Last Letter
Last Letter
(『First Letter』挿入小説 : 北瀬智尋 作)
(第一章)
―――――夢を、見ていた。
ゆっくりと瞼を持ち上げて、目を覚ます。
眠っていたというのに、今日はやけに憂鬱だった。
怠さを感じた身体は、とある並木道沿いのベンチの上にあった。
よく晴れた、心地の良い気候。
青空を仰ぐと、雲ひとつない透き通った空色に重なるようにして桜の花が見えた。
満開の桜の樹の下のベンチの上。
私はいつから此処にいたのだろう。
そんな些細なこと、然れども、どうでもいいことに思える。
鉛のような身体を起こすことも億劫で、無気力のまま桜を見つめた。
何時間、此処に留まっていただろうか。
不意に、右の方から足音が聞こえた。
木々が風に揺れる、自然の音に満たされていたというのに、その足音はやけに甲高い。
ちょうど上を見続けるのも飽きてきた頃だったから。
だんだん大きくなる足音の方へ目を向けると、女性がひとり、こちらへ向かっていた。
長い髪を風になびかせて、ゆっくりと、一歩一歩、進む姿。
私は、それがとても綺麗だと思えた。
その女性は私の前を通り過ぎで去ってしまった。
挨拶くらいすればよかった。一抹の後悔が残る。
―――――翌日。
目が覚めると昨日と同じベンチに座っていた。
相変わらず満開に咲き乱れた桜は美しい。
けれど、それ以上に美しいと思えた、その女性が現れた。
軽やかな足取りで。昨日と何も変わらず雅に。
「―――こんにちは」
彼女が、目の前を通り過ぎようとした、そんな刹那。
意を決して声を絞り出す。このひと言に心臓は早鐘を打つように加速した。
「こんにちは」
短い返事。ふっ、と柔らかく微笑んだ彼女は私を見ると、また去ってしまった。
その背中を見送って、小さく決心する。
もしも明日も会えたら―――、明日は二言、話をしよう。
(第二章)
――――――翌日。
桜の樹の下で目覚めて、彼女に会う。
「こんにちは。……良い天気ですね」
「こんにちは。ええ、そうね」
微笑んで、頷く彼女も素敵だった。
明日は三言、話をしよう。三言、話せた翌日には四言を。
それが達成できれば翌日にはひと言ずつ増やし、さらに翌日にひと言増やす日々が続く。
彼女はいつも穏やかな顔で微笑んでいた。
私との会話にも嫌な顔ひとつ見せなかった。
だから、もっと長く、彼女と話がしたいと思ってしまった。
そう思って、恐る恐る最後に付け加えてみた。
「良かったら、隣に座りませんか?」
口調の柔らかな彼女が、笑顔で頷く姿が容易に想像できた。
そう考えていたからこそ、私の心の中は、暗く翳ってしまったと思う。
その美しい女性は言った。ゆるやかに微笑んで。
「―――いやよ」
そうして私は取り残されてしまった。
翌日も多くの言葉を交わして、最後に昨日と同じ台詞を口にする。
昨日は悲しかったけど、諦められなかったから。
「―――いやよ」
私の心が荒んでいくのが、手に取るようにわかった。
普段の会話中に彼女は決して否定することはなかったのに。
「隣に座りませんか?」と誘った時だけは、拒絶する。
何度も、何度も、何度も、何度も。
言葉数は増えるというのに。
「―――――いやよ」
揶揄されていると思えた。でも彼女の朗らかさから、そんなこと考えられない。
なら、どうして。
去り際の後ろ姿を追うようにして見つめる。
嗚呼、今日も行ってしまった………、そう思った刹那のことだった。
満開だったはずの桜が大きく揺れて、花弁が宙を舞う。
髪や肌に花弁を掠め、息が止まりそうな光景。
景色が桜色に薄めいた瞬間。
その女性は振り返っていた。
優美な笑みをつくって、目尻に涙を溜めて。
私の方へ見返って、さらに色濃く微笑むと、ついに涙は頬へ滑り堕ちる。
微笑んだまま彼女の唇は小さく動く。まるで最期のメッセージのように。
それを見た時、私は地面を蹴っていた。
あんなに倦怠感に苛まれていた身体とは思えないほど、勢いよく駆け出していた。
その綺麗だと思った女性の元まで走った。
ただ無心で、がむしゃらに。
自分の短い腕を必死になって伸ばした。
彼女に届きたいと強く願った瞬間、視界は白く染まる。
(第三章)
次に目が覚めた時、視界は真っ白な天井だった。
冷たく乾いた空気漂う中、視界の端に桜の樹はない。
幾分経って、此処が病院であることを知らされた。
目覚めて、状況を理解することは思ったより容易く、我ながら驚いたものだ。
ただ、何も変わらず、憂鬱なままだ。
目を閉じれば広がる風景があった。
消せないほど脳裏には焼き付いていた。だから、またあの女性に会えると思った。
けれど何日も、何日も、何日も……どれほど待っても、あの女性は現れない。
瞼を閉じた先には質量を増した暗闇しかない。
絶望感に苛まれる。憂鬱以上にそれは重たい。
あの女性を思い描く。
最後になんて言ったのだろう。
置き手紙のように、最後にどんな言葉を残したのだろうか。
会いたい。会って話がしたい。あんな泣き顔をさせたくない。
彼女に届きたくて、彼女の光に似た色に触れたくて、必死で手を伸ばしていた。
私は思う。もう待ち続けるのではなく、――――あの女性に会いに、行きたい、と。
それはまるで、果てなくも、儚い、小さな願望。
けれど、気付けば彼女に寄り添いたいと思うだけで、私は立ち上がっていた。
立って歩こうと思えた。
生きていれば、きっと会えるはず。
希望を胸に抱いて、春を目指して、私は再び歩み始めた。
『 Last Letter 』 END