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魔法使いの弟子から嫁にジョブチェンジ

私があの世界へのドアを開いたのは、いつも朝だった。


この前、先輩が開けた時もそう。

向こうの世界で『歪み』を見つけるのも朝。


偶然そうなっただけなのかもしれない。私は一度帰宅したら翌朝までは家を出ることもなかったし、向こうでもあの辺りを通るのは朝、素材探しに向かう時だけだった。

だから、本当はほかの時間帯にも繋がる時があるのかもしれない。でも、朝が一番確率が高い、という気がした。




朝の、それも特に出勤時間を中心に玄関に居座り、鍵を手にドアの開け閉めを繰り返す。

ほんの少し開け、景色を確認してすぐに閉める。

何度も、何度も。


手に握った鍵は必須だ。

この前の十日間は幸い無事だったけど、私が消えたあと空き巣にでも荒らされたらたまらない。消えた私は間違いなく事件に巻き込まれた、とされてしまう。


ゴミ出しの日はチャンスだった。家の中の整理も兼ねて、残しておきたくない色んな物を片っ端からゴミ袋に突っ込み、一袋ずつ何回も出しに行った。


安物のドアは開ける時はカチャリと、閉める時はガシャンと音が鳴る。何度でも繰り返したいから、極力音を立てないように、すごく気をつかった。

ご近所で、変なことをしてる、とか噂されるのはできれば御免被りたい。注目されたらやりにくくなるから。


それ以外の時間帯は思いついた時に。


近所のコンビニへは一日に何度も通った。散歩だけして帰ったり、とにかく何度も外出して部屋から出ていく回数を増やした。


ドアを開ける時はいつも緊張している。そしてがっかりした顔で近所を歩き、家に帰ったら諦めきれずに一度閉めたドアをまた開けた。

外で何か物音がした? みたいな顔をして。




早い時は二カ月ほど。期間があいた時でも一年ほどで向こうへのドアは開いた、と思う。

だけどクローと過ごした一年は、こっちでは十日にしかならなかった。ということは、こっちで一カ月を過ごしたら、向こうじゃ三年過ぎてるんじゃないのか?


時間の流れが違うのかもしれない、という焦燥も私を追いつめていた。



仕事に追われ気にしていなかった時は、ドアの向こうの世界はもっと頻繁に訪れているように感じていた。

実際にそれだけを念じて生活しだすと一日が、一週間が、恐ろしく長い。


そして人間っていうものは、生きていればそれだけでお金がかかる。

食費は当然ながら、水道光熱費にスマホの料金。病気になったら困るから、保険も国民健康保険に切り替えている。年金もNHKも毎月勝手に引き落とされるし、じっとしていても通帳の残高は目減りしていく。

カレンダーを睨み、通帳を睨む日が続いた。



ひと月たち、ふた月過ぎると焦りはピークに達した。

二カ月くらいでこんなに焦ってどうする、って理屈ではわかってるのに、向こうの世界でクローがどうしているのか、考えただけで胸が締めつけられる。


行方不明のお兄さんをずっと待ってたクロー。そんな彼が、私のことはあっさり忘れてしまえるものか?

落馬して頭を打った時も、心配する私に「エミカを忘れたりしない」って言ってくれた。


最後に見た彼の表情が、目に焼きついて離れない。

涙を浮かべながら、なのに私を心配させまいと、笑顔で送り出そうとしていた。







季節はいつの間にやら夏の終わりに差しかかっていた。

世間さまではお盆休みも終了し、子供は夏休みの宿題に慌てだす頃だ。

尤も、私はこんな時期に慌てたことは一度もない。夏休みの宿題は七月中に終わらせて、八月は心置きなく遊ぶ主義だった。



テレビの天気予報では、連日激しい夕立の話題で盛り上がっている。突然襲ってくる夏の風物詩はこれまで迷惑としか思ってなかったけど、今の私にとっては大歓迎だ。


叩きつける雨で窓の外が見えないほどになると、みんな家の中に閉じこもる。

玄関の外には、フェンスまでを覆う屋根があるとはいえ、こんな天気で外に顔を出す人もそうそういない。


激しい雨音と、時折混じる雷の凄まじい音。

思う存分ドアを開け閉めするチャンスでしかなかった。


その日もどしゃ降りの雨音をBGMに、ドアを開けて閉める。また開けて閉める。そんな単純作業を何回繰り返しただろう。


待ち望んだ瞬間は、何の予告も予感もなく突然に訪れた。





ドアを開けた途端、それまでの暴力的なまでの雨音がかき消えた。

長方形の枠の向こうには、懐かしい光景。

まばらに生えた木々の向こうに、端っこだけが見える私たちの家。



そしてクロー。




彼は目を見開いていた。



「エ……ミカ? どうして……?」





私はノブを掴んだまま、ドアの向こうに飛び出した。

その際、玄関脇にずっと置いていたバッグを持ち出すことも忘れない。中には私が向こうに無理矢理帰された時に着ていた服や、こっちに持ってきたかったあれやらこれやらがギュウギュウに詰められている。


手に握りしめたままだった鍵を鍵穴に差し、勢いよく閉めて鍵をかけると同時にドアがぼやけて消え、後にはいつもの『歪み』がどこかの景色を垂れ流し始めた。


手の中に残った鍵を見もせず投げ捨て、私は彼の元へ裸足で走る。


「クローッ!」


クローめがけて飛び込む私を、彼は信じられないものを見るような目で見た。

「どうして戻って来たっ! あんな偶然、二度とないのにっ」

そう叫びながらも、彼の腕は私の背にしっかり回される。その感触に安堵しつつ私も叫んだ。

「どうしてもこうしてもないわっ。私の意見も聞かずに何してくれた!」


ボロボロ泣く私に、彼は視線を泳がせた。


「私は要らないの? 邪魔だから向こうに追い返したの?」

「まさかっ! そんなこと……」

「じゃあなんであんなことしたのっ!? 私が喜ぶとでも思った?」

違うのに。こんなふうに詰りたいんじゃないのに止まらない。


「……待ってる人が、いたんだ、と思って……エミカを待ってる人が……」

狼狽えるクローにしがみついた。

胸元には私がプレゼントしたペンダントが揺れている。

「じゃあ、なんでクローはここにいるのっ! こんな時間に森に来たことないくせに。クローこそ私を待ってたんじゃないのっ!?」


クローの生活ならよく知ってる。太陽が沈みかけてるこの時間に森に入ってきたことなんてなかった。



「エミカ……。本当にエミカなのかな?」

「私じゃなきゃ誰だっていうのよ……」

未だ呆然とした様子のクローから僅かに離れ、手の甲で涙を拭うと、また抱く腕に力がこもり引き寄せられた。


彼は私の肩に顔を埋め、「本当に本物だよね。帰ってきて、くれたんだよね?」耳元で、押し殺した声で囁く。


「どんなにエミカが元の世界に帰りたがってたか知ってたから、あの瞬間帰してあげなきゃ、と思った。あとでどんなに後悔したか……」

「当たり前でしょ。 後悔くらいしてもらわなきゃ、こっちだってやってらんないよ」

そんな憎まれ口をききながら、ふと顔を上げたクローを見たら……。


「クロー、なんか痩せた?」

慌ててその少しほっそりした顔を両手で挟んで問うと、クローは苦笑する。

「エミカがいなくなってから、食事が全然美味しくなくなった。何もしたくなくて、でも何かしなきゃって焦りばかりで」

クローは私の頬の、涙のあとに指を滑らせた。


「気がつけば、いつもここに来てボーッとしてた。なんであんなことしてしまったのか……って後悔して、でもエミカが幸せになるならそれでいいって思って、それでまた、取り返しのつかないことをしてしまったと後悔して……」


「ここには『歪み』を……、私を探しにきてくれてた?」


「もしかしたら、少しでも姿が見られるかも、って思った……。もし一度でも見られたら、幸せそうに笑っててくれたら、それで諦められると」

クローの頬を涙がつたう。今度は私が、それを親指で拭った。

「それなら絶対に無理だったよ。向こうに帰ってから笑ったことなんて一度もない。クローがいないのにどうして笑えるの?」


その言葉にクローは瞠目する。


「僕は……、本当にバカなことをしてしまったんだね……」

がっくりと肩を落とすクローの頭を、手を伸ばして撫でた。

私が落ち込んだ時、いつもクローがしてくれたように。

「バカなことといえば全くその通りだけど、戻ってこられたんだからもういいよ。ところでこっちでは、あれからどのくらいたってるの?」

何気なく聞いた私はのけぞった。「六ねんんん~っ!?」


計算通りといえば計算通りなんだけど、クローの様子を見た限りでは、少し痩せてたくらいであまり変わってないようだったから、時間の経過はランダムなのかと思い始めたところだった。


「クロー、年上になっちゃったんだ……」

強制送還の少し前に二十四歳になってたから、今は三十歳くらいだろうか?

「私の方では二カ月しか過ぎてないよ」って呆然として言うと、「年下が好みだった?」ってクローが眉尻を下げた。


思わず笑ってしまって、「私の好みは『クロー』だって知らなかったの? 年齢なんて関係ない」って言いながら彼に飛びついた。

「でも今度あんなことしたらもう許さないから!」

一応釘を刺しておくと、クローは真剣な顔で言った。

「もう二度としない。エミカのいない人生なんて考えられない。ずっと、一生、僕と一緒にいて欲しい」


……これはプロポーズ? プロポーズということでいいのか?


前の時は私からしたし、まさかクローからそんなこと言ってもらえるとは思わなかった。

夢じゃないよね? とこっそり手の甲をつねる。うん、痛い……かも。

緊張した面持ちで返事を待つクローに、真っ赤になってコクコクと首を振ると、彼の顔は幸せそうにゆっくりと綻んでいった。


それから私たちはキスをして、──そっか……クローにとっては六年ぶりなんだ──と、そう思ったのだった。




そうしてお互いを堪能してから、私にとっては二カ月ぶり、クローにとっては六年ぶりに、二人で木々の隙間に見える私たちの家に戻った。私は裸足だから、クローに抱きかかえられての帰宅になったけどね。


ほんと、サンダルくらい履いておけばよかったな。

そもそも玄関には、強制送還の時に履いてた靴だって置いてあったんだよ。

でも玄関が狭いから、靴を履かなくてもドアの開け閉めはできちゃうんだよな。夕立で出かける予定もなかったし、 ズボラをかまして失敗してしまった。


クローに申しわけなくて、「重いよね、ごめんね」って謝ったら、なぜか彼は嬉しそうに「家にあるエミカの靴、全部捨ててしまおうかな」と呟く。

えっ? そんなに怒らせるほど重い!? って一瞬青くなったんだけど、でもクローは明らかにご機嫌で……。


うーん、これってジョークなのかな。でもクローがジョークを言ってるの聞いたことないしな。もしかしたらジョークのセンスがないのかもしれない。






六年が過ぎたと彼はいうけれど、家に着いてみればそこは何もかもが以前のままだった。玄関の置物も、二人で座ったソファーも、やりかけの刺繍も私の部屋も、何から何まで私がいた時のまま。

ただ、クローが私のために買ってきてくれた様々な魔道具に嵌められた魔石だけが、全部白く濁ってひび割れていた。


二十六年を過ごし一年間留守にした向こうに戻った時よりも、一年を過ごして二カ月間留守にしたこっちに戻った時のほうがホッとするってのはどうなんだろう。

そんなことも少し思ったけど、それはきっと場所じゃなくて、クローがそこにいるかどうかなんだ。

向こうでもこっちでも、クローがいてくれたらそれでいい。



クローは私をソファーに座らせ、汚れた足にクリーンの魔法をかけ、裸足で走った足に傷がないか調べ、更にお湯でも拭いてくれた。

靴下と室内履きを持ってきて履かせてくれようとしたから、さすがにそれは奪いとって自分で履く。

そのあと彼は、ずっと意味もなくソワソワと動きまわっている。

「喉は渇いてない?」

「お腹はすいてないの? たいしたものはないけど、何か作ろうか?」

「寒くない? ひざ掛けを使う? それとも暑い? そうだ、何か冷たいものを飲む?」

迷走し始めたクローは、このままじゃ私の代わりにトイレに行く、とでも言い出しそうだ。


「クロー、なんにもいらないから、ちょっと落ち着こうか」

ソファーの横を通り過ぎようとした彼の服の裾を掴まえて言うと、渋々のように私の横に座る。

「遭難してたわけじゃないんだから、そんなにお腹は空いてないし喉も渇いてない。暑くも寒くもないよ」

私の言葉にクローは「でも……」と言いかけて黙り込んだ。

何も手につかない様子の彼になんとなく保護欲を刺激され、ふと思いついて言ってみる。

「クローも夕食まだだよね。お腹すいてないの? 今日の夕食、久しぶりに私が作ろうか?」



私が後生大事に抱えてきたバッグには、細々したものがたくさん詰め込まれていて、その中には向こうの世界のいわゆる調味料や香辛料なんてものも入っている。

こっちの世界の調味料にも随分慣れたけど、向こうへ戻った時に向こうの味付けの料理を食べたらやっぱり懐かしくて、どうしてもクローにこの味を食べて欲しくて色んな種類を持ち込んでしまったんだ。


クローは目を見開いてコクコクと頷いたけど、すぐにハッとした様子で立ち上がった。キッチンへ急ぎ足で向かう彼のあとについて行くと、冷蔵箱を開けて途方に暮れている。

背中越しに覗き込めば、そこには塊のパンと大量の卵と玉ねぎの欠片しかなかった。

その様子から察するに、倉庫もきっと空っぽだろう。


「……確かにたいしたものはないねぇ」

嫌味のつもりはなかったけど、声に呆れが混ざったのは不可抗力だ。

クロー、いったい今まで何を食べてたんだよ。これじゃ痩せちゃって当たり前だ。

私の言葉に、クローは居心地悪そうに肩を竦めた。


冷蔵箱の魔石も他の魔道具の魔石同様白く濁ってひびが入っていたから、中のパンや卵や玉ねぎたちは、クローの状態保存の魔法で生き延びていたと思われる。


クローが魔石をつけかえてくれたコンロで、それらを使ってスクランブルエッグとだし巻き卵と澄まし汁を作ることにした。ダシ昆布や鰹節も持ってはきたけど、ここはいつもお世話になっている粉末だしの素の出番だ。

まずはお澄まし用の出汁を加熱しながら、塩を振った卵二個をバターで炒めお皿に移す。

玉ねぎは欠片しかなかったから超薄切りにしてお澄ましに投入。

煮込んでる横で今度は、お澄まし用の出汁を少し取り分けておいたものに卵を三つ割り入れ、水溶き片栗粉とほんの少しの醤油を足して箸で溶いた。

フライパンは丸いのしかないから、真ん中に卵液を流し込み、少しずつ足しながらクルクルと巻いていく。

お澄ましに入れた超薄切り玉ねぎはあっという間に火が通るから、別の器に用意した溶き卵を流し入れて出来上がりだ。

なんでお味噌汁にしなかったかというと、単に玉ねぎの味噌汁にはジャガイモか油揚げかせめてワカメが欲しかったから。そして、そのどれもが今ここにはなかった。

クローはお味噌汁なんて飲んだことがないはずだから、どうせなら初めて飲むお味噌汁は最高に美味しいものをつくってあげたい。


盛りつけるためにだし巻き卵の両端を切り落とし、片方を味見してみた私は、ちょっとドキドキしながらもう一方をクローに「食べてみて?」と差しだした。

躊躇わず口にした彼は一瞬目を見開き、それからとても嬉しそうに笑って言った。

「これが、エミカが育った国の味なんだ。……とても繊細で美味しいね」


それから塊パンをスライスして火でサッと炙り、スクランブルエッグを乗せてケチャップをかける。お澄ましとだし巻き卵をテーブルに運んでいる間にクローが飲み物を用意してくれて、なんだか朝食っぽいささやかな夕食が始まったのだった。




夕食のあとは、お風呂を沸かしながら絵本を広げ、お湯が沸いたら交代で入る。

クローは今までにない驚きの速さでお風呂から出てきて、唖然とする私を見てため息をついていたのが謎だった。


でもまあ私にしてみたら二カ月前の生活そのままで、あっという間に順応してしまったのだけれど、クローにとっては当然ながらそうじゃなくて。


そのことを思い知らされたのは、さあ寝ようかという時刻になってからのこと。



いつものように「お休み」の挨拶をして、部屋へ行こうとした私の手を取り、クローは躊躇いつつ言った。

「今日、一緒に寝てもいい?」


その言葉の意味がわからないほど子供じゃない。

少しびっくりはしたけど、二カ月間離れていたことで私も覚悟はできたつもりだった。というか、正直後悔さえしていた。


あの時、もし私たちの間にそういった絆ともいえる関係ができていたとしたら、私は送り返されることもなかったんじゃないか、と。

あの頃のクローがどう考えていたのかは分からないけど、怖がってないで自分からガンガン行けばよかった、とも。


だから私は小さく頷き、彼に手を引かれるままついて行った。





彼の部屋の、彼のベッドに腰掛けなんとなく辺りを見まわす。

中に足を踏み入れたことはなかったけど、外から中を覗き込んだことは何度もある。

家具の配置も何もかもがやっぱり前のままで、でも見る角度が違うと全然違う部屋のようにも思えた。


物珍しげにキョロキョロする私の横に座ったクローは、私の髪を撫で、頬に指を滑らせ、後頭部に掌を差し込む。灯りがおとされ薄暗くなった部屋で、私たちは見つめあった。


──さて。

ここで私は、クローにひとつ白状しておかなくてはならないことがある。

強制送還の前、結婚を決めてからずっと気にしていたことだ。それは人によっては笑い話かもしれないけど、私にとってクローの反応は切実な問題で、だからこれ以上先に進む前になんとしても伝えておきたい。だってもし万が一、前置きなしにそれを目にしたクローがドン引きしてしまったら、私も大ダメージを受けるのは間違いないからね。

雰囲気ぶち壊しで申し訳ない! と脳内で謝りつつ、パジャマに手を掛けようとするクローを押しとどめ、考え考え言葉を紡いだ。

「あのさ、ここまできてなんだけど、どうしても先に言っておきたいことがあってさ……」


そして、ベッドに向かい合わせに座り込んだ私たち。

クローは話を聞いても笑ったりしなかった。私の胸元に目をやり、首を傾げる。

「何が問題なの?」

──だから、サイズです。


小さいのです。昼間はともかく、寝る時にまで下着はいらないだろって程度には。

こうして座っていればそれなりに、だけど仰向けに寝転んだが最後、その存在を主張することを放棄してしまう程度には。

つまり、いわゆるちっぱいというやつなのです。


だけどクローは気にした様子もなく両手を伸ばし、パジャマの上から私のささやかな胸に触れた。

「全然、何も問題ないよ」

そっと包み込むように持ち上げる。


うん、今は座ってるからね。

寝転ぶと大変なことになるんだよ。

だけどもういいや。クローさえ問題ないって言ってくれるなら、他の誰にも関係ないんだから。

私はクローににじり寄った。この十センチの距離はいらない。

目を見開いた彼は、クツリと嬉しそうに笑って私を膝に乗せてくれる。まるで大切でたまらないみたいに私を抱きしめ、そっと口付けた。

「ねぇエミカ。帰ってきてくれて、本当に嬉しいんだ。どうしていいかわからないくらいに」

そんな言葉を囁きながら、何度も何度も唇を合わせ、そのうち彼の唇は鼻の頭とか、額とか、頬を彷徨うように移動していく。

羽根が触れるような優しいキスが降り注ぎ、やがてクローは私を横たえ、覆い被さるようにして見つめてきた。

「これも後悔したことの一つだった……」


まるで独り言のような彼の言葉に僅かに首を傾げると、今度はくつろげたパジャマの襟元辺りにキスが落ちてくる。

「どうしてあの頃、こんなふうに過ごさなかったんだろう。そうしたら絶対エミカを手離そうなんて思わなかった。そんなこと考えることさえなかったのに……」


なんだ、私たち同じことを考えてたんだな。

だから彼は今日、こんなにも性急に求めてきたんだろうか?

もう、後悔しないために?


私の身体の上に伏せ、パジャマの上から胸に頬擦りしている彼が可愛くて堪らなくて、その黒髪をなんとなく撫でていると急に重みが増した。


──あれ!?

今まで殆ど重さを感じなかったのに?

いや、よく考えたら重みを感じないほうが変なのか!?

ゴソゴソと身じろいで様子を見ると──。

なんてことだろう! クローは静かに寝息を立てていた。私の胸に顔を埋めたまま……。


えええっ!? ここまできて、そんなことってある?





その後、クローの下から這いずり出すことに成功した私は、無心に眠るクローに薄手のブランケットを被せ、どうしたもんかと考えた。

起こすのは論外だ。見るからにクローは疲れている。


じゃあどうする?

一緒に寝るしかないだろう。

そういえばクローだってさっき、『一緒に寝てもいい?』って言ってたもんな。

それに、なんやかんやあったから私だってそれなりに疲れている……、ような気がする。


そうと決まれば、と彼の隣にもぐり込み目を閉じかけた私は、クローの手が何かを探すように微かに動いていることに気がついた。

まさかとは思いつつそっと身体を近づけてみると、私の腕を捉えたクローは瞬く間に身体を擦り寄せ、横向けに寝転がる私の胸にまたもや頬を押しつけてくる。


え? 起きてないよね?

覗き込んだらクローはちゃんと寝息を立てていて、でもその口元はちょっぴり嬉しそうに綻んでいるようにも見えた。


横向けなら私の胸もまな板にはならない。

こんなささやかな胸でも喜んでもらえるならありがたい話だ、とそのまま彼の頭をかかえるように胸に抱き、私も眠りについたのだった。



翌朝、目覚めたクローは大変わかりやすく落ち込んでいた。


愕然とした様子で「有り得ない」「自分が信じられない」「できることならやり直したい」などとブツブツ呟いた挙げ句、「時間がない」とパタパタ出かける準備を始め、空っぽの倉庫と冷蔵箱を埋めるため買い物に行くのかと思いきや、これから二人でサザナンへ出発するのだという。


それからすぐに、まずは一人で田舎町へ向かったクローは馬車を雇い、家の近くまで迎えに来てくれて、そのまま私も一緒にサザナンへ。

道中、あまりの道の悪さに私が馬車酔いになったりもしたけど、どうにか深夜に到着して一泊。翌朝一番で移民局へ行き移住の手続きをした。

その際カウンターで、クローが例の四次元袋からこっそり取り出した百ペルコインの枚数たるや、係りの人が絶句してコソコソ周りを見回したほどだった。


そして戸籍を作ってもらったらその足で役所へ赴き、そのまま婚姻の届けも出してしまう。


なんてことだろう。

あれよあれよという間に、私はクローの嫁になっていた。



引っ越しも決まった。

私から言うまでもなく、クローから切り出してきた。

理由はというと、やっぱりあの『歪み』だった。


「もう二度とアレに大切なものを持っていかれたくない」

そう言ったクローの言葉の中には、私はもちろん、彼のお兄さんも、そしてもしかしたらこれから生まれてくるかもしれない子供のことも含まれてるんだと思う。


クローはまだ、お兄さんのことを話してはくれないけど、きっといつか気持ちの整理がついたら教えてくれる、と思っている。




引っ越し先については幾つか候補をあげたけど、結局サザナンに決まった。

私の理由としては、この前手続きに行ったときに町の雰囲気が良くてみんなが優しかったから。

クローが嫌な思いをしないならどこだっていい。




そうして瞬く間に私たちは、クローが探してきたサザナン郊外の一軒家を買い取り、そこに住むことになった。

郊外といっても商店街なんかは近くにあるし、今よりもよっぽど便利になる。

そして何よりも家の周りには森がある。

今はナフタリアは採れないけど、ちゃんと手入れをすれば二~三年後には採れるようになるらしい。


「石を採るのに手入れがいるの?」

キョトンとする私に、クローは言った。

「あれは石って呼ばれてるけど、正確には光虫のサナギが石化したもの」

「ええええ──っ! 虫だったの!?」

道理で採っても採っても、いつの間にか新しいのが湧いて出てくると思ってたんだよ。

因みに、森でナフタリアが採れるようになるまでは、町の養殖屋さんから購入するのだそうだ。




そんなわけで、私とクローは仲良く暮らしている。

ご近所の人には、相変わらず素っ気ない上に口数も少ないクローだけど、その分私が笑って喋るから問題なし。

クローは私には笑ってくれるし、私が話しかけたときは必ず返事してくれる。落ち込んでる時は頭を撫でてくれて、寂しい時は甘やかしてくれる。

喧嘩をすることもあるけど、すぐ仲直りする。




私が笑っていることがクローの幸せなんだって知ってるから、私たちはこうやって、ずっとずっと笑いあって生きていこうと思うんだ。


最後までお読み頂きまして本当にありがとうございました!

へたれなヒーローは如何だったでしょうか?

あんまり需要ないのかな?わたし的には『有り』なのですけど(^_^;)


実は番外編をこのまま続けて投稿するつもりだったのですが、本編をちまちま更新している間に書き終わる予定が延びていて、まだ終わる気配がありません……。

本編は概ね予定通りの話数で収まったのになぁ。ガックリ……。


ともかく全部書き終わってから投稿しようと思っています。

もしも本編を気に入って下さった方がおられましたら、糖度マシマシの番外編もよろしくお願い致します。

なるべく早めに書きあげるつもりですので。


それでは、こんなところまでお付き合い下さってありがとうございました!

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