魔法使いの弟子<1>
少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。
「じゃあ、しばらく出かける。戻る時はまた連絡する」
言葉少なにそう言って、彼は小さな袋一つを肩にかけドアを出る。
そんな光景を何度も何度も繰り返し、私がこの国に来てから、もういくつもの季節が過ぎ去っていた。
私がこの世界にやって来たのはかれこれ一年近く前、梅雨に入ったくせに全然雨が降らない、蒸し暑さに苛立っていた六月のある日のこと。
私の実家は田舎ではちょっと羽振りのいい商店を営んでいる。
高校を卒業したら進学せずに都会で働きたい、と就職口を探していた私に、母の再婚相手はなんと永久就職口を持ってきた。
相手は義父が大口の取引をしている会社の社長の甥だという。無理矢理渡された釣書を見た限りでは、四十歳を過ぎててたいした経歴もなく、こんな見合い写真でさえパッとしない男だった。
これ、絶対押しつけられた物件だろ。下手したら事故物件の可能性もありだ。
釣書に離婚歴はなかったけど、あえて書かない人もいるらしい。
もし本当に初婚だとしても、世間が納得する理由もなくこの歳で初婚っていうのなら、それはそれで微妙だった。
当然ながら私は抵抗した。十代の娘にこの相手はない。
だけど拒否は許されなかった。
嫌だ! と言っても、そう言わずに考えろ、という答えしか返ってこない。そのうち、形だけでも見合いをする、と言いだしたので、卒業するまで会う気はない! と突っぱね続けた。
向こうの社長にはお世話になったから、ご恩返しがしたいのだ、と義父は言う。
「ならてめぇが嫁に行けよっ!」と吐き捨て、個人名義の全財産と僅かばかりの荷物を抱えて家を飛び出したのが、かれこれ七~八年前の卒業式の夜。
それきり一度も戻らなかった。
高校卒業時に内定していた会社には、都合が悪くなり就職できなくなった、と謝罪の電話をかけた。足がつくのが怖かったからだ。
高校にも恐らく大迷惑をかけたと思うけど、あのときの私にはどうしようもなかった。
そうして、実家からそこそこ離れたそれなりの都会で、まずは安宿を拠点にバイトを探し、落ち着いてから引っ越した保証人がいらないというアパートを拠点に、今度は正社員の口を探した。
世間の風はせちがらい。
やっと決まった会社では、入社時の提出書類に保証人の記入欄があったりする。
こんな生活で保証人になってくれる人なんているはずもなく、受かった会社にバカ正直に、保証人はいない、と言えば胡散臭いと思われたのか、内定を取り消されたりもした。
そうこうしながらようやく見つけた今の小さな会社は、社長も弛ければ社員も弛い。仕事ぶりも弛く、取引先から怒鳴り込まれるなんて日常茶飯事だ。
なんでこんな会社が成り立つのか、訳がわからなくて苛々する。
社長にも苛々するし先輩にも苛々する。何よりも、こんな会社でしか働けない自分に苛々した。
そんなある日、仕事に行こうとアパートのドアを開けると、森が広がっていた。
ドアのノブに手をかけたまま右手で目を擦り、一旦ドアを閉めた。
「疲れてんのかな?」
独りごとを言いながらもう一度そっとドアを開けると、そこはいつもの光景だった。
狭い廊下に錆びたフェンス。隣の部屋の三輪車がうちの前まではみだしている。
色褪せた三輪車をパンプスの先で静かに押しやり、私は黙って会社へ向かった。遅刻ギリギリだったからだ。
いつも通りの何の変鉄もない日々が続き、あれはただの幻だ白昼夢だ疲れてたんだ、と思うようになった頃、再びそれは起こった。
前と同じく森の中。だけど、二回目ともなれば少しは余裕も生まれる。
ドアから手を離さずに観察する私の目に、木々の隙間から小さな小屋のようなものが見えた。
人がいるのか、と思った。
こんな場所での暮らしはどんなだろう。想像もつかない。
私はそっとドアを閉め、また開けて会社へ向かったのだった。
奇妙な現象はそれからも時折現れた。
そのたびに少しずつ角度や距離を変え、数ヶ月で現れることもあれば、一年ほど間を置くこともあった。
いつも私はドアに手をかけたまま、向こうの世界をただ見つめる。
なんとなく、向こうの世界は私には手の届かない世界のような気がしていた。
仕事で失敗した先輩が、後始末を私に押しつけるなんていつものことだ。失敗そのものを擦りつけられたこともある。
でも文句を言うことはできない。
ここは完全な同族会社で、数人しかいない社員の殆どは縁故で入っている。先輩も然りだ。
揉めごとを起こして馘になるのは間違いなく私だった。
ここを辞めたら他にいくところなんか何処にもない。
元来負けず嫌いな私は、かなりの努力をもってして言いたいことを呑み込み、自分を抑えていた。
だけどその日はなぜか我慢が効かなかった。
繁忙期に加え、連日の後始末という名の残業で疲れていたのかもしれない。もう二十代も半ばを過ぎて、なのに先が全く見えない生活に疲れきっていたのかも。
気づいたら先輩を相手に、上司を、社長を相手に怒鳴り散らしていた。
意識しないまま涙をこぼし、鞄を引っ掴んで、呆気に取られる皆を残し会社を飛びだした。
この前、こんな時間に帰ったのはいつだったか。
夕暮れ時の帰る道々、冷静になるにつれ頭を抱えたくなった。
明日どんな顔をして会社に行けばいい?
考えれば考えるほど、何もかもが嫌になった。
翌日の朝、仕事に行くのが嫌でグズグズする私が開けたドアの向こうに広がる光景は、まるで私を手招いているような気がした。
責任ある社会人としては、ちゃんと出社して昨日のことを謝るべきだ。その結果馘になろうが、筋は通すべきだ。
このドアを一旦閉めて、会社へ向かうべきだ。いつものように。
なのに、どうしても今回だけはドアを閉めることができなかった。
かといって、一歩を踏みだすこともできず立ち竦む私に、突然ドアの影から手が伸びてくる。驚きのあまり言葉もないまま、腕を掴まれ引っ張られた。
恐怖にしゃがみ込むと、腕が自由になる。
おそるおそる開いた目に映ったのが、彼だった。
「悪かった、知り合いだと思って咄嗟に引き摺りこんでしまった。怪我は、ない?」
悪かった、というわりには素っ気ない口調で、でも彼の顔は強ばっていた。
差しだされた、少し汗ばんだ手に縋るようにして立ち上がり、やっと気づく。
ドアから手を離してしまったことに。
振り返った私の後ろには、ただ緑の森が広がっていた。
あの日、呆然とする私を例の小屋へ連れていった彼は、「嫌でなければ、ここで暮らすといい」と言った。
小屋というよりは小さな家だったそこは、思ったよりも広くて快適な作りになっていた。私の六畳と三畳のアパートよりも余程。
漆黒の髪に漆黒のアーモンド型の瞳。形のいい眉に細い鼻梁と薄めの唇が絶妙のバランスで配置されている彼は、勿体ないほど常に仏頂面だ。
そんな彼が私の目を覗き込むようにして、「僕はクロー。君の名前は?」と訊いてくる。
私の名前と似てる、と思った。
だけど、学生時代は漫画も小説もそれなりに読んでいた。
異世界で名前って名乗ってもいいものなのか?
名を奪われて『支配』されたりしない?
つまらない先入観で一瞬躊躇うと、彼はそれを正確に読み取ったようだった。
「別に言いたくなければ言わなくてもいい。多分不自由はないだろうから」
そうして私は彼に名乗ることもせず、どうすればいいのかもわからないまま、幾つかあった空き部屋の一つを使わせてもらうことになった。
とはいえ着の身着のままだ。
通勤用の鞄はどこにも落ちてなかったから、恐らくアパートに置いてきてしまったんだろう。
部屋に据えつけられていたベッドには硬いマットレスのみで布団もなく、案内されたときのままがらん洞の部屋で途方にくれていると、ドアがノックと同時に開いた。
現れた彼は部屋を見まわし、首を傾げ、「少しどうにかしようか」と呟く。
どこか別の部屋でガタガタと音がした。
ほかにも誰かいるのか、と怯えた私に彼は、「今寝具を運んでくる」と言った。
──誰が?
てっきり誰か別の人が運んでくるのかと思ったら、布団はひとりでにフワフワと飛んできた。
柔らかい色の敷物も飛んできて床でコロコロと広がった。
その間ベッドは三十センチほど浮き上がっていた。
クローゼットのドアは勝手に開き、どこかから飛んできた衣服やタオルといったものが整然と収まっていく。
「服はとりあえず、僕の小さくなったものを使って。そのうち君に合わせたものを用意するから」
全てが当たり前のような顔で進められていった。
どうやら私はとんでもないレベルの魔法使いの家に、居候することになったらしい。
この世界で魔法使いというのがどういう立ち位置にいるのか、私は知らない。
この近所に他に家はなく、彼は文字通りの独り暮らしだった。
世話になるのだから、となにか手伝おうとしても、なんでも魔法で片づけてしまう彼に私の手助けは必要なく、勝手のわからない私は却って邪魔になってしまう。
たとえば食事の支度も魔法で。
野菜を剥くのも切るのも魔法なら、火加減も魔法。食器や調理器具は清浄という魔法を使うと洗ったようにきれいになる。この魔法があれば、洗濯もお風呂も必要なかった。
私は食事以外の時間を、日がな一日部屋のベッドで過ごした。
何もすることがない。
食べて寝るだけの生活。
御主人様を癒すこともしない私はペット以下の存在だった。
会社勤めをしていた頃、特に繁忙期となると、休みの日以外は睡眠時間と移動時間を除いたほとんどを会社に捧げていた。
別に捧げたかったわけではなく、残業に次ぐ残業で結果的にそうなっていただけだ。
それが突然何もすることがない生活になって、段々自分の心が干からびていってるのがわかった。
誰にも必要とされない、存在価値のない自分に嫌気が差す。
かといってこんな訳の分からない世界で何をどうすることもできず、日ばかりがズルズルと過ぎていった。
彼が「魔法の修行をしてみない?」と言いだしたのはそんな頃だった。
この世界の魔法使いは黒を纏っているものらしい。それも魔力が強ければ強いほど色が濃くなる。
それなら髪も瞳も漆黒のクローは、やっぱり相当すごい魔法使いなんじゃない? 名前までクローだもんな。
首を傾げる私に彼は言った。
「その黒さなら君にも魔法が使えると思う」
………。
確かに、染めたこともない私の髪は真っ黒だ。だけど、魔法なんてあり得ない世界からきた私が、本当にそんなものを使えるんだろうか?
困惑する私に彼は重ねて言った。
「修行、してみる?」
何もしない生活に疲れきっていた私は、ものは試し……とやってみることにした。
こうして私は、役立たずのペット以下の居候から、魔法使いの弟子へとジョブチェンジしたのだった。
だけど『魔法使いの修行』がなにを指すのか、当然私は何も知らない。ずっと部屋に引き込もっていたので、彼が昼間何をしているかも全然知らなかった。
「午前中は僕の仕事の手伝いをしてもらう。昼からは魔法の修行。まずは自分の魔力を感じるところからやってみるから」
まるっきり雲を掴むような話をされた。
顔をしかめる私にクローは、「始めないと何も変わらない」と相変わらず素っ気ない口調で言う。
それでも彼は私に根気強く仕事を教えてくれた。
午前中はクローと森へ入って素材を探す。
ナフタリアという乳白色のツルンとした石だ。
仄かに発光するそれは、地面の下に埋まっている。
薄暗い森の中で、棒の先で下生えをかき分けながらほんのり光る所を探し、見つけたら掘る。石といいながらも脆い材質らしく、壊さないよう慎重に。
私が半日がかりで二つ三つ見つける間に彼はその三倍は見つけているので、感嘆の視線を送ると「コツがあるんだ。すぐに覚える」とそっぽを向いた。
少し照れくさそうに見えたのは気のせいだろう。
集めた素材を持ち帰って昼ご飯を食べたら、彼は作業机でそれに魔力を注ぎ始める。
魔力をたっぷり詰めたその石は透明に変わり、魔石として町の魔道具屋さんに売るのだそうだ。
魔道具屋さんではそれを、自分のところの商品に取りつけて売ったり、お客さんの家の魔道具の、魔力が枯渇した石と交換したりする。
ある程度使えば壊れてしまう消耗品だから、需要は幾らでもあるらしい。
この家ではクローが自分の魔力ですることを、世間では魔石を使ってするものらしかった。
クローがその作業をしている間、私はその脇に椅子を置いて座り、ひたすら魔力とかいう未知の存在を感じる努力をする。
二十六年生きてきて、そんなもん欠片も感じたことはない。でもそれを言ったらお終いだってことくらいはわかる。
それにここは異世界だ。
もしかしたら本当に私にも魔法が使えるようになる、のかもしれない。そう思わないとやってられない。
「ほら、集中が途切れてる」
こっちを見もせずに彼は言った。
魔力は身体のどこにでもある。
自分の意識しやすい場所で一度でもそれを見つけたら、それで全体の魔力を感じるコツが掴める、らしい。
私は右手人差し指の先に集中する。
今日でもう六日目。
相変わらず魔力の『魔』の字も感じなかった。
第一話、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。