魔法使いの弟子<7>
何がどうなっているのかさっぱり分からないまま、一晩まんじりともせずクローを待ち続け、夜が明けても彼は帰って来なかった。
サザナンは出たはずだ。メッセージが来てるんだから。
それなら、帰る途中で何かあったんだろうか?
なんの情報もなく、どこに問い合わせればいいのかもわからない。
クローさえ無事なら、きっと連絡をくれる筈。彼からの連絡手段はあるんだから。
ということは?
連絡がない、ってことは?
嫌だ!
変な想像しか働かない。
五分おきに彼が残していった皿を覗き込んだ。
茶碗を洗っても、掃除をしていても落ち着かなくて、とうとう何もかも放り出してしまう。
テーブルの周りをグルグル歩き、思いついたように玄関の様子を見に行った。
もしクローに何かあったとしたら、誰かここに報せてくれるだろうか?
クローは元々独り暮らしだ。私がここにいることはクラウスしか知らない。
もしも万が一、クローになにかがあったとして、誰もいない筈のここにいったい誰が連絡をくれる?
クローに何かあっても、私には知る術がない……。
それは恐ろしく絶望的な考えだった。
そしてまた夜がやってくる。
知らない間に取り返しのつかないことが起きてるんじゃないかと不安で、身体は疲れてるのに頭はギンギンに冴えていた。
二日目の夜をテーブルで過ごし、空が白み始めた頃、皿に異変が起きた。
覗き込む私の前で、水に現れた一滴の黒は広がり、たちまち細かい文字の群れに変わる。
なんだ、これ?
文字だってのはもちろん解るけど、あいにく私はこっちの文字はほぼ読めない。
いつもより格段に多い単語の群れは、いったい私に何を訴えかけているのか。ちゃんと文字の勉強をしておけばよかったと、こんなに後悔したことはなかった。
辛うじて真ん中辺りの一言。『帰る』の単語だけが読み取れた。『今から』が見当たらないのが気になったけど、とりあえず帰ってくる。
いつかわからないけど帰ってくるんだ。
そう思った途端ふぅっと気が抜けて、私はソファーに転がって眠ってしまったのだった。
夢の欠片も見ず、目が醒めたら太陽は真上に来ていた。
家の中は何の変わりもなく、テーブルの上を覗くと皿の中には、今朝の文字がそのまま残されている。
もう一度『帰る』の文字を確認して安心した私は、この文字たちを紙に写し、町で誰かに読んでもらおうか、と考えた。
だけど、初めはいい案に思えたそれは、少し考えるとろくでもない。
クローについての、何が書かれているかわからない文章を町の誰に読ませるつもりだった? ただでさえクローを偏見の目で見る連中に、クローのものは何一つ、情報でさえも差し出したくなかった。
かといってこのままじゃ、何が書かれているのか全くわからない。もし何か重要なことが書かれてたらどうする?
切羽詰まった気持ちのまま皿の文字を紙に写し、テーブルに子供向け絵本を広げ、私は単語の解読を始めた。
言葉が通じるのに文字は読めないとか、不条理以外の何物でもないと思う。
この三行程度の文章の中に、子供向け絵本と共通する単語ってのはいったいどれほどあるのか。日が暮れるまで頑張った結果、私に理解できたのは『ごめん』と『心配』の文字だけだった。『心配かけてごめん』なのかな? 文法は日本語と一緒の筈だけど。
これ以上は無理か、と諦めかけたとき、皿に新しいメッセージがきた。
息をのみ見守る私の前に現れたのは、簡潔な一言。『帰る』の二文字。
これは、今から帰るってこと? それとももうすぐ帰る? 『今から帰る』ならきっと、『今から』って単語をつけてくれると思うんだ。
あとどのくらいで帰るんだろう。すぐとか、そのうちとか、明日とか明後日とか色々あるじゃないか。
書いたって私には読めないのがわかってるから、書いてこなかったんだろうけどさ。
太陽はとうに沈み、三度目の夜を迎えようとしていた。
食欲はないけど、一昨日の晩からまともなものを食べていない。クローが帰ってきた時に、すぐに動けるように何か食べておかないと。
クローのために作った食事は昨日の朝、そのまま冷蔵箱に入れてしまった。その中から早めに食べたほうが良さそうなものを選り出して、つつくようにして食べた。こんなの、クローが帰ってきたらまた作るから別に構わない。
味見したときは美味しいと思ったのに、何故か全然味がしなかった。
夜は静かに更けて明け方近くになり、二度目のメッセージをもらってから何時間が過ぎただろうか。
テーブルに顔を伏せてウトウトしてた私は、家の外から聞こえる人の声で目が覚めた。
けど、これはクローの声じゃない。
私がここに来てから、この家を訪ねてきたのは『知り合い』のクラウスだけだ。
ボソボソ喋る声は何を言ってるのかさっぱり分からなくて、クラウスの良く通る声とも違うと思う。
テーブルセットの椅子を掴み、警戒しながら玄関の様子を見に行くと、カチャリとドアが開いた。鍵を持ってるのは、私とクローだけ。
食い入るように見つめる私の前に、細く開けたドアの隙間をすり抜けて入って来たのはクローだった。
夜明けとはいえまだ薄暗がりの中、椅子を振りかぶったまま立ち塞がる私を見てギョッとするクロー。
まさかそんなとこに私が立ってるなんて思わなかったんだろう。しかも椅子を担いで。
次の瞬間、私は椅子を投げ捨てクローに飛びついていた。
「おお、おがえりっ! ぶじでよがっだよぅ」
うん、もう既に泣いてて全然言葉になってなかった。
クローの腕がおそるおそる私の背中にまわり、直後ギュッと抱きしめられる。
「ごめん! 心配かけた……」
「うん、うん。……ぶじだったがらもぉいい」
クローのシャツにしがみついて一頻り泣いた私はようやく彼から離れ、スカートのポケットをゴソゴソ探った。
クローが帰って来なかった最初のあの夜から、ずっと考えてたことだ。
ポケットから取り出したいつかのペンダントを、クローにつきつける。
「お願い! これもらって、それで私をお嫁さんにして下さいっ! うるさいし、年上だし、ショボイ魔法しか使えないけどっ、クローになにかあったとき真っ先に駆けつけて、一番近くにいる権利が欲しいのっ!」
ポカンとしていたクローの顔がたちまち紅く染まった。
これはいけるっ! と思った私が、さらにもう一押ししようとしたとき、クローが口を開いた。
「でも君、本当は向こうに帰りたいでしょ? 待ってる人も会いたい人もいるよね?」
眉尻を下げて、困ったように私を見つめる。
『歪み』から未だに目を離せない私を、彼は知っていた。
だから私も、彼の目を見据えて一言ずつ、はっきりと口にした。
「向こうなんて、もういい! 待ってる人も会いたい人もいないし、私はクローが大好きなの。クローと一緒に、こっちの世界で、幸せになりたいのっ!」
掬うように腕をとられ、引き寄せられた。クローの顔が近づき、柔らかいものが唇に触れる。一瞬だけのそれは、私がずっと欲しくて欲しくて堪らなかったものだった。
太陽が昇り始めると途端に辺りは明るくなり、光の中で見ると、クローはかなり顔色が悪い。指摘すれば「そっちこそ」と言われた。考えてみれば食事も睡眠も、適当極まりない三日間だった。
お互い顔を見合わせて「酷い顔だよね」って笑いあってから、クローは気不味そうに「ごめん」と呟いた。そんなの気にしなくていいのに。
お腹はすいてないと言うので、朝だけど取りあえず眠ることにした。
なにがあったのかは気になるけど、無事に帰ってきてくれたんだし、まずはゆっくりさせてあげたい。
そしてその日のお昼過ぎに、スッキリと起きてきたクローと遅めの昼食を食べながら、彼の話を聞いた。
顔色もずいぶんマシになった彼は、ちゃんとペンダントをつけてくれていて、なんだか無性に嬉しくて恥ずかしかった。
クローがサザナンを出たのは四日前の午前中。
馬で数時間走り、森沿いの街道に差しかかったクローは、猟師に追われ飛び出してきた鹿と出くわし、驚いた馬に振り落とされたのだそうだ。
「慣れた道だったから油断してた。本当に格好悪い」とため息をつくクロー。落馬と聞いて真っ青になる私。
頭を打ってそのまま意識を失ったクローは、気がついた時には事故現場近くの小さな町の病院に運ばれていた。二晩が過ぎていた。
「頭って、怪我はないの? 大丈夫? 私のことちゃんと覚えてる!?」
思わず詰め寄ると、「怪我はたいしたことないし、エミカを忘れたりしない」と真面目な顔で返された。
それならいいんだけどさ。
さりげなく名前呼ばれてるし。
どうしよう、なんか照れるな。
クローを助けてくれたのは、鹿を追っていた猟師。逃げなかった馬も一緒に保護してくれていた。
そして、意識さえ戻ればあとの回復は早く、クローはその日の昼には無理矢理退院した。でもさすがにすぐ馬に乗る気にはなれず、馬車を雇ってここまで送ってもらったのだそうだ。朝、家の外で聞こえてた声はその馭者さんの声で、心配して玄関先まで着いてきてくれたらしい。
クローが借りていた馬も、ここに戻る前に町に寄って既に返却済み。
最初のメッセージは、意識が戻ってすぐに送ったもので、「やっぱり相当動転してた」とクローは苦笑した。
「全部一度は教えた単語だけど、君は絶対覚えてない、って馬車の中で気がついて、慌てていつもの単語を送りなおしたんだ」
マジか……。お察しのとおり、全く記憶に残ってなかったわ。
因みに最初のメッセージの内容は、『急に予定が変わったため、少し遅れている。明日には帰る。連絡が遅くなってごめん。心配しないで』だった。
『心配かけてごめん』じゃなかったな。惜しかった。
その後の私たちはどうなったか、っていうと、概ね同じような日々を過ごしている。
少し違うのは、夕食のあとに再び文字の勉強の時間が作られたこと。
一度は挫折した文字の勉強だけど、今回のことで懲りたからね。せめて日常会話くらいは読み書きできるようになろうと頑張っている。
そして、あの日からクローが私を名前で呼ぶようになったこと。
これが思いのほか嬉しかった。お母さんが亡くなって以来、私の名前を口にする人はいなくなったから。
以前は名前で呼んでくれていた義父は、いつの間にか『おい』や『ちょっと』としか言わなくなっていた。
それから、森へ素材探しに行くときとか、家でソファーに並んで座ったりとか、ふとしたときに手を繋ぐようになったこと。
その日も、ソファーに腰かけハンカチ相手に自己流の刺繍をしている私の横に、お風呂上がりのクローがストンと腰を下ろし、読みかけの本の頁を開く。
夕食のあとは私の文字の勉強タイムになったから、彼がゆっくり本を読めるのはこの時間だけだ。
クローの部屋にはかなりの蔵書があって、その半分以上は昔からあるものらしいけど、クローがサザナンに行くようになってから買い集めたという本も結構な量になるらしい。
私も、元の世界じゃ字を読むのは嫌いでもなかった。とはいえ難しい本には興味がなくて、読むなら軽い小説とかエッセイ。しかもそれよりはマンガのほうがいい、ってその程度だけどね。
クローはいったいどんな本を読むんだろう? って好奇心で見せてもらったこともあったけど、新書か上製本ってサイズのそれらには挿絵どころか表紙絵もなくて、まだまだ絵本から卒業できない私には単語を拾うことさえ難しかった。
テレビやゲーム機もないこの世界では、みんな暇つぶしに何をするのかな。
女性ならレース編みや刺繍ってのが定番っぽい。でも私はチマチマした作業とか好きなほうだけど、そういうのが苦手な人もいるだろうし、もちろん本が苦手って人もいると思う。
そんなことを考えながらクローに身体を寄せ、またしても彼の掌の上の読めない文字の群れを覗き込んでいると、ソファーの座面について体重を支えている私の左手に、クローの右手が重なった。
「あ、ごめんっ。邪魔だよね」
慌てて退こうとして見上げると、ヒタリと私を見つめる彼と目が合って。
重なった手と手は、いつの間にか指先が絡まっていた。
別にそんなルールを決めたわけじゃない。
でも、こういう雰囲気になると、クローは頬をよせ口づけてくるようになった。
ついばむように、ふたつ、みっつ。
エミカの唇が誘ってるから……とかわけのわかんないことを言って目を細めるクローだけど、私の唇は断じてそのような、恥ずかしくも器用な真似はしていない……はず。
──と思うのに、気がつけば見つめ合ってて、繋いだ手を引かれ、ゆっくりと降りてくるクローの唇をまた受け入れている。
回を重ねるごとに深くなるそれに、ただただ翻弄されるだけの私。
そしてふと気づくと、いつの間にか彼にしがみついている自分を発見する。クローの余裕そうな表情がちょっと憎らしい。
「ねぇ、クローってこういうの、慣れてるの? どこかで練習したの?」
唇を尖らせた私がしがみついたまま言うと、クローは一瞬キョトンとして次に破顔した。
「なんで、そんな可愛いこと言うの?」
今の言葉のいったいどこが? 可愛いって?
珍しくも眩しい彼の笑顔に視線を奪われつつ首を傾げてみせると、クローは嬉しそうに言う。
「だってそれ、褒めてくれてるんだよね?」
違うもん、違わないけど違うもん! という私の叫びは、口にする前に再び重なった彼の唇に吸い込まれ、消えていったのだった。
さて、私からの怒涛の逆プロポーズから約二週間。
世間様のカップルの、お付き合いの進行速度とは如何程のものなのか。
向こうの世界では仕事ばっかりで、そんなこと考える余裕もなかった。
こちらの世界のことは、当然ながら全くわからない。
今のところクローはキス以上のことをしてくる素振りもなく、でもお付き合いを始めて二週間かそこらでその先の段階に進むのはまだ少し怖くもあるから、ちょっとありがたい気もする。
つまるところ、キスだけでもういっぱいいっぱいなんである。もういい歳なんだけど、なにしろ男女交際に免疫がないもんで。
そして、ありがたく思う理由が実はもうひとつあった。
私自身はそんなに気にしてないんだけど、もしかしたらクローが気にするかもしれないことで、でもそれをまだ彼に確認する勇気がでないんだ。
それを知っても、クローはおそらく笑ったりバカにしたりはしないと思う。けどガッカリはするかもしれない。
クローをガッカリさせたくはないけど、でも今更どうしようもないことだし、意外と全然気にしないかもしれないけど、めちゃくちゃ気にするかもしれない。
彼の反応が全く想像つかなくて、いつかは話さなくちゃ、と思うんだけど、その覚悟を決めるにはもう少し時間が欲しかった。
だからもうしばらくは、こうやってゆっくりゆっくりと進めていけたらいいな、と思っている。
ただし、そんなお付き合いの進展具合とは別の話で、『結婚』という制度に関するクローの対応は素早かった。数日のうちに田舎町まで出向き、二人が結婚するにあたってどんな手続きが必要なのか、全部調べてきてくれた。
そしてその結果、私たちの結婚に一つ問題があることが判明。
「戸籍?」
「そう。戸籍がないと、届けが出せない」
そうか、戸籍か。言われてみれば当たり前だ。
この世界には王様がいて、それぞれの地方には領主さまなんて人がいるらしい。当然税金が徴収されてるだろうし、そのためには戸籍が必要だ。
でも異世界人の私に、戸籍なんてあるはずがない。
泣きそうになった私の頭を、クローが撫でた。
「エミカは心配しなくていい。移民局で他所の国からの移民として申請すれば、戸籍が作れる」
「そんなの、通るの?」
心配そうに訊く私に、クローは静かに微笑む。
「なんにだって例外はある。身分証を失くした外国の可哀想な女の子に冷たく当たる奴はいない。その子が金持ちなら尚更」
……ようするに、お金を積んで融通を利かせてもらおう、ということなのですね。
出かかってた涙が一瞬で引っ込んだよ。
こんな田舎町に移民局なんてものはないから、次にクローがサザナンに行くときに一緒に行って手続きしよう、ってことになった。
なんならそのまま、そこで結婚の届けを出してしまってもいいらしい。
私も一緒に行くんだから馬車を借りることになるし、その分到着までに時間もかかる。それならいっそ途中で一泊するつもりであちこちの町に寄り、名物の食べ歩きをするのはどうだろう。サザナンに着いてからだって、せっかく都会に行くんだしさ、向こうの流行りのお店とか、覗いて回るのも楽しそうじゃない?
そんなふうに楽しい予定を考えながら、近いうちに行こうね、と話し穏やかに過ごしていた私たちの前に、突然『歪み』が現れた。
いつものように、素材を探しに出た朝のことだった。
目と鼻の先に現れたそれに一瞬ビクッとしたけど、もう私には関係ない! そう決めた。
例によって激しく移り変わる景色を目の前に、繋いだクローの手をギュッと握って言った。
「行こう、クロー。こんなの見てたってしょうが……、な……」
言いかけた私の視界には、信じられないものが映っていた。
「あ!? 工藤っ? おいっ! お前今までどこ行ってたっ!! 心配かけやがって!」
ここまでお読み下さって、ありがとうございます。