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魔法使いの弟子<8>

「え!? 篠せんぱ……なんでっ!?」


そこにはドアを片手で支え、至近距離から私を凝視する篠先輩の姿があった。その後ろには、見慣れた私の部屋の狭い玄関!

目を見開く私を見た途端、先輩は後ろを振り向き、「大家さーん、今帰って来ましたっ! お騒がせしてすみませーん」と叫んだ。


なにが起こっているのかわからない私の手が振り解かれたのは、その時だった。


あっ、と思う間もなく後ろから突き飛ばされ、タタラを踏んで先輩の背中にぶつかり膝をつく

「痛ぇ! 何すんだっ」

うるさいっ。先輩なんかに構ってられるか。

慌てて振り返ると、支えを失い緩慢に閉まっていくドアの向こうに、クローの泣き笑いの表情が見えた。


バランスを崩しながらも手を伸ばす私の前で、ドアがガシャンと耳障りな音をたてる。


──ドアは、閉じてしまった。






「だいたいお前さ、十日も無断欠勤はないだろ」

十日しか、たってないのか。


少し白髪の目立つ大家のおばさんは、ペコペコ頭を下げる私たちに見送られ、「いい加減にして下さいよ」と文句を言いながら帰っていった。

そして私は玄関先で、先輩から説教を食らっている。


「社会人なんだから、周りに心配かけるようなことすんなよ。お前んち固定電話ないし、ケータイには出ねぇし、三日も四日も連絡つかなきゃ心配になるだろ?」

「すみません」

「心配したのは俺だけじゃないって。それで社長が実家の電話にかけたら違う家に繋がるし、なにそれ番号変わったのか?」

元々でたらめ書いたんだよ。実家になんか連絡取られたら困るんだから。


「お前、連絡取れねーから大変だったんだよ。大家さん探して、ここ開けてくれっつっても渋られるしさ」

当たり前だっての、あんた赤の他人じゃん。


「そろそろヤバイ季節だろ? 腐乱するかもっ、つったら漸く立ち会いを条件に開けるって許可くれて、いざ開けようとしたら鍵かかってねーし、意味わかんねーわ。お前鍵もかけずにどこチョロチョロしてんだよ。あ、それと大家さんとこの書類の緊急連絡先も、繋がらんかったらしいぞ。変わったんなら、ちゃんと教えといてやれよな」

勝手に人を死体にしないでいただきたい。そして、あの状況で鍵かけられる筈がないだろ。

あと、大家さんももう少し粘って欲しかった。


「そんで中入ったら、玄関に鞄が放りだしっぱなしだし、こりゃやっぱりおかしいってなって、大家さんに部屋の中見てもらってたんだ。男の俺が入るより大家さんの方がいいだろ? ──で、玄関も開けといたほうがいいかと思って開けたら、お前が帰ってきたってわけだよ。その服……森ガールっての? 私服だと全然雰囲気違うな」

先輩……大家さんに嫌なこと押しつけたね。そして服は関係ないから。


「そういや、さっき誰かと一緒だったか? もう一人いたような……」


黙ってフルフルと首を振った。


長めの茶髪をかきあげ、篠先輩は言った。

「こないだのことなら、誰も気にしてねぇからまた仕事に来いよ。いや、違う。社長も浦川さんも反省してるし、俺も少しは反省したから。みんなで変えられるとこは変えてこーぜ! ってなったからさ」

「……」


「今日はもういいから、明日は必ず出てこい。来にくかったら迎えに来てやる」という先輩に、迎えを丁重に辞退し、明日は必ず出社すると約束して帰ってもらった。


時計を見ると朝の七時半だ。

仕事前に寄ってくれたのか。




玄関に落ちていた鞄を拾い上げた。

鍵を取り出すとき、ふとスマホが切れてるのに気づいて充電すると、ここ十日間の着信履歴が気持ち悪いことになっていた。見なかったことにしよう。




部屋をグルリと見回し、呆然とちゃぶ台の前に座り込んだ。


こんなことってある?

もう帰る気なんかなくなった今になって!


そしてクロー。

あれ、絶対誤解してる。こっちの世界に、待ってる人なんかいない、ってあれほど言ったのに!


前はあんなに懐かしかった、帰りたかった部屋が寒々として、クローのいるあの家に戻りたくて仕方なかった。


そうして私は猛然と頭を働かせ始めたのだった。








翌日は金曜日だった。

朝、久しぶりにスーツに袖を通した。

以前は割りと好きだったスーツのカッチリした緊張感が、なぜだか酷く堅苦しい。

履き慣れた筈のパンプスは、他人の靴みたいだ。


全身があの世界へ、クローの元へ、と叫んでる。




一年ぶりの道を歩き、一年ぶりに電車に乗る。

駅から歩いて数分。

会社のビルは五階建てで、一階に駐車場と受付。二階が事務所で、三階は倉庫兼会議室だ。

うちの会社は、ドアの鍵を社長しか持っていないので、毎朝必ず社長が一番に出社している。といっても社長の自宅は、このビルの四階と五階だけどな。

エレベーターはあるが、基本誰も使わない。階段を上って狭いエントランスに立ち、事務所のドアを開けるときは、少しだけ緊張した。


中に入って真っ先に、パーテーションで区切られた、通称『社長室』へ向かった。

「失礼します、社長。この度は大変ご迷惑、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでしたっ!」

勢いよく頭を下げると、おっとりした声が「篠原君から聞いてるよ。無事でよかった」と笑う。

以前は苛々してしょうがなかったこの声を、こんなに落ち着いて聞ける日が来るなんて思わなかった。


「先日の件以外にも、何か事情があったのかな? 聞かせてもらえるんだろうか?」

社長の声に頷いた。

「はい、実は……」





社内をサッと掃除し、机の周りを整理していると、次々にみんなが出社してくる。

「おはようございます」

「お! おはよう」

「おはようございます」

「おはよう、風邪でも引いてたのか? 気をつけろよ」

「ありがとうございます」

みんな色々聞きたいだろうに、何もなかったかのように接してくれる。

もしかしたら、そうしろと言われてるのかもしれない。


「おっ! 来たか。おはよう」

篠先輩だ。

「おはようございます。大変ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

私がいなかった時の急ぎの仕事は、ほとんど先輩が引き受けてくれてたと聞いた。

やればできるんじゃないか。なんで今まで私に押しつけてたんだよ、と思わないでもないが、この際それは黙っておくことにした。

これからもっと大迷惑をかけることになるからだ。



パソコンを起動し、十日分のメールに目を通し、机に積まれたFAX用紙に目を通す。赤のマジックで『手配済』『打ち合わせ予定要連絡』などと書き殴られた大きめの文字は篠先輩のものだ。

まるで一年のブランクなどなかったように、それらを手に取るとやるべきことがわかった。

でもそれはもう、私には必要ない。溜まっている中から納期に猶予のある仕事を選り分け、急ぎの分だけ手もとに残して片っ端から電話をかけ、メールを送っていく。

気がつけば、周りのみんながお喋りもそこそこに、真剣に仕事をしていた。今までなら考えられないことだった。


唖然とする私に、「な、だから言ったろ」と隣の先輩が言った。




お昼休みには社長から、「今日は呑みに行くぞ!」とお達しがあった。

うぉぉーっ! と盛り上がると同時に、首を捻る人もチラホラ。週末とはいえ、こんなふうに急に呑み会が決まるなんて、これまで一度もなかった。

独身の人はともかく主婦さんたちは少々慌てていたけど、急な残業で居残りすることも少なからずある職場だ。家族に連絡をとってガッツポーズを決めていたから、問題なく出席できるんだろう。


やがて定時になり、みんなバタバタと仕事を終わらせていくのをみると、なんだよやればできるんじゃん、って気持ちが抑えきれない。と同時に、来週以降のクレームの数が増えそうで恐かったりもする。

でも、それこそもう私には関係のないことだった。





居酒屋の座敷で、テーブル二つに別れて座った社員八名パート十名を前に、社長がおもむろに告げる。

「実は工藤さんが、ご家庭の事情で急遽退職することになった。新人の募集はすぐにかけるが、当面の工藤さんの担当分は篠原君と、三宅君、相田さんに引き継いでもらう」

みんなが驚きの表情で一斉にこっちを見た。


居心地悪さを隠して立ち上がり、迷惑を詫び、感謝を述べる。

篠先輩、三宅さん、相田さんには驚いた様子はない。引き継ぎの件と共に、もう社長から聞いてたんだろう。


「では、工藤さんの新しい出発を祝して、乾杯!」

社長の音頭で無礼講になってから三人の所へ行き、改めて詫びた。

どの取引先を誰に振るかは今日社長が決めてくれているので、来週前半の三日間で主だった取引先に同行し、引き継ぎを済ませなくてはいけない。といっても私が抱えていたのは細かい所がほとんどだから、同行が必要な大口は八社だけだ。それでも迷惑に違いはないけど。


「家の事情だったのか?」と先輩。

三宅さん、相田さんも身を乗り出して来るので、声を潜め、今朝社長に話したのと同じことを繰り返した。


半年前に実家の会社が倒産して、家族が夜逃げした。私は母の連れ子で、籍を入れていなかったから借金取りは来なかったが、先日行方不明の家族から連絡があり、自己破産してやり直したいので手伝って欲しい、と言われた、と。


唖然とする三人。


私が母の連れ子だってこと以外は、全部大嘘だ。胡散臭い話だけど、私にはこれしか思いつかなかった。籍を入れていないといいつつ、私の名字と実家の名字が一緒なことについては、突っ込まれたらなんて誤魔化そうかと色々考えてたけど、誰からも突っ込みはなかった。

本当に信じてもらえてるのかも分からない。

早急に退職さえできれば、どうでもいい。



同行は篠先輩が一番多かった。

「なんで俺が一番多いんだ。三宅の方が手持ちの取引先、少ないだろう」と車の中でブツブツ言うので、「私の仕事を任せられるのは、篠先輩だけですよ」と返した。

以前、仕事を押しつけられた時、先輩がよく口にした台詞だ。『俺の仕事を任せられるのは、工藤しかいない』と。

負けず嫌いの私は音をあげることもせず、畜生! と思いながらも押しつけられた仕事をやりきった。するとできる(・・・)認定されたのか、また押しつけられる。無限ループだった。

私の台詞に先輩は苦虫を噛み潰したような顔をし、私は漸く長年の溜飲が下がった気分になったのだった。




引き継ぎの三日間は瞬く間に過ぎ去り、私は無事に退職を果たした。

最後は迷惑のかけ通しだったけど、あのままなにも言わずに行方不明になるよりは、よほどマシだったと思う。


皆に見送られ、定時で会社を出た。ビルを出てから振り返り、窓を見上げる。

なにも分からないまま入社して、全てを一から教えてもらった。嫌な思い出ばかりじゃなかった、と今ごろになって思い出していた。

深く頭を下げ、アパートへの道をゆっくりと辿る。

この景色ももう見納めだから。





それからは役所や銀行を走り回った。

失業手当ての申請もした。いつまで無職のまま過ごすかわからない。もらえるものはもらっておきたかった。

といっても自己都合の退職だから給付されるまで何カ月もかかるし、職安にも通わないといけないけど。


全額おろしてきた母のささやかな生命保険金からは、とりあえずアパートの家賃三カ月分だけを、家賃の引き落とし口座に預けた。

そのお金は私の嫁入り費用か、でなければ老後の資金の足しにするつもりで、それ以外には絶対遣わない、と決めてたお金だった。

でも嫁にいくんだし、きっとお母さんは許してくれる。


そう。私はなにがなんでも向こうの世界へ、クローのところへ戻ると決めていた。

『行く』じゃなくて『戻る』。私の帰る場所は、とっくに向こうの世界なんだから。




私が首尾よく向こうに戻れたとして、だけど口座に家賃分のお金が残っている限りは、ここは私の部屋だ。

お金が引き落とされなくなって、何カ月でこの部屋が捜索されることになるだろう。二カ月か? それとも三カ月?

大家さんにも迷惑はかけたくないので、半年分の家賃を封筒に入れ、『不足分の家賃に当ててください』と、それから『家具やなんかも全部処分してください』とメモ書きをつけ、引き出しに入れた。




しばらく考えて義父宛にも手紙を書いた。

『幸せになるので探さないでください。残っている私の財産はどこかに寄付して欲しい』とだけ。


私が実家から逃げ出したあと、もし義父が本気で捜していたとしたら、すぐに見つかっていたであろうことは薄々気づいていた。

義父にはきっと、私を捜す気なんてなかったんだと思う。

世間知らずの私が勝手に怯えていただけだ。


だからこの手紙の本当の宛先は、義父ではない。

これを置いておけば、もし万が一警察沙汰になってしまったとしても、犯罪に巻き込まれたのではなく、私が自分の意思で姿を消したのだ、という証拠の一つになるだろう、と思った。

他にもっと上手いやり方があるのかもしれないけど、私に思いつくのはこの程度だ。


そうして、全ての準備を整えて、クローのところへ帰るための生活が始まった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

ブクマを下さった方も本当にありがとうございます!



本編、残すところあと1話です。

最後までお付き合い頂けましたら嬉しいです。


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