シニアの戯れ44
世の中馬鹿で、私も馬鹿で、それを蔑めば己を蔑むこととなり、バカボン、そんな阿保現象が自分の心の証ならば、それこそ生きている証で、喜びか?(^0^)/
私は愚かで馬鹿だと思う。(^0^)/
ならば馬鹿とは何だ?
ここまで論理展開をして来て、私が措定する馬鹿の定義を簡略に説明しよう。
歪んだ差別偏見の構造意識に毒され、一面的な物の見方しか出来ない愚かしさという事になる。
だから私もそうだから、私は己を馬鹿だと言っているわけだ。(^0^)/
しかしだ。
もう少し自分なりの論理展開をして行こう。(^0^)/
私の心の反映が目の前で展開される愚かで阿保な現象ならば、それは私の心の反映であり、私自身の心の証左なのだから、それを蔑めば、己を蔑む事になるわけだ。(^0^)/
つまりこの世に差別偏見の構造意識に裏打ちされた馬鹿?という概念があり、それに遭遇する人間は皆馬鹿という事となる。
そこで大切なのは、自分の愚かしさに気が付いた時、その愚かしさを矯正出来るかどうかの問題となるわけだ。
この情念とも言える心の変革をなしえた者だけが真の意味での覚者となると思う。
それが古くは仏陀、新しいところで言えば、マザーテレサやシュバイツァーのような偉人になると私は思う。
陳腐になるが、彼等こそ、真の意味での愛と慈しみに知覚した賢者だと断じたい。
転じて私はやはり愚かで馬鹿だと思う(^0^)/
だが私は自分が馬鹿だというのを喜びとなす馬鹿だ。(笑)
そして私は世の中の差別偏見の構造意識に毒された、その愚かな現象を我がものとして、それを変革しようとする脳梗塞阿保老人なのだ(^0^)/
お笑い草か(^0^)/
諸兄よどう思う(^0^)/




