった。今は半端では無いのかと聞かれると、それこそ答えを持たないが。


 私に友人がいなかったわけでは無い。望まない限り、休み時間に一人きりになることは無かった。移動教室の時も同様だ。だが、それらは、ごく表面的な事柄で、おそらく私は無意識下で分かっていた。彼らとの付き合いが一過性のものに過ぎず、つまり彼らは私の人生において縁遠い人々で、小学校を卒業すれば、ほどなく疎遠になって行くであろうことを。そして、私はそれを回避すべく行動する気にはなれなかった。積極的に交友関係を深めて行く意思が、当時の私には無かったのだ。それは何故か。


 私には彼らが、失礼な言い方になるが、ひどく楽観的で刹那的な生き物の集合に見えていたのだ。そこに混じり合う気にはなれなかった。言葉にしてみればそれだけの、単純至極なこと。このように考えてしまっていたのは元々の性格に起因するのか、あるいは育った環境によるものなのか、今も私には良く分からない。


 しかし、人がいれば人の数だけ環境や事情は存在する。そして誰もが、それらを曝け出して他者と交流しているとは決して限らないのだ。その点を小学四年生の都筑有来という人間は思い当たってはいなかった。ひとえに幼かったのだ。子供には良くあることかもしれないが、自らの状況が世界の中心であり、ものさしであり、全てで有り得る。私はまさにそれだった。そして私はきっと、皆とは違うという、良くある優越意識のようなものを持っていたと思わざるを得ない。これは、早く大人になりたいという心情の顕れだったかもしれない。そう、私は早く大人になりたかった。


 皆とは違う。確かに私は一般的な「皆」とは異なっていたかもしれない。私には私だけの理解者であり共犯者であり保護者めいた存在が有った。その彼女には名前が無かった。子供だったからだろうか、私は「彼女」を容易に受け入れていた。だが、それ以上に私が奥底で望んでいたという、この心が基盤となっている――なっていたように思う。人は望まないものを容易く受容することは難しい。


 小学四年生の、とある日。私の自覚なき願い事は、こうして形となって叶えられたのだ。






 私は、背に翅が生えたような心持ちで、とんとんと靴を履いた。どうしたら良いのかが分からず、ひたすらに思考を続けた自分自身は、もうとっくに遥か後方へと流れ去って見えなくなっていた。意気揚々と正門を抜けて家路を辿る。既に下校時刻を過ぎているせいだろう、ランドセルを背負った姿は私の他には誰も見当たらなかった。


『機嫌が良さそう』


「彼女」が話し掛けて来る。それは私の心情を知った上での、確かめるような口振りだった。


「それは同じだよね、きっと」


 私は口に出して言った。


『そうね。それにしても、ああやって本当に言いたいことはいつもちゃんと伝えれば良いのに』

 どうして、そうしないの? と言外に彼女は尋ねているように思えた。


 私はその言葉を受け、思考を巡らせる。確かに、私はあまり思ったことを相手に言ってはいないように思う。正確には、言えない、という表現が正しいのだろうか。ほぼ絶対的に相手を不快にさせないであろうと分かっている時だけだ、私が臆すること無く話せるのは。しかしながら、なかなかそんな機会など無い。よって、私はあまり思ったことを相手に伝えられない。こうして改めて考えてみたところで、結局、辿り着く事実は変わりはしなかった。


 私が黙り込んでしまったのを気に掛けてか、彼女は先程よりも幾分、柔らかな風のような口調で言った。


『時と場合によるのよ、思ったことを発言すべきかどうかというのは。あなたのそれは、もしかしたら自己防衛の一種なのかもしれないわね』


「自己防衛?」


『そう。自己、つまり自分自身。あなた自身を守っているということ。それは人間に与えられた本能の一つ。誰もが持っているわ』


「初めて聞いた」


 彼女の言葉の端々には知性が感じられた。それは単純に知識を持っているということだけではなく、それに基づき自らの思考を成立させているという、決して機械的なものや一辺倒なものでは無いという印象を、幼い私にでさえ与えた。そして、私の知らないことをきっと沢山知っているのであろうという予測を生まれさせる。それは一層のこと彼女を輝かしい存在として私に認識させるに至る。


『自分を守るということは本能であるし、必要なこと。例えば自分を殺そうとして来た者がいたとして、それを殺しても罪には問われない。正当防衛になる』


「それは少し聞いたことがあるかもしれない」


『これこそが自己防衛本能が強く働く瞬間。でも、人間は毎日、その本能を働かせているの。本当はね。程度の違いに過ぎないのよ』


「物知りだね」


『あなただって小学四年生にしては聡いと思う』


「そうかな。良く分からない」


 良く分からない。それは正直な気持ちだった。確かに私には、早く大人になりたいという強い願望があり、その為と思い、学校の勉強には積極的に取り組み、多く読書をすることを心掛けている。


 だが、今の私には勉強と読書以外の方法が思い当たらないというだけに過ぎず、最近ではそれらの行為に気休めめいたものさえ感じられるようになってしまった。焼け石に水のような。私は、もっと具体的、かつ、確実な方法で大人に近付きたい。毎日は連続した活動写真のようで、水流のように緩やかに弛まなく流れているように思える中、それは目に見えない熱源となって私の足先からをじりじりと焼いているようにも思えた。


「ねえ」


 ふと私は彼女に呼び掛けて気が付く。私はまだ彼女の名前を知らないことに。


「名前、何て言うの?」


『聞くの遅いわ』


 半ば呆れたように彼女は言った。


「ごめん」


『名前、付けてくれる?』


「無いの?」


『失礼な物言いね』


「あ、ごめん」


『謝ってばかりね。良いから付けて』


 名前。急に言われたところで思い付くわけが無いと内心で私は慌てたのだが、少しばかり機嫌を悪くしたように思える彼女のそれを回復させたいこともあって、私は懸命に考えを巡らせた。彼女に相応しい、似合う名前を。


「小さな姫君、はどうかな」


 いつもの帰り道を辿りながら私は告げる。まるで、その「いつもの道」が急激に彩色されたかのような錯覚を覚えてしまうくらいには、私は自分自身に高揚を感じていた。しかし、予想に反し、返す彼女の言葉は少々、冷たかった。


『それは代名詞よ。固有名詞じゃないわ』


「え?」


『名前は人名、固有名詞のはず。今、あなたが言ったのは、私だけに当て嵌まるものではないでしょう?』


 彼女の言っていることは何となく分かったが、それでも私はせっかく考え付いた名前を諦め切れずにいた。何より、とても良く似合っていると思ったのだ。だが、そんな私の心情を知ってか知らずか、彼女は更に追い打ちを掛けるように言い放つ。


『百歩譲って「姫君」が名前だとしてもよ。「小さな」なんて連体詞が添えられた人名なんておかしいでしょう。「小さな都筑有来」とか、変だと思わない?』


 私は僅かに噴き出してしまった。確かに彼女の言う通りである。


『自分でも笑うような法則の名前を付けないで』


 彼女は憤慨したように言った。仕方無く私は別の名前を考えることにしたのだが、一度「小さな姫君」が似合うと思ってしまった脳味噌は、そう簡単には考えを変えてはくれない。歩きながら思考しているせいもあるのだろうか。これというものが浮かばないまま、もう自宅が近くなってしまっていた。焦燥が強まる。私は家に帰り着くまでに彼女に名前を渡したかったのだ。


 それまでずっと互いに無言だった私達だが、ここに来て不意にぽつりと彼女が口を開き、言った。


『良いわよ』と。


「え、何が?」


『さっきので良いわよって言ってるの』


「でも」


 なかなか他の名が思い浮かばないことは事実だが、本人が気に入らないそれを贈るというのはとても気が引ける。名前というものはずっと付いて回るものであるし、やはり気に入っているものが望ましいだろう。普通、人間の赤ん坊は名前を自分で選ぶことは出来無いが、今、こうして選び取ることの出来る彼女には、是非、気に入ったものを選んでほしい。そう思っている内に、幾らかぼそぼそとした声で彼女が言う。


『気に入っていないわけじゃあないの。ちょっと、おかしいかなと思っただけ』


 そして黙り込む。彼女には私の心情が分かるのだろうか。だが、私には彼女の心情が流れ込んでは来ない。それでも、その訪れた沈黙の中には照れ隠しのようなものが見えた気がして、私はそんな彼女を可愛らしいと思った。


「小さな姫君?」


『……はいはい』


 彼女の意思を確かめるように私が尋ねると、半ば投げ遣りにも取れる声音で彼女が返事をする。やはりそこには照れを誤魔化すかのような響きが含まれているように思えた。私よりも数段は大人びていると感じられる、聡明な彼女の――と同時に少女のようにも思えるのだが――意外な一面を垣間見られたような気がして、嬉しさを覚える。


 小さな姫君。私は今一度、その名を心の中で繰り返す。指で辿るように。彼女――小さな姫君は、私の考えた名前を受け取ってくれた。言葉にすれば、ただそれだけの単純な事柄だが、その時の私は、ゆっくりと込み上げる暖かな感情を大切に味わっていた。彼女がそれを気に入ってくれたことが、とても色鮮やかな喜びとなって私の内側から視界を染め上げて行くかのようだった。


 だから、家の扉を開けるいつも通りの憂鬱な瞬間も、ほんの少しだけ、この時は和らげられていた。だが、それが棘である現実に差分はない。私は息を詰めて、扉を開ける。


 今年で四十三を迎える母との二人暮らしは、正直に言うまでも無く、まさに息が詰まるものだった。台所とテーブルがある部屋、その隣のテレビやソファがある部屋、廊下を挟んで存在する私の部屋、その隣の父が使っていた部屋の四つから成る、狭くも広くもない公共団地の一階の一室。ここが私の帰るべき場所であり、帰らざるを得ない場所だった。


 私は、この扉を開ける瞬間がひどく嫌いだ。かちゃりというドアノブの音も、がしゃんという扉の閉まる音も、冷たく、遠く、まるで囚人になったような心持ちになる。誰かに「もう出られないよ」と宙から囁かれているような気がする。

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