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魔法使いの嫁<2>

「おま……奥さん意外と頭いいな。考える余地はあるぞ」とクラウス。

意外と、は余計だっつの。


こうして私の魔石は無事買い取ってもらえた。


価格は前と一緒。

数が少ないから、全部で八ペル。日本円にして約八百円(推定)。

クラウスの店を出たあと見かけた小洒落たカフェで、クローと二人軽く昼食を食べ、デザートを食べたらなんと四十ペルもしたもんだから、手の中の八ペルに物悲しさを感じてしまった。


頑張って貯金しよう。

今に見ていろ。いつかきっと私の収入でクローにディナーをご馳走してみせるんだから!


鼻息荒い私を見て、クローは幸せそうに微笑む。

クローの幸せの設定ラインって、相当低そうだ。




さて。サザナンにはしょっちゅう来てるクローだけど、実は観光なんてしたことがないらしい。

じゃあいつもは何をしてたのかといえば、クロー曰く図書館にいたのだそうだ。


彼に教えてもらったところによると、この世界に書籍は多々あれどそれぞれの発行数はごく少なく、その分価格も相当お高目に設定されている。

中には目を剥くほどの値段のものも普通にあるのだと。


新刊を購入できるのはいわゆる金持ちの商人や貴族といった人々で、彼らが手放したものが古書籍として一般に出回るのだけど、それでも庶民が手を出すには躊躇する価格にしかならない。

つまり、買うのは無理だけどどうしても本を読みたいという人や、一般にはなかなか出回らない希少本──金持ちが手放さないような本──を読みたい人は、図書館に通うしかないってわけだ。


図書館の利用は有料で、貸出はしない。その場で読む規則なので、みんな朝一番に来て閉館ギリギリまで粘るのだという。

本が立派な財産として認められている、と聞いた私は青くなった。


だってクローの家には相当数の本がある。

そして私に与えられた、勉強用の何冊もの絵本。


雑に扱ったつもりはないけど、そこまで丁寧に扱った覚えもない。

あんまりたくさんあるもんだから、そんなに貴重なものだとは思っていなかった。


内心ダラダラと冷や汗を流す私にクローは言う。

「本は本だし読まなきゃ意味がない。ガラスケースに入れておいたって本は喜ばないよ。それに、うちにあるのは全部古書籍だからそんなに気を遣う必要もないし、特にエミカに渡した絵本は子供が文字の勉強をする時によく使われる本で、発行数がとても多くて財産としての価値はない。だから──」

クローは悪戯っぽく笑った。「少しくらい落書きしたって大丈夫」


……バレてたよ。幾つかの単語の横に、ちょちょっと鉛筆で日本語を書き込んでたのが。

消せるからいいや、って問題じゃないもんな。


即座に謝らせて頂きました。




ともかくそんなわけで、クローは観光に関しては全く当てになりそうにない。

ふと思いついて昨夜から泊まっている宿に戻り、女将さんに相談してみたら、名所が書き込まれた町の地図を貸してくれた。

七色に光る滝に、サザナンを一望できる高台。この町で一番古いといわれている昔の領主さまが住んでいた邸跡。

町の北にある修道会には宗教画を集めて展示した大広間があって、思った通り中々盛りだくさんだ。


宿の食堂のテーブルに広げ二人で見ていると、町の東の山裾に書かれた怪しいマークに気づく。

「クロー、これ何だろ?」

「ん? このマークは、温泉……かな」

「おお、温泉があるんだっ!」

テンションが上がるのも仕方がない。お風呂と温泉は全く別モノなのだ。


私が初めてこっちの世界に来てからの数カ月は、ずっとお風呂の代わりにクローの清浄(クリーン)の魔法で済ませていた。

理屈はわかんないけど、掃除代わりの洗濯代わりの、お風呂代わりにもなっちゃう便利な特殊魔法だ。


今考えてもどうかしてたと思うけど、あの頃の私は食事とトイレ以外は部屋から全く出ようとしない引きこもりで、当時この便利魔法をあらゆる場面で気軽に使っていたクローは、私のためにも惜しみなく使ってくれていたんである。


ただ本音を言えば、さっぱりはするけど『お風呂に入ったーっ!』 って気はしない。

そんなこんなで、お風呂をちゃんと沸かすようになったのは、私があの田舎町に連れていってもらったあとのこと。これも留守番の練習の一貫として、専用の魔道具を使って私が沸かしていた。


だけど、家のお風呂と温泉じゃ全然違うよね?

クリーンよりお風呂! お風呂よりスーパー銭湯! スパ銭より温泉! これ常識!

これは絶対行かねばなるまい!!



女将さんに詳しく聞いてみると、必要なものは全部温泉横の商店で売っているし、レンタルもあるという。クローと相談した結果、幾つかの名所を回って、最後に温泉に行くことになった。

そして話の成り行きで、女将さんに今日婚姻の届けを出したことを話したら、驚くほど喜んでくれた。

考えてみたらクローはもう十年以上この宿を使ってるって話だし、立派な常連さんだもんな。


ニコニコ顔の女将さんに見送られ、私たちは乗り合い馬車の停留所へ向かったのだった。





サザナンの街なかを、定められたルートで縦横無尽に走る乗り合い馬車。

その乗り心地はといえば、石畳で舗装された道路に加え馬車の性能もあってか、昨日丸一日お世話になったあの馬車に比べれば雲泥の差だった。


今日一日で全部見て回る必要はないってクローが言うので、まずは昔の領主様の邸跡を見学してから高台へ向かう。

サザナンの町を見下ろして、あの辺が宿、あの辺がクラウスの店、と解説してもらった。

こっちの世界にはネオンなんてものはないから、みんな明るい間に登ってくるらしい。


そうして気づいてみれば、こんなに人の多いところをウロウロしてるのに誰一人私たちの黒色に注目しないばかりか、結構あちこちで黒髪・黒目を見かける。

場所が変わるとこんなに違うんだ、と唖然とした。


但し、注目を集めないのはあくまで色の話。私の隣りを歩く彼には、周りのお嬢さんたちからの熱視線がビシバシ注がれている。

クローは全く気づいた様子がないのでありがたく全スルーさせていただいたけどな。


お嬢さんたち、顔ばかり見てないで胸のペンダントもちゃんと見てください。売約済み……いや、もう完売してますから!


歳を重ね、少し痩せて野性味の増したクローは、以前のような甘味が少なくなった分男っぽくなって、正直格好いい。ましてや、そんな彼が少し口元を綻ばせて笑ったりした日には悶絶ものだ。

だからお嬢さんたちの気持ちもわからんではないが、絶対に譲ってやらん!


「クロー、もっと太ればいいと思うよ?」

もっともっと、誰も注目しなくなるくらい。周囲に埋没するくらいに。


突然そんなことを言い出した私に、クローはキョトンとする。

自分を見おろして、「痩せすぎてる?」と聞いてきた。

私が黙って掴んだ彼の服の裾を握りしめたら、困ったように頭をポンポンてしてくれたのだった。




高台を満喫した私たちは、今度は温泉に向かった。

温泉は驚きの混浴だった。それも人のみならず、獣まで。


女将さんの言っていた温泉の隣の商店で、お風呂に入る時に着る丈の短い浴衣みたいなのと、身体を拭くタオルを二人分レンタルする。

温泉は浸かるだけで、身体を洗うのはNGだ。

「今日はいないけど、熊が入りに来たりもするよ」と言ったのは商店のご主人。

げっ、と私が顔を引き攣らせると、「温泉で人が襲われたことはないから心配すんな」と笑われた。


商店に併設された脱衣所で男女に別れて服を着替え、クローと手を繋いで温泉に入ったら、熊はいないけど別のがいて一瞬目を疑った。

浴衣もどきを着ているとはいえ、クローと一緒にお湯に浸かっているのはなんだか変な気分だ。

けどお風呂は結構混んでいて、しかもその三分の一はおサルさんだという衝撃の方が上回っていて、私たちはずっと逆上(のぼ)せたおサルさんのしかめ面を見ながら笑っていたのだった。





外で夕食を済ませ、すっかり暗くなった頃に宿に帰った私たちは、そこでまたしても吃驚することになる。

いつの間にか、宿で一番いい部屋に引っ越しされていたからだ。


女将さんからの結婚祝いだと聞いて、慌てて会いに行くと、「元手が只のお祝いなんだから、気にしなさんな」と笑われた。

そりゃ確かに空き部屋を遊ばせといてもお金にはならないんだろうけどさ。

尚も躊躇する私たちに女将さんは言う。

「一般室のお代だけはいただくからさ。遠慮せずに何日でも使いなよ。長年のご愛顧感謝も込みだ」

それで私たちはありがたく、特別室を使わせてもらうことになったのである。


こういう宿の料金は前払いが原則らしい。私たちは昨日の深夜に着いて二泊分の料金を払っていたけど、今日になって急に観光することにしたもんだから、余分にもう一泊しようと決めていた。その分の料金をクローが宿のフロントに払いに行ってる間に、女将さんがこっそり耳打ちしてくる。

何年も前からペンダントをつけ始めたお客さんなのに、全然楽しそうでもなく奥さんの話も出ないので、密かに心配していたのだ、と。


「婚約期間が長かっただけだったんだね。お客さんのあんな笑顔初めて見たよ」とニヤニヤ私を見る女将さん。

この世界で、男性がペンダントをつけての婚約は、イコール逆プロポーズってことだ。この文化どうにかならんかな。

そういえば、男性からプロポーズしての婚約には何か決まりがあるんだろうか。あとでクローに聞いてみよう。


そう思いながら、戻ってきたクローと一緒に建物の東側の階段をのぼり、三階の部屋へ上がった。当然だが、エレベーターなんてものはないのである。


「特別室ってどんなのかな? 特別っていうくらいだから、きっと豪華なんだろうね。二間続きだって言ってたし、楽しみだよね」

浮かれる私とは対照的にクローは黙り込んでいて、でも機嫌が悪いわけでもない。それくらいは解る。


三階に着いてみるとドアは三つ。一番奥のドアに『特別室』のプレートがかけられていた。




先に立ちドアを開けてくれたクローが差し出した手に、少し照れながら自分の手を乗せる。指先が触れあった瞬間、クローがスルッと指を絡めてきた。

その指先が少し震えてて、思わず手に力を入れると同じように握り返され、そのまま腕を引かれてクローに抱え込まれるように室内に入った。


ドアを閉めると同時に、カチャリと鍵のかかる音。

左手は繋いだまま右手を私の背後のドアにつき、クローは熱を帯びた瞳で私を見つめる。

「……クロー?」


動かない彼を見上げ躊躇いがちに声をかけると、やにわにギュッと抱きしめられた。

「エミカ……。ようやく僕のものになった」


少し掠れた彼の声。耳朶を擽る吐息。


「私、クローのものになったの?」

その背に腕を回しながら、まるでオウム返しのように口にする。

どうしよう、頭がうまく働かない。クローの熱に、吐息にあてられたみたいだ。


「うん。──それにもちろん、僕もエミカのものだよ」


「クローも、……私のもの?」

ゆるゆると喜びが込み上げてくる。朝のものとはまた違う、ほんのりと熱を帯びた喜びが。


──クローは、私のものだ。


「嬉しい……」



思わずポツリと零れ落ちた言葉に、クローが息を呑んだ。


後頭部に手を差し込まれ、誘導されるまま上を向くと唇が重なる。

啄むようなキスを何度も落とし唇を柔く喰み、囁くような声で、彼は私の名を呼んだ。

「エミカ、……愛してる」



熱に浮かされたように何度も唇を合わせ、ふわりと抱きかかえられ寝室のベッドに移動した。

身体を斜めに、向かい合うようにベッドの縁に腰かけると、私の身体の線を辿るように彼の手が服の上をさまよう。止まったと思ったら肩からパサリと布が落ちた。リボンが解かれたワンピースの上半身は腰の辺りにわだかまり、肩や背中、腹部までもが剥き出しになっている。

クローの手が素肌に直接触れてくるのにまだ慣れなくて、なんだか気恥ずかしい。だけどそれより何より、彼とこうして過ごせるってことが嬉しくて幸せだった。

クローもきっとそうだったと思う。


私たち二人は満ち足りた一夜を過ごし、幸せのうちに眠りについたのだった。





そうして彼と手を繋ぎ眠った翌朝、起きてみたら当たり前のようにクローは私にへばりつき、胸に顔を埋めていた。

思い起こせば一昨日も、昨日の朝もそうだったな。もしかして、クローは胸が好きなのかな? 男の人には無いもんな。珍しいのかもしれない。

でも、はたして胸ならなんでもいいんだろうか? それとも小さい胸が好みとか?

どっちも胸だろって問題じゃないよ。この両者の間には暗くて深い河がある。

だって小さい胸が好きなんだったら私でも少しは自信が持てるけどさ、胸ならなんでもいい、となるとサイズはどうあれ全人類の半分についてるんだもんな。


そんなことを考えながら、なんとなく彼の頬をツン! としてみたら、モゾモゾ動いて位置を直すのが無性に可愛かった。



この世界に来たばかりの頃は、こんな結末なんて想像もしなかった。今では、あの元の世界のほうが何かの幻だったような気さえする。

この世界に戻ってこられて、クローと結婚できて本当によかった。彼の無防備な寝顔を見ながら、心の底からそう思ったのだった。




そうしてスヤスヤと眠るクローを堪能しているうちに、目を擦りながら彼も目覚め、早速のように私は特別室を隅から隅まで見て回った。

前の晩は、とうとう特別室の探検をすることができなかったからだ。


ドアを開けたらすぐに広がる居間とか応接間とかいった風情の部屋は、最初の夜に泊まった一般室よりも天井が高くて、豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。

相応に広いその部屋の柱には随所に繊細なレリーフが施され、置かれた家具も優美なフォルムのものばかり。

飾り戸棚の上の壁には精緻な風景を描いたタペストリーが掛けられていて、焦茶の絨毯は毛足が長く歩くたびに靴が沈みこんだ。


寝室はというと、昨夜使用した三人くらい並んで寝られそうな大きなサイズのベッドには、立派なレースの天蓋がついていた。

四隅で綺麗に束ねられてたとはいえ、全く目に入ってなかったよ。

どこを見てたんだ、と言われたらクローを見てたとしか言いようがない。今夜は是非とも使用させて頂いて、お姫様気分で寝ようと思う。

それから寝室にはウォークインクローゼットのドア以外にもう一つドアがついていて、開けると中は洗面所とトイレと浴室だった。

浴室に至ってはいかにも……な、女の子ならきっと誰でも一度は憧れる猫足のバスタブだ。

実はもう二日連続でクリーンの魔法で済ませちゃってるからね。こんなチャンス二度とないかもだし、これも今夜こそ使おう。絶対入ろう。


そうやってうろちょろする私を、クローは呆れ半分の笑顔で見守っている。

「そんなに必死にならなくても、今晩も泊まるのに」

「今できることは今するって今決めたのっ!」


バカなやり取りをしつつ、特別室を隅々までチェックし終えて満足した私は、宿の食堂で朝食を摂りながら本日の予定確認。

「七色に光る滝っていうのは、いつでも見られるわけじゃないみたい。条件が揃った時だけなんだって。天気とか、気温がどうとか。年に数回しかないから、たまたま行った時に遭遇したら、すごく運がいいって女将さんが言ってた」


「じゃあ、行っても見られないかもしれないね」

「うーん、でも行くだけ行ってみたら駄目かな? 運試しにさ」

私がそう言うと、クローは目を丸くした。


「もちろん、エミカの行きたいところに行けばいい。そのために一日延ばしたんだから。ほら、この『ふれあいの里』っていうのもエミカ、好きそうじゃない?」と、地図に指を伸ばす。

「あ、本当。楽しそうかも。でもクローは? クローの行ってみたいとこはないの?」

「エミカと一緒ならどこでも」


クローさん、抑えてくださいーっ。今通りかかった給仕さんが露骨に、暑い暑いって手をパタパタさせて行っちゃったよ。しかもニヤニヤしてたよ。




結局その日、私たちはまず修道会の展示室を観に行った。

絵だけでなく、彫刻や書物、誰のか分からない衣装も展示してあって、クローが説明書きを見ながら教えてくれたけど、わけのわからないダラダラと長い人名と思われるものが続き、さっぱり頭に入らなかった。


辛うじて理解できたのは、この宗教が以前は全く違う形だったこと。今の形に落ち着いたのは百年ほど前の、当時のこの国の王女様が出家されて以来だってことくらいだった。


以前私が田舎町でしてたみたいな、布とヴェールできっちりと髪を隠した女性たちもたくさんいた。

実際に出家した女性は修道会の規定に沿ったシンプルな布を巻き、服を着るから、ああいった華やかな布を巻きつけた人たちは見習いだと、確か以前に教わった気がする。


「あの人たちは見習いなんでしょ?」

それを思い出して言うと、「そうだけど、あの中から実際に出家する人はほとんどいないと思う」と返ってきた。

首を傾げる私にクローは言う。

「あれは、『私は熱心に神の教えを守っていますよ』っていうデモンストレーションみたいなもの。ああしていれば、信心深く慎ましいと思われて良いところに嫁に行けると考えられている」


つまり、婚活の一種ってことか。


「慎ましいフリをしてるってこと? そんな見え見えのに騙される人っているの?」

「フリなのかどうかはわからないけど、独身の女性は大抵一度はやるから、もうそういうものだと皆思ってる」

これも異世界文化の一つなんだな、と納得した私だった。


異世界文化繋がりから、ペンダントの件も思い出したのでついでに訊いてみると、男性側からのプロポーズはOKが出れば即結婚となるから、いわゆる婚約期間というのは存在しないらしい。その場合のペンダントは、男性側が用意したお金で女性が選んで贈るのだそうだ。結納金みたいなもの? でも結局男性に渡すのならそれも違うような……。


首を傾げていると、さらに補足が入った。

男性側は、女性を養えるだけの準備が整ったところでプロポーズするから、OKがもらえればすぐにも結婚するけど、女性からの場合は男性側にその準備ができていない場合も多い。なので、ペンダントは贈ったものの婚約に留まる、ってパターンになりがちなのだという。

なるほど。そういう理由で婚約状態=逆プロポーズってことになるのか。

女性が男性を養うって選択肢はなさそうだった。元の世界でも無くはないけど少数派っぽいもんな。

あれ、待てよ!? じゃあ、婚約期間がやたら長かった私たちの場合、なかなか結婚資金が貯まらなかった。つまり、もしかしてクローが甲斐性なしと思われちゃってるのでは……?

新たに知った事実から思いついてしまった可能性に茫然としていると、クローが私を覗き込み、微笑んだ。「他にも分からないこと、ある?」


こんな会話の後なのに、その柔らかい笑みは私の思いついた可能性なんて全く気にしてなさそうだ。

そして私は、今更どうしようもないことだしクローが気にしてないなら別にいいや、と全てをなかったことにして葬り去ったのだった。



それから、お昼を挟んで向かったのは『ふれあいの里』。

愛玩動物や、本来人に慣れない小動物を飼い慣らして撫でたり抱っこしたりできるようにした施設。

犬や猫はもちろん、ウサギやリス、大きなネズミっぽい奴もいた。家鴨や鶏や山羊とかの、田舎町じゃ普通に飼ってるようなのも混ざってたけど、この辺りでは家でそんなの飼う人はいないから需要があるらしい。


クローの家にも動物はいないし、元の世界でもそんな余裕はなかったから、私は動物には全く縁がないままだった。

他のお客さんたちと一緒に、おそるおそるウサギや猫を抱っこし犬を撫でる私を、クローは柵にもたれ楽しそうに見ている。


「一緒に山羊に餌をやろうよ」と誘うと、緊張した面持ちで手にした草を一瞬で山羊に奪い取られ、愕然としているのが微笑ましかった。




七色に光る滝は、行ってみたけどやっぱり見られなかった。

他の人たちは『今日は気温が』とか『いや、湿度だろ』とか『風向きが』とか言い合っていて、みんなヘビーユーザーなんだな、と感心した。人々は口々に、今度はこれこれこんな条件の時に来るといい、と教えてくれたので、きっとまたいつか再挑戦しようと思う。



楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。


翌朝私たちは女将さんにお礼を言い、サザナンで雇った馬車に乗り込んで帰途についた。

乗り心地二重丸の馬車のおかげで帰りは馬車酔いもほとんどなく、ということはクローの膝にも乗らずに済んだってことだ。

彼は大変複雑な顔をしていたけど、そこは気づかないフリを押し通しておいた。




そして家に着いた翌日、クローは一人で近くの町に向かった。

婚姻の手続きをサザナンでしちゃったから、その証明書を町の役場に提出するためだ。

結局二度手間になったんだけど、その分三日早くクローと結婚できたから別に構わない。



六年もたつのに何もかもあの頃のままの家で、でも私はもう弟子じゃなくて嫁なんだな、と思うと不思議な気がした。

そして、ここ以外の土地で数日を過ごしたことで、私の中にはある決意が生まれていた。

以前クラウスからも言われていたことだ。


ここから引っ越して、別の土地に移る。


一言でまとめれば簡単な話だけど、たかが一年そこら過ごしただけの私でも、この家に愛着があった。それが小さい頃から家族と一緒に住んでいたというクローなら如何ばかりだろう。

ましてやクローには心残りがある。


ところが、だ。


なんて説得したものか、と言いあぐねる私に、クローの方から「引っ越ししようかと思うんだけど、どう思う?」と切り出してきたのだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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