008 賢者の秘奥
◇
「――誰だッ!?」
扉を開けたベルに向かい、ジェフリーが叫ぶ。
その声に、立ち尽くしていたベルは台座に寝かされているルシードから視線を上げた。
「お前は誰だッ!? どうやってここへ入って来たッ!?」
問いかけられたベルに表情はない。
ただ、
「馬鹿弟子め……お主がワシの死を知ると悲しむと言ったように、ワシもお主の死を悲しまんわけがあるまい。これではなんのために別行動を取ったかわからんではないか……」
ジェフリーに聞こえないほど小さな声で、呟くに終わった。
「お前は誰だと聞いて――ッ!?」
ベルに詰め寄ろうとしたジェフリーは、ベルによって睨めつけられて息を呑む。もはやジェフリーから問いかけることはできそうにない。
「……お主がやったのか?」
「な、何……?」
ベルの問いかけに思うところは多い。だからこそ、ジェフリーは何を言っているのかと問い返す。
「ルシード。そこに寝ておる少年のことじゃよ。お主が……殺したのかと聞いておる」
「……ルシード?」
ルシードの名を出されたジェフリーは疑問符を浮かべたが、
「そうか、この少年の名か!」
すぐさまベルが台座で寝かされている少年のことを言っているのだと察し、おおいに笑う。
「はははっ、この少年はすごいぞ! この少年さえいれば私の妻と娘は――」
そしてルシードの素晴らしさについて語ろうとしたその刹那、
「……お前は誰だ? 私の家で何をしている? ……私の妻と娘はどこだ?」
真顔に戻ったジェフリーは、そこにベルがいることなど忘れたかのように動き出したかと思うと、今初めてベルに気づいたかのような疑問を口にした。
「……お主、何を言っておる? お主の妻と子は事故で――」
「お前こそ何を言っている!? 妻と娘はさっきまで私と……ぐっ、や、やめろ、事故、事故だと!? そんな簡単な言葉で私の妻と娘を片付けるな! どうして私なんだ! どうして私から妻子を奪う!? どうして――」
ベルの言葉を否定しようとしたジェフリーは頭を抱え、思い出したくないことを思い出してしまったかのように涙を流して激昂する。
男は――ジェフリーはすでに狂っているのだ。
時には妻子がそこにいるかのように何もない空間に話しかけ、時には姿の見えない妻子を延々と捜し回り――現実に戻っては涙する。そんな状況を幾度となく繰り返し、絶望の中でジェフリーは狂い続けていた。
もはやジェフリーの記憶には、都合の良いものしか残らないほどに。
「……よもや人として戻れぬところまで狂っておったとはな」
そんなジェフリーの様子に苦虫を噛み潰したような顔をしたベルは、部屋の中へと踏み入れる。
「そうだ。こんなことをしている場合ではない。私はいったい何をしているのだ……必要なものは揃っているではないか。早く施術に入り、あの子たちを蘇らせねば……」
再び現実に戻ったジェフリーが動き出し、ルシードに手を伸ばすも――
「な、なんだこれは!?」
レアが施した結界に阻まれ、触れることができない事態に驚く。
すでに研究の完成を遅らせるレアの存在も弊害を生むものでしかないと判断しており、誰が結界を施したかも覚えていない。
「いったい誰が……な、なんだお前は!? まさかお前の仕業か!? 私の研究を盗みに来たのか!?」
またしてもベルの存在を忘れたジェフリーは、部屋の中にいたベルに目を向け、怒りを露にする。
「これ以上は言葉を交わすだけ無駄なようじゃな。……ならば、力づくで終わらせる他あるまい」
一歩前へと出るベルに、ジェフリーはルシードを奪われまいとベルの正面に立ちふさがり、
「――出て来い、侵入者を排除しろ!」
手近にあったフラスコを手に取ると、中の液体を床へ撒きながら、命じるようにして叫んだ。
「……そう簡単に終わらせてはくれぬか」
前へ出ようとしていたベルは後方へ跳び、床に染み渡る液体が床と結合、人の形に隆起する様子を眺めて待つ。
「ゴーレムか。手順を省略した上に、真理の文字がないとはの……床下に魔石を散りばめておったか。どうやら中核に使うことで、新たな利用法を見つけたようじゃな。その歳で魔道にも通じておるとは……本当に惜しいものじゃ」
土をこねなければ呪文を唱えもしない。更には真理の文字を必要とした様子がないゴーレム。それは、今の錬金術レベルでは絶対に到達しないであろう領域だ。
「この程度ならば障害にすらならぬが……ここで戦うわけにもいかぬか」
床から起き上がったゴーレム。その大きさは二メートルほどだ。
相手をすることはたやすいが、この部屋にはルシードがいる。それなりに広い部屋であることに加え、結界で守られている様子だとはいえ、戦いの余波で破壊してしまわないとも限らない。
ベルは今もフラスコの中身を振り撒き、数を増やし続けるジェフリーを一瞥し、部屋の外へと移動、通路へと出る。
「さて……」
ベルを追う形で部屋の外へと飛び出してきたゴーレム目がけ、ベルは手始めに風を手のひらへと生み出し、真空の刃として放つ。
「やはり真理の文字がないところをみるに、一筋縄ではいかぬか」
風の刃はゴーレムの四肢を斬り飛ばしたものの、攻撃など受けなかったかのように再生し、ベルに向かって歩みを止めない。
「当然だ。賢者ですら手が出なかった代物だぞ? 小娘一人に何ができる!」
ゴーレムに取り囲まれたジェフリーは、成し得た偉業を誇るようにして両手を広げる。
「ふん。男の賢者程度と同格に見られたとは舐められたものじゃな」
ベルからしてみれば、現代魔法を使う男の賢者など、魔法を使わずとも文字通り指先一つで倒せる相手だ。
名乗っていないとはいえ、そこまで下に見られて黙ってはいられない。
「ならば、本当の魔法というものを見せてやろうではないか」
それに何より、冷静を保ってはいるが、ルシードを殺された怒りもある。
ベルは白いコートを翻すように腕を振り、指をパチンと鳴らすと――
「とりあえずはこんなもんかの」
狭い通路の壁を掘り起こし、広大な広間へと変貌させた。
「……なんだ? 何をした? 今のは魔法……? いや、そんなはずはない。何かの魔道具か?」
自分がいた部屋とは反対側の部屋が壊滅的な状況にもかかわらず、ベルが起こした現象が信じられないとばかりにジェフリーは目を見張る。
「私の研究に役立つかもしれない! 今の現象を起こした魔道具をよこせ!」
もはや古代魔法を目にする者は少ない。それはジェフリーも同じで、魔法でなければ魔道具による現象だと考えたようだ。
周囲を守るように立っていたゴーレムたちをベルへと向かわせ、広くなった通路に、これ見よがしにフラスコの中身を振り撒き、新たなゴーレムを次々と作り出していく。
「そう焦るでないわ。ワシにも準備というものがある」
襲い掛かるゴーレムたちの拳をすぬりと抜けるようにして距離を取ったベルは、
「弟子の弔いじゃ。少しばかり……本気を出すとするかの」
悲しいげな顔を少しだけ伏せ、両手に集めた魔力で――空間を歪め始めた。
「今度はなんだ? 何をしている? ……ゴーレムたちよ、何が起こるか見てみたい。動きを止めろ」
ジェフリーはベルを追撃すべく動き出していたゴーレムに新たな命を出し、目を細めて注視する。
そして、一つ、二つ、三つと、目に見えて歪む空間に、何が起こるのかと眉根を寄せ、
「――双子? いや、違う。これは……何が起こっている!?」
自分の理解が及ばない相手を敵にしているのだと、今になって思い知る。
「ふむ、急な呼び出しに何事かと思えば……まさか戦っていようとはな」
「クハハ、この魔法で呼び出されるのも久しいの」
「ワシらを召喚するほどの相手ではないように見えるが……さて」
ベルが捻じ曲げた三つの空間。
そこから順に現れたのは――三人のベルだった。