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小さな姫君と私の恋  作者: 有未


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12/12

終章【感謝】

 私が沙矢と会うのは、約半年ぶりくらいだった。お互い別々の高校に入学し、新しい生活に慣れるまでは、私も沙矢も若干、慌ただしく過ごしていた。それでも時々、メールや電話はしていて、小学校三年生からの付き合いになる沙矢は、私の大切な友達に変わりは無かった。私は、姫君と慧のことを気に掛け、私を心配し、力になってくれた沙矢に改めてお礼を言いたくなり、


「久し振りに会わない?」


 と、誘ってみた。


 それに、姫君と僅かの間、再会し、そして本当に別れたことについても沙矢に話したかった。私を後押ししてくれた沙矢には、伝えておきたかったのだ。


 私の誘いに、


「うん、じゃあウチで会おうよ。本当に久し振りだよね」


 と、沙矢は即答してくれて、高校生になって初めての夏休みの半ば、私と沙矢は会うことになった。


 太陽の強い輝きに負けまいとするかのように蝉が鳴き叫ぶ八月の中旬、私は沙矢のマンションに向かった。木々は緑を誇り、突き抜けるような高い青空には、層の厚さを感じさせる入道雲が大きく湧き出ていた。


 私の家から自転車で十五分程のところにある沙矢のマンションは、以前に来た時と変わらない佇まいで、真夏のさんさんとした太陽の光を受けていた。ロビーで扉のロックを解除してもらい、私はエレベーターで十二階へと上がった。


 ピンポン、という可愛らしいインターホンの音色の後、


「久し振り。暑かったでしょ、どうぞ上がって」


 と、沙矢が顔を出した。


「お邪魔します」


 私は靴を揃えて上がり、そして、沙矢の部屋に入って、とても驚いた。


「すごい、真っ青だね」


 沙矢の部屋は、ほとんどの家具や雑貨が青系統の色で統一されていて、まるで海の中か、空の中にいるようだった。窓に掛けられたレースのカーテンは淡い水色で、その横に纏められた厚いカーテンは深く鮮やかな青色をしていた。


「夏だから、涼しそうで良いかなと思って。どうかな?」


「すごく素敵だよ! 良いなあ」


 青が好きな私は沙矢の問い掛けに即答し、改めてぐるりと部屋を見渡した。


「ありがとう。飲み物とか持って来るから、ゆっくりしててね」


 そう言い、沙矢は部屋を出て行った。青で埋め尽くされた沙矢の部屋は程良く冷房が効いているせいもあり、本当に海の中のようだった。あるいは、夏の高い青空の中を漂っているようにも思えた。もしも、真夏の空の中を泳いだら、きっと強い熱気を感じるのだろう。こんなにも涼しいわけが無い。私は、そう思いつつも、海や青空を思わせる部屋の真ん中に座り、寛いだ。


 小さなガラスのテーブルには、青と白のグラデーションが美しいテーブルクロスが掛けられ、海の底のような深いダーク・ブルーのソファには、天王星を思わせるコンポーズ・ブルーの丸いクッションが二つ並べられている。フローリングの床には、天空を想像させるラピスラズリのような色をした薄手のカーペットが敷かれていて、そのところどころには丸い星のような、ごく小さな金色の粒が見えた。机の上には幾つかの青いガラス瓶が置かれ、不可能の象徴と言われる青薔薇の造花が、やはり青色のリボンで結ばれて置かれていた。他にも、水色のビーズのようなものが入ったガラスの小瓶や、トルコ石やラズライトなどの原石が無造作に置かれていて、私はテーブルの前に座りながら、それらを眺めていた。


 私は、青系の色に強く惹かれる。私にとって青色は、海や空を連想させる色であり、そして、水族館を思わせる色でもある。特に水族館では、大きな水槽に湛えられた透明な水と泳ぎ回る沢山の魚、色鮮やかな珊瑚や揺らめく海藻などを見ていると、私は何故かどこか懐かしくなり、その水の中に還りたくなる。人間は、遥か昔に海から生まれたと言われているくらいだし、人の中には海への回帰願望がひそやかに眠っているのかもしれない。


 そんなことを自然に考え始めてしまう程に、沙矢の部屋は青に溢れていて、そして夏を忘れさせる程に私の心を包み込んで行った。


「あれ、何かぼんやりしてない?」


 その時、部屋のドアが開き、ジュースやお菓子の載ったトレイを持った沙矢が私に尋ねた。


「うん、すごく良いなと思って。この部屋の雰囲気」


「ありがとう。夏休みの始めに、思い切って変えてみたんだ。あ、これ炭酸だけど大丈夫だよね?」


 ジュースやお菓子をテーブルに移しながら、沙矢は尋ねた。私の前に置かれた細いガラスのグラスの中では、数個の丸い氷と共に湛えられた透明な液体が、小さな泡の粒を幾つも放ちながら、微かに、しゅわしゅわと音を立てていた。そして、液体の頂上には、可愛らしい緑の葉が、ちょこんと載せられていて、とても透き通った香りがしていた。


「うん、大丈夫。ねえ、これ何だろう。何か良い香りがするけど」


 私が葉を指差して沙矢に尋ねると、


「あ、それはミント。夏だし、気分がすっきりして良いかなーと思って。ハーブの一種だよ」


 という答えが返って来た。


「ミントもハーブなんだ。慧は詳しいけど、私はほとんど知らないなあ、ハーブ」


 沙矢の言葉を受けて私がそう言うと、沙矢は少し嬉しそうに、


「良かった」


 と、言った。


「有来って、あんまり話してくれないから気になってたんだけど。仲良く出来てるみたいだね」


 そう付け加えて、沙矢はストローで炭酸水を混ぜた。丸い氷が互いにぶつかり合い、からからと涼し気な音を立てた。


 私は、くるくると緩やかに回るその氷を見つめつつ、


「うん。ありがとう」


 と、沙矢に伝えた。


 改めて伝えた感謝の言葉は少し照れくさく、私は僅かに緊張しながら、グラスに添えられていたストローの紙を破って、沙矢に倣うように、くるくると炭酸水を混ぜた。そのリズムに乗るようにして小さなミントの葉も踊り、先程よりも強く透き通った香りを私へと届けた。そのまま炭酸水をひと口、飲んでみると、無糖であることが分かった。そのせいか、冷たいような目の覚めるようなミントの香りと風味が引き立ち、冷房の効いた部屋に相応しい、爽やかな飲み物となっていた。


「あれから喧嘩とかはしてない? 大丈夫?」


「うん」


 少しだけ心配そうだった沙矢の声は、私の返事を聞いて、その声色を明るく咲かせた。


「ああ、ほっとした。メールとかしていても、有来はあまり話してくれないから。無理に聞き出したいわけじゃなかったけど、どうしてるかなって気になってたんだ」


 一息に沙矢は言い、そして炭酸水を飲むと、


「私に気を遣ってるわけじゃないよね?」


 と、付け足して私を見た。


 沙矢が、少しだけ慧を好きだったことは忘れていなかった。確かに、それを全く気にしていなかったと言えば嘘になる。けれども、私は、それ以上に、ただ自然に慧の話をしなかった。そこに特別な理由があったわけでは無く、相手が沙矢だからというわけでも無く。


「気を遣わなかったわけじゃないけど、敢えて話そうと思わなかったというか……あ、誤解しないでね。話すことが嫌だとか、そういうわけじゃなくて」


 自分でも良く分からない心の内を説明しようとしたせいか、私の言葉はまとまりに欠けてしまい、何を伝えようとしているのか良く分からないものとなってしまった。そんな私を見て、沙矢は僅かに笑った。


「大丈夫だよ、分かってる。それが、有来の“自然”だったんでしょ?」


「あ、うん。まさにそう……良く分かったね」


 私が驚きながらそう言うと、


「まあね」


 と、少しばかり得意そうにした沙矢の言葉が返って来た。私と沙矢は、互いに顔を見合わせて笑った。ささやかな、本当にささやかな幸せを、その時、私は確かに感じていた。


 ――その後、私達は、しばらくの間、他愛のない話をしては笑ったり、頷いたり、疑問を投げ掛けたりといった時間を過ごした。お互いの高校の話や、読んでいる本のこと、新しく買った洋服のこと、果ては小学校や中学校の時の話をし、楽しい時間が緩やかに流れて行った。


 私は、そこに確かな幸福を感じていた。他愛のない話をして互いに笑い合えることの、その何と幸福なことか。私は沙矢に感謝し、そして、その幸せを幸せと感じ取ることの出来る自分の心にも感謝をした。ひとしきり話をした後、不意に空いた時間の隙間に、私は思い切って本題を切り出した。


「……あのね、前に話した、小さな姫君のことなんだけど」


「うん、何かあったの?」


 尋ねる沙矢に答えるべく、私は緊張をしながら言葉を唇に乗せた。大丈夫だと、自分に言い聞かせながら。


「実は、この間、少しだけ会えたんだ。すぐに別れの時間が来て、さよならをしたんだけど」


「え? さよならって……」


 心配と驚きを含んだ沙矢の声に、


「多分、もう会えない。まだ信じられないけど、でも、きっとそういうことだと思う。いつかまた、会いたいとは思うけど」


 と、私は告げた。


 別れを思えば、悲しみに変わりは無かったが、一度、受け入れたことのせいだろうか、意外にも私は落ち着いていた。


「沙矢には色々助けて貰ったし、特に、あの日に沙矢が私に言ってくれなかったら、私は、ずっと慧を避け続けていたと思うんだ。それに、姫君のことを聞いて貰えて嬉しかったし、沙矢には話しておきたかったから……」


 私は、一度、言葉を切った。僅かな空調の音と時計の秒針の音が、静かな室内に響いている。


「ありがとう、沙矢。姫君のことを聞いてくれて。私、本当に嬉しかったんだ」


 私の言葉を受けて、沙矢は安堵したように笑った。


「私こそ、話してくれてありがとう。あの時、ちょっと無理に聞き出してしまったかなって少し気になってたから……有来にそう言って貰えて、私も嬉しいよ。ありがとう」


 その時、互いに残り少なくなっていた炭酸水の中で、からんと氷の溶ける音がした。


「あ、もっと飲む?」


 グラスを示しながら言った沙矢の申し出を断り、私は、ずっと気になっていたことを沙矢に尋ねてみた。


「あの、さ。イマジナリーフレンドって……誰にでもいるわけじゃないのかな。姫君がそうだって、実は、まだはっきりとは分からないんだけど……沙矢には、そういう経験は無いの?」


 私は、初めて姫君に出会った時、それをあまりに特別なことだとは受け止めていなかった気がする。私が小さな頃から一緒だったという姫君の言葉を聞いても、さして違和感は感じなかった。むしろ、今の私の中に姫君がいなくなってしまったことの方に、私は大きく違和感を感じていた。


 ただ、沙矢の家で、イマジナリーフレンドについて初めて知ったあの時、姫君のような存在は誰にでもいるわけでは無いということに私は気付いた。そして、今までに私は、他の誰からも姫君のような存在、つまりイマジナリーフレンドについての話を聞いたことが無いことにも気が付いた。それは、その存在があまりに自然で当たり前のことだから、誰もが敢えて口にしないのだと思っていた。しかし、イマジナリーフレンドという言葉を知ったあの時から、私のしている体験は、どこか変わっているのだろうかと、私は少しばかり気になっていた。


「私は、そういう体験をしたことは無いけど。海外でも、誰にでもいるというわけでは無いみたいだし。でも、だからこそ、有来は小さな姫君に出会えて良かったね」


 そう沙矢は言って、炭酸水をストローで、くるくると混ぜた。


「私も詳しくは分からないけど、でも、有来と彼女が出会えたことは、どこにでもあるような、誰にでも起こり得ることじゃないと思う。悩んだことは沢山あると思うし、そこに私が口出しをするべきでは無いかもしれないけど。でも、今の有来を見てると、有来は彼女に出会えて良かったと思う。多分、彼女もそう思っているんじゃないかな」


 炭酸水を混ぜる手を止め、そう思わない? と、同意を求めるようにして沙矢は私を見た。その瞬間、私は心が軽くなったように思えた。私はずっと、こうして誰かに言って貰いたかったのかもしれない。出会えて良かったね、と。慧も、私にそう言ってくれた。あの時、私は本当に嬉しかった。


 ただ、慧は私に恋愛感情を持っている。決して自惚れるわけでは無いけれど、恋愛感情というものは、相手の全て、あるいは多くを許し、認めてしまえる力があると思う。勿論、慧が、心から私にそう言ってくれたのだということは充分過ぎるくらいに良く伝わって来たし、そこに偽りなどは感じられなかった。けれども、だからこそ、もしも、慧が私に恋愛感情を持っていなかったとしたら、その時、その心は私に向けて貰えるものなのだろうか……と、私は少しだけ不安を感じてしまった。


 きっと、こんな風に思うことは慧に対して失礼だろうと思う。あとで、慧に直接、尋ねてみることにしよう。私はもう、慧との間に何かを隠して行くことはしたくないと思っていた。たとえ、それが些細なことだとしても、落ち続ける小さな雫が水面に波紋を描き続けるのなら、私は慧に話したいし尋ねたい。きっと慧もそれを望んでいてくれていると、慧の言葉や態度から、私はそう信じることが出来た。


「ありがとう。沙矢にそう言って貰えて、何だかほっとしたよ」


 私は沙矢に心からお礼を伝え、そして同時に、慧にも尋ねてみたいという思いを束ねていた。


 沙矢は残りの炭酸水を全て飲み干すと、


「私よりも、有来の方が小さな姫君の気持ちは良く分かってると思うけどね」


 と、付け足して微笑んだ。


 その時、私は心が温かくなるのを感じた。そして、この温度を、これからずっと忘れずにいたいと改めて思った。


「本当に……ありがとう、沙矢」


「そんな改まらないでよ、何だか恥ずかしいよ」


 私と沙矢は互いに笑い、そして、そこには嘘も偽りも無かった。私はそれがひどく嬉しく、そして温かく感じていた。


 ――しばらく話した後、私は沙矢の家を後にすることにした。


 沙矢の部屋の壁に掛けられた時計は夕方の六時を示していて、しかし、夏半ばの今はまだ日は高く、淡い水色のレースのカーテン越しに見える外の景色は、未だ明るく、柔らかな光に包まれていた。


「また遊びに来てね。今度は、どこか出掛けようよ」


「そうだね、どこが良いか考えておくよ」


 私は沙矢に答えつつ、靴を履いてバッグを持った。


「それじゃあ、今日はありがとう」


「うん、こちらこそ。有来、また何か困ったら言ってね。一人で重たく考えたら駄目だからね?」


 念を押すように沙矢は言い、私はそれに感謝しつつ、頷いた。


「ありがとう」


「じゃあ、またね」


 沙矢に手を振り、私は来た時と同じようにエレベーターに乗って、一階へと降り立った。


 マンションのロビーを出ると、夕刻にも関わらず、暑く重たい夏の空気が私を押し包み、日中よりはその勢いを潜めてはいるものの、未だ充分に強い光を放つ太陽が私を照らした。


 自転車の前籠にバッグを入れて、私は力一杯ペダルを踏み込んだ。自転車置場には屋根があり、日陰になってはいたけれども、自転車全体は夏の日光で温まっていた。存在することを喜び歌うかのような、うるさい程の蝉の鳴き声を聞きながら、私は、まるで水のように体に纏わり付く夏の空気を切り裂くようにして、自転車を走らせた。そのスピードに合わせるように生じる風は心地好く、私の心は、その風に乗って行けるくらいに軽くなっていた。ありがとうを伝えられる人がいるということは、こんなにも温かく幸福なことだと、私は知ることが出来た。


 慧も沙矢も、そして小さな姫君も、私にとってはとても大切な存在で、失えない、失いたくない、宝物だ。それは、どんなに美しい石よりも、どんなに香り高いハーブよりも、私の中では強く輝く。それを伝え、教えてくれた三人に、私は感謝をしながら、特に姫君へと想いを馳せた。


 姫君がいたからこそ、今の私がいるような気がしていた。昼間の星のこと、相手の目を見て話をすること、そして大切な人の幸せを願うこと。姫君と出会えなかったら、私は、それらを知らないままだったかもしれない。もしも、知る日が来るとしても、それはもっと先のことになっていたかもしれない。


 今のこの気持ちは、何と言えば良いのだろう。出会えた喜び、別れた悲しみ、教えて貰ったことへの感謝、私の配慮不足への後悔と姫君への謝罪。そして、私は姫君を失ったわけでは無いのだと、今日、初めてそう思うことが出来た。


 いつか、また会えるかもしれない。けれども、もしも。もしも二度と姫君に会えないとしても、それが姫君を失ったことにはならない。私は、こんなにも姫君のことを覚えている。姫君から伝えて貰った大切なことが、私の中で生きている。


 記憶は時間の経過と共に薄れゆくものだと、私は知っている。姫君のことが、その流れから完全に離れることが出来ると、私には断言出来無い。いくら日記に記そうと、何度も思い返そうと、少しずつ少しずつ、砂時計の砂が落ちるように、さらさらと記憶は薄れて行くのだろう。きっと、逃れることは出来無い。それでも、全てを忘れるわけでは無い。まして、失うわけでも無い。私は小さな姫君と出会い、友人になり、そして、別れた。その事実は誰にも消せず、揺るがすことの出来無いものだ。そして、姫君が伝えてくれたことが、ちゃんと私の中に生きている。これからきっと、育って行く。それが、私と姫君を繋いでくれる。


 夏は、私にとって悲しい季節だった。私が小学校六年生の夏に、姫君は唐突にいなくなってしまった。出会った日は、小学校四年生の夏。もっとも、私と姫君は、私が小さな頃から一緒にいたらしいけれど。出会ったのが夏なら、別れたのも夏だった。そして今年の夏、私と姫君は僅かな時間、再会し、また別れることになった。私と姫君は、夏に結ばれているのかもしれない。


 小学校六年生の時の別れは、あまりに唐突で、あまりに悲しくて。それから毎年、夏が近付くたびに、私はその時のことを思い出しては沈んでいた。存在を高らかに歌い上げるかのような蝉の鳴き声も、晴れ渡る高く遠い青空も、湧き出るような白い雲も、夏特有の強い日差しも、それを受けてますます輝く緑も。夏を知らせる全てのものが、私にとっては悲しみを思い出させる引き金になり、夏という季節自体を疎ましく思ったこともあった。けれど、きっとこれからは、そんなことは無いだろうと思う。むしろ、姫君と出会えた夏という季節の訪れを喜び、太陽のように花開く向日葵のようになって行けると思う。喩えば、今は小さな双葉でも。それでも、発芽したことを喜びたい。私は、やっと歩き出せたように感じていた。


 ――人は自分以外の者の為に生きられるようになって、初めて生のスタートを切る。


 アルベルト・アインシュタインの言葉を思い出しつつ、私は真夏の空気の中、家路を辿った。


「ありがとう、姫君」


 私の心は囁きになり、本格的な夏の日光に溶けるようにして吸い込まれて行った。






  “小さな姫君へ


 また、暑い夏の季節になりました。毎年のように蝉はうるさく鳴き、真っ青な空には真っ白な綿のような雲が浮かびます。窓から見える木々も深い緑の葉を枝に付けて、真夏の日光を一身に受けては、それに負けまいとするかのように光輝いています。今年の春の桜はとても綺麗で、雨に散らされることも無く、その花を咲かせていました。桜が見られなくなってしまうことは残念だけれども、姫君との思い出の深い夏という季節の訪れを、私は心から喜んでいます。


 大学に咲いていた、沢山の向日葵を見て、私も今年の六月末くらいに向日葵の種を鉢に蒔いてみました。種は、去年に大学の向日葵から貰いました。初めは小さな双葉だったけれど、あっと言う間に茎が伸びて、大きな葉を広げ始めました。今では、もう小さなつぼみを付けています。花開く日が、今からとても楽しみです。ベランダには向日葵の他に、慧がプランターに植えたハーブが沢山あります。どれも緑色や黄緑色の葉なので、なかなか私には名前が覚えづらいのですが、時々、そのハーブを摘んでスパゲティやスープに入れたり、ハーブティーにしたりするのが楽しみの一つです。パセリもハーブの一種だと知った時には、とても驚きました。ハーブは、意外に身近な存在みたいです。


 私が気に入っているのは、レモンバームというハーブです。葉を軽く摘んだだけで、レモンの香りが強く香ります。摘んだばかりの葉でハーブティを淹れると、心がほっとする、とても爽やかなレモンの香りが生まれます。蜂蜜を入れて飲むことが好きです。レモンバームは、別名、メリッサと言うようで、体内にこもった熱を下げる効能があるらしいです。レモンバームのアイスティーが最近のお気に入りです。


 ハーブには色々な効能があり、とても楽しいのですが、覚え切れません。私よりは断然に慧が詳しく、合う料理なども慧の方が多く知っています。バジルとオレガノを使ったトマトスパゲティは、私もおいしく作れるようになりました。


 高校一年生の時の別れから五度目の夏を、こんな感じで私は元気に過ごしています。やっぱり、ふとした瞬間に姫君のことを思い出すことは変わらないけれど、思い出して振り返るだけではなくて、私は私らしく毎日を過ごしているところを姫君に見せたいと思い、勉強や料理や読書などに力を入れています。高校の入学式の三日前に購入した日記帳は、既に文字で埋め尽くされてしまったので、これは二冊目の日記帳です。オレンジ色と黄色の中間色をした表紙に、透き通るような色で沢山の向日葵が描かれていて、私はとても気に入っています。


 慧も日記を続けているようで、この間、新しい日記帳を買っていました。その慧の日記帳は、夏の青空のように明るい、青一色のシンプルな表紙でした。夏という季節を好きになったあの日から、私は向日葵と夏の青空に憧れているようです。高く遠く、どこまでも丸く広がる青空に、まるで太陽のように鮮やかに咲く黄色の向日葵。それはとても綺麗で、強くて、でも少しの切なさがあって。向日葵に限ったことでは無いけれども、あの小さな種から小さな芽を出して、やがて、花開く過程には憧れると同時に尊敬します。そこには、何の迷いも無いように思えるから。


 振り返れば、私はあまりに幼く、迷ってばかりだった気がします。その私を、姫君と慧と沙矢をはじめとする沢山の人達が導いてくれたから、今の私がここにいるのだと思えます。これは、決して大袈裟な言い方では無いと思う。


 光も水も約束されていなくても、花は育とうとする本能のようなものがあると、私は思う。私には、その力が無かった。とても小さく狭い世界で迷ってばかりで、本当の意味で姫君までも失うところだった。そして、慧も。


 あれから私は、きっと少しずつ成長をしていると信じて毎日を大切に過ごしています。慧も沙矢も変わらず、私の傍にいてくれています。勿論、姫君も。この幸福を、私は忘れずに、大切にし続けて行きたいと思う。


 窓の外では蝉が相変わらず騒がしく鳴いていて、輝かしい夏特有の日差しが強く降り注いでいるのが見えます。木々に宿る深く強い緑の葉も。ベランダには、花開く日に向けて成長を続ける、向日葵のつぼみが。その周りに、プランターに植えられた沢山のハーブが。


 私は、夏の輝きに負けないように、この夏を過ごして行きたいと思います。そしていつか、向日葵のように鮮やかに咲くことが出来たら。もしも、また姫君に出会えた時は、今度は心配ばかりを掛けないで、私はこんなに成長したよと言えるかなと思っています。ささやかな、私の祈りです。


 そろそろ、レポートに取り掛かります。色々なことを学べば、色々な考え方が出来るようになると思う。可能性は、いつだって大きく育てて行きたいと思っています。それでは、また明日。”






 かちゃん、と鍵の開く音がして、続いてドアの開く音がした。私は日記帳に桜の花びらのしおりを挟み、机の棚に、そっと戻した。


「ただいま」


「おかえり」


 私が椅子から立ち上がると、慧はいつものように、その大きな手のひらを私の頭に置く。瞬間、私の体には慧の体温が、私の心には慧の優しさが伝わって来る。私は、この一瞬がひどく大切で、とても愛おしい。


「何してたの?」


「日記を書いていたよ」


 私の返事に、そうか、と短く答えた慧は、一度、私の頭を撫でてから、床に鞄を置き、同様に手に持っていたビニール袋の中身を、冷蔵庫へと移し始めた。


「何を買って来たの?」


 涼しそうな、淡い青色の水玉模様がプリントされたガラスのコップにレモン液と無糖炭酸水を注ぐべく、私は慧の後ろから冷蔵庫を覗き込みながら尋ねた。


「オレンジジュース。夏は特においしいよね」


 振り向いた慧は、片手に瓶入りのオレンジジュースを持っていた。それを私の目の前で軽く揺らして見せながら、


「冷えたら飲もう。ちゃんと濃縮還元じゃないのを買って来たから」


 と、慧は私に笑い掛けながら言った。


「うん、ありがとう。慧もオレンジジュースが好きになっちゃったよね」


 私は慧と入れ替わりに冷蔵庫の前に立ち、オレンジジュースを見つめてから、レモン液と無糖炭酸水を冷蔵庫から出した。


「有来が小学生の時から良く飲んでいたからさ。家にオレンジジュースを用意しておく習慣が出来て、それで何となく俺も飲んでいたら好きになったんだよね」


 慧は、過ぎた時を懐かしく思い出すように話した。


 そして、


「一緒にいる時間が長いと、好みって似て来るのかもね」


 と、付け足して、慧はキッチンに立つ私の隣に並び、私の手元で混ざり合うレモン液と無糖炭酸水に目をやった。


「確かに、似て来るかもね。色々」


 私は、ゆっくりマドラーを動かし続けながら、そう答えた。私が右手に持つマドラーは、時折、コップにぶつかり、カチャカチャという音を立てた。レモン液は炭酸水に綺麗に溶け込み、コップの中では細かい泡がはじけては消えて行くのが見えた。


 私はマドラーを取り出し、


「はい」


 と、コップを慧に差し出した。


「ありがとう」


 慧はコップを受け取り、とてもおいしそうにそれを飲んだ。キッチンには爽やかなレモンの香りが僅かに泳ぎ、程良く冷房の入った室内では、その冷たく透き通るような微かな香りが心地好く感じられた。波を打つ小さな海が徐々に引いて行くように、慧が持つコップの中の液体はだんだんと減って行き、特に意味も無くそれを見つめていた私は、コップを口元から離した慧と目が合った。


「ん、飲む?」


 慧の申し出に私は頷き、差し出されたコップを受け取った。夏のせいなのか冷房のせいなのか、意外に渇いていた喉を自覚させる程にレモンの炭酸水は喉に染み込み、味は微かなレモンのそれしかしないシンプルな液体は、瞬く間に私の体全体に行き渡って行くかのようだった。


「あ、全部飲んじゃった」


 コップの半分くらいは残っていたレモン炭酸水は、あっと言う間に無くなってしまっていた。


「ごめん、もっと飲む?」


「いや、良いよ」


 私の問い掛けに、何故か慧は少し笑いながら返事を返した。


「何がそんなにおかしいの?」


 コップをシンクに置いて私が尋ねると、


「おかしいっていうかさ。可愛いと思っただけ」


 と、慧は答えて、私の頭を軽く撫でてからソファに座った。


 四つの年の差のせいなのか、それとも単に私が幼いのか、あるいは慧が大人びているのか、結構な頻度で私は慧に子供扱いをされているような気がしていた。私が小学生だった時には、それに頷けなくも無かったけれど、こうして大学三年生となった今でもそれが変わらないことに、私は少々の不満を覚える。それでも、私は慧の隣が好きだ。慧の座るソファに私も身を沈めながら、今日の夕ご飯はどうしようかなと私は考え始めていた。


「あ、今日は夕飯どうする?」


 すると、私の心を見透かしたかのように突然、慧が尋ねて来たので、私は少し驚きながらも、


「どうしようか?」


 と、慧に逆に尋ねてみた。


「明日は土曜日だし、外で食べようか?」


 僅かに間を空けた後、慧はそう提案して私を見た。


「でも、外は暑いよ」


 外食に心動かされながらも、私は夏の外気を思って、僅かに躊躇いを感じつつ慧を見上げて告げた。しかし、既に慧の心は外食に移っているらしく、素早くソファから立ち上がったかと思うと、私を緩く引っ張るようにして立ち上がらせた。


「お店の中は涼しいよ。はい、支度して」


 そして慧は私の手を離し、スーツを脱ぎ始めた。適度に涼しいこの部屋を出て、きっと体に纏わり付くような夏の空気の中を歩くことを思うと、やはり私はあまり気が進まなかった。けれども、流れるような動作で着替えを済ませて鞄から財布を取り出している慧を見ると、半ば諦めるような心境で、私は髪を梳かしてヘアオイルを馴染ませ、薄くメイクをするしか無かった。


 二十分後くらいに私が化粧台を離れると、


「よし、行こう」


 と、慧が私に手を差し出したので、私は頷き、慧の手を取った。


 そして靴を履く時に一度、離れた私達の手は、玄関のドアを出た時に、どちらからともなく再び繋がれた。まだ少し明るい夏の夜の中、その影が私達の前に細く伸びては揺れていた。


「やっぱり、暑いね」


「有来は、夏が苦手?」


 もやっとした夏の空気の中を歩きながら、私は、ほんの少しだけ考えてから慧に答えた。


「苦手じゃないけど。でも、暑いのはちょっと大変かな」


「向日葵には、程遠いね」


 私は、その慧の言葉に思わず慧を見上げた。瞬間、私の目には慧の横顔と共に、空に小さく輝く星たちが映り込んだ。


「向日葵、好きでしょ」


 私に視線を合わせ、確認するように慧は告げた。


「好きだけど、話したことあったかな?」


 その私の疑問は、ささやかな驚きと喜びと共に、夏の夜空にすぐさま霧散した。


「ベランダの向日葵、良く世話しているし。外を歩いていて向日葵が咲いていたりすると、振り返って見ているし。有来が高校生くらいの時からかな。だから、向日葵が好きなんだなー、と思ってさ。違った?」


「違わない、けど」


 私は、無意識に小さく息を飲んだ。


「良く、見てたね」


「良く見てたのは、有来でしょ?」


 そう笑って告げる慧を見上げながら歩く私は、


「違うよ。私が向日葵を見ていることに気が付くなんて、良く見てたねってこと」


 と、慧の勘違いを半ば強く正しながらも、胸の鼓動が私の意思とは無関係に高鳴りつつあることを感じていた。


 ――向日葵のようになりたいと思っていた。まるで太陽のように花開く、あの花ほど真夏の青空が似合う花は無いと思う。堂々としていて、金色に輝くような花。すぐにはなれなくても、きっと少しずつなら近付いて行けると思い、ひそかな私の目標にまでなっていた、夏の花。向日葵。口に出すと、その輝きがたちまち色褪せてしまうような気がして、私は本当にひっそりと願い続けていた。それ自体を言い当てられたわけでは無いけれど、まるで、その私の願いを見抜かれたような錯覚に私は驚き、そして嬉しくなった。私が向日葵を好きだと告げたことは一度も無いのに、慧は私のことを理解してくれていた。その小さく、ささやかな事実が私にはとても嬉しかった。それこそ、向日葵が私の胸の中に咲いたかのように。


「振り返ってまで見てる有来を見ればね。しかも、ベランダに向日葵の鉢まで置き始めたし」


「……私って分かりやすい?」


 私の問い掛けに、


「うん。かなり」


 と、「かなり」の部分に力を込めて慧は即答した。


 ということは、慧が私を良く見ていたからというよりは、単に私が分かりやすいからということだろうか……?


 そんな考えが私の頭の中を巡り、先程のささやかな感動がしゅるしゅると消え掛けそうになったその時、


「有来のことは、ちゃんと見ているからね」


 と、まるで図ったかのようなタイミングで慧が言ったので、私はまた、どきりとしてしまった。


「ねえ、わざと?」


「ん、何が?」


 質問に質問で返されて、私はそれ以上、尋ねる気力を削がれてしまった。


「星、綺麗だよ。ほら」


「うん」


 慧の声に、私は夜空を見上げた。いつかのあの日のような、メレダイヤのような小さな星達が、遠い空の中で切ない程に輝き続けていた。私と慧は、いつもより少しだけゆっくりと歩きながら、真夏の夜空を見つめていた。間断なく地上へと光を届け続ける星々を見ていると、私の心の中には、以前に慧と見上げた星空、慧の部屋の窓から見上げた星空、昼間の星について話してくれた姫君のこと、私の左手の薬指に光るメレダイヤのことなどが次々と思い出されて、何故だか私は泣きたくなった。


 夏特有の夜の明るさは影を潜め始めていて、暗く遠い夜の空に、ちかちかと涙のように輝く沢山の星を見ていると、まるでその光を合図にするようにして、私の胸の中には沢山の思い出が蘇って行く。ノスタルジーのようなその感情は、やがて私を包み込んで行った。私はそれに飲み込まれないように、慧の左手と繋いだ自分の右手に力を込めた。


「どうした?」


 夜空から私へと視線を下ろした慧が、私を気遣うように尋ねた。私も夜空から視線を離し、そして軽く首を横に振った。


「綺麗だね」


 と、私が笑って言うと慧は頷き、


「そうだな」


 と、笑った。


 そして、私の手を繋ぐ慧の手に少し力が込められた。私と慧、二人の足音が鳴り、二人の影が伸びている。繋がれた手からは体温と優しさが伝わって来る。その幸福を私は愛しく思った。


 いつか、向日葵のようになれたら。きっと私は、その可能性を抱えている。いつになるかは誰にも分からないけれど、それでも、昼間は見えない星のように私を待っていてくれる輝きがあると信じられる。


 ――私が出会った、小さな姫君。私の体験は、きっと誰もが体験するようなことでは無く、けれども誰が体験してもおかしくは無いと思えるくらいの、それ程、私にとっては身近なことだった。私は見上げた夜空の星に、姫君の姿を重ねていた。小さく小さく、何度でも強く瞬き光り続ける星が、まるで姫君のように見えた。


 こんなにも確かに輝きを届ける星は、明日の太陽が昇れば見えなくなってしまう存在で。けれども、昼間でも星はそこにある。そして、太陽が西の空に沈み、暗闇が空に広がり始めれば、何事も無かったかのように星は空に輝き始める。暗い闇の中、私を導くように光り続けてくれた姫君。姫君がいてくれたから、私は今、ここにいる。今は、その姿が見えないけれど。


 いつか、いつかまた姫君に会える日が来たら。私は、もう一度、ありがとうを伝えたい。星のように私に寄り添っていてくれていた姫君に、ありがとうと伝えたい。私は姫君を忘れない。だからどうか、姫君も私を忘れないで。真夏の夜空で美しく光る星に、私は心から願いを届けた。


「ねえ、慧。前に、慧が私を好きじゃなくても、慧は私と姫君が出会って良かったって言ってくれるのかなって聞いたことがあるでしょ?」


「うん」


 響く二人の靴音が、まるで私の心音のように感じられる。私は、その音のリズムから離れないようにしつつ、自分のつま先を追いかけるようにして歩いた。


「そうしたら慧はすぐに、勿論って答えてくれた。あれね、すごく嬉しかったんだ」


「分かってるよ。というか、覚えてる。有来は本当に分かりやすいからね」


 頭上から降る慧の声には、僅かに笑いが含まれていた。私は、それに少しばかり悔しさを感じつつも、それ以上に気持ちの高揚を感じていた。


「あの時、とても安心したんだ。すとんと心が落ち着いて、ああ良かった、って思った。出会えて良かったねって、慧が本当に思ってくれていることが分かって嬉しかったし、ほっとした。その理由は、今でもはっきりは分からないけど」


 私が言葉を切ると、たちまち夜の空気が私と慧を押し包んだ。二人の足音、微かな息づかい。時折、すれ違う人や走り去って行く自動車。瞬く星。


「ありがとう」


 夏の夜に自然に溶け込めるくらい、きっと私は素直に慧に伝えられた。今までで一番と言っても良いくらい、私は心を伝えられたと思う。その答えは、自分のつま先から視線を剥がして見つめた慧の笑顔が、何よりも確かに私に教えてくれていた。


「俺も、ありがとう。有来にそう言って貰えると嬉しいよ」


 私は、ひどく幸福を感じていた。夏の夜、星空の広がる下を慧と二人、手を繋いで歩いている。同じお店で二人一緒に夕食を食べて、きっと帰り道も手を繋いで二人で同じ家に帰って行く。明日は土曜日で私も慧もお休みだから、もしかしたらどこかへ出掛けることになるかもしれない。もしも家にいるとしても、その空間には、慧がいる。


 紅茶やハーブティーを飲んだり、食事を作ったり、他愛のないことをとりとめもなく話したり、一緒に音楽を聴いたりゲームをしたり、勉強を教えて貰ったりするのかもしれない。そこには私がいて、慧がいる。それは、きっと私が渇望していたことで、切望していた温かさだった。その温かさに気付かせてくれた三人は、私の大切な宝物になっている。諦めないでと、教えてくれたのは姫君だった。きっと輝きが待っていると、伝えてくれた姫君がいてくれたからこそ、今、私は、ここにこうしている。沙矢が背中を押してくれたから、私はここにいる。慧が私を諦めないでいてくれたから、私はここにいられる。


 そして、きっとこれからも輝きが待っていてくれると信じられる。いつか向日葵のように花開き、夏の青空に添えるようなコントラストを作り出せたらと思える。


 私は、今の幸福を大切にしたい。そしてここへと導いてくれた三人に、心からありがとうと思っていた。この温かさを忘れないでいたい。そして、姫君や沙矢や慧のような優しい人になりたいと思った。


「着いたよ。ちょっと混んでるね。明日が土曜日だからかな」


 慧の声に通りの先へと視線を向けると、夜に光る小さなレストランの中の少しばかり混雑している様子が見えた。


「大丈夫だよ」


「そう?」


 うん、と私は短く返事をして、それに、と付け加えた。


「慧がいるから。だから待っているのは退屈じゃないよ」


 少しの勇気を出して告げた私の言葉は、すぐに慧が受け止めてくれた。


「俺も。退屈じゃないよ。有来がいるから」


 私は、その言葉をとても嬉しく思い、少しの照れを感じ、温かさを感じた。


 慧が開けてくれたレストランの扉をくぐり、振り返った慧は優しく笑っていた。私も自然に笑顔になれた。その瞬間が、ひどく愛しく、幸福だった。


 ありがとう。私は心の中で、そっと祈った。

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